「岡山芸術交流2022」が、9月30日から11月27日に開催される。岡山市で3年ごとに開催されてきた「岡山芸術交流」は、今回で3回目。岡山城周辺エリアの様々な歴史文化施設を会場に、アーティスティックディレクターとしてアーティストのリクリット・ティラヴァーニャを迎える。参加作家は、13か国から28組。アーティストの選考は、 総合ディレクターの那須太郎(TARO NASU 代表/ギャラリスト)と、アーティスティックディレクターによって行われた。
「岡山芸術交流」の特徴は、まず地方都市の比較的コンパクトなエリアに作品を配置していることだろう。来場者は徒歩や交通機関を使い、だいたい1日で会場を回ることができる。もうひとつは、市民・県民に向けたパブリックプログラムを重視していること。そしてアーティスティックディレクターに、国際的に活躍する現代アーティストを迎えていることだ。第1回のリアム・ギリックは1960年代以降のコンセプチュアル・アートの流れを強く意識させるキューレーションを行い、第2回のピエール・ユイグは、アートと科学、人類学、テクノロジーなど多領域の知を結びつけ、ノン・ヒューマン(人間以外の存在)とも協働するような有機的なつながりを会場全体に生み出した。
第3回となる今回のタイトルは、「僕らは同じ空のもと夢をみているのだろうか(Do we dream under the same sky )」。リクリット・ティラヴァーニャは公式サイトにて、「この数年間、世界的パンデミックに加え、アメリカ国内の白人至上主義や世界各地のナショナリスト的ポピュリストの趨勢が強まってきたという背景を踏まえて、私はこの展覧会を私たちの意識や視点を変革するものにしたいと考えています」と本展の意図を記している。
本稿では、前半では内覧会で訪れた各会場の作品や見どころを紹介するとともに、後半は記者説明会の様子をお伝えする。質疑応答ではTokyo Art Beatから総合ディレクター、アーティスティックディレクター両氏に対し、芸術祭の運営見直しを求める市民団体の要望に関する質問を行い、回答を得た。
16組が展示を行う旧内山下小学校は、本展のメイン会場。まず目に入るのは、旧小学校の校庭部分に広がる一面の芝生だ。ここではリクリット・ティラヴァーニャによる芝生アートがクラウドファンディングの力を借りて実現。タイトル「Do we dream under the same sky」の文字が、芝生に刈り込まれた。「学校という普段限られた人しか入れない空間を、芝生化することで地元の人や子供たちが自由に出入りできる場所にしたい」(公式サイトより)という思いが込められているという。
アルゼンチン、ブエノスアイレス生まれのタイ人アーティストであるティラヴァーニャは、1990年代から注目を集め、世界の現代アートを牽引する存在のひとりとなった。作家を一躍有名にしたのは、パッタイやカレーといったタイ料理をギャラリーなどで鑑賞者に振る舞い、そこで生まれるコミュニケーションや空間自体を作品として提示するという、従来の「アートの展示」を覆す方法だ。こうした作品は『関係性の美学』を著したニコラ・ブリオーに取り上げられ、「リレーショナル・アート」の代表的作家と見なされるようになった。
そんなティラヴァーニャのカレーを、ここ岡山でも食べることができる。岡山にある料理店「キッチン かいぞく」とのコラボレーションによるキッチンカーが校庭に現れ、「えびめしとタイマッサマンのコラボレーション キッチン海賊とリクリットティラバーニャのレシピ」を販売する(1300円)。注文後に食事を受け取ると、まずその器の重みと手への馴染み、そして美しい木彫りの蓋にうっとり。これも、伊勢﨑州(備前焼)・スミス 一三省吾・木口 ディアンドレ(烏城彫)による作品だ。青いパラソル状の構造物が心地よい憩いの場をつくるゲルト・ロビンス《リセット モバイル(スカイ)》のもとで、ゆっくりカレーを味わいたい。
その横にあるプールには、巨大なクマのぬいぐるみが登場。プレシャス・オコヨモンの《太陽が私に気づくまで私の小さな尻尾に触れている》だ。鑑賞者に見下ろされるクマは一見可愛らしいが、どこか不穏だ。白い下着を身につけた無防備な姿を晒し、そのポーズは服従を示唆している。作家は「サイコナルシス」という言葉を使いながら、幼少期の感情や「怖い」という感覚、暴力、欲望、成長ともに失われてきたもの、といった要素が本作に込められていると語る。
プールサイドの奥には、ニューヨーク在住の大丸隆平が創立したファッショ ンブランド、OVERCOAT(オーバーコート)の展示がある。ティラヴァーニャとコラボレーションした作品「COME TOGETHER」だ。大量の衣類が作られては廃棄されているという現状を受け、それらを買い取った衣料廃棄物と、OVERCOATがこれまで用いてきたオーニング素材(商業建築のひさしなどに使われる布地)を組み合わせて制作された。
校舎内には、教室の空間を使ったインスタレーションや映像作品などが展示されている。1階では、カンボジア生まれ、台湾拠点のヴァンディ・ラッタナによる映像作品が存在感を放った。1980年生まれの作家はクメール・ルージュ後のカンボジアで育ち、その国に刻まれた凄惨な暴力の歴史に迫る作品を制作している。
2階に上がると、映画監督としても知られ今年は「あいち2022」にも参加しているアピチャッポン・ウィーラセタクンの新作インスタレーションや、同じく「あいち2022」にも参加しているニューヨーク拠点の笹本晃による天気予報をモチーフにしたバーのインスタレーションなど、日常と非日常が曖昧になるような空間が鑑賞者を待っている。
島袋道浩は、母親が岡山県出身でさらに内山下小学校の卒業生だという。海外での生活を経て故郷に戻ってきた作家が、岡山県の後楽園で幼い頃に遊んだ白鳥のボートが昔と変わらずにそこにあるのを見つけ、その白鳥ボートを海に連れていくという映像作品《白鳥、海へゆく》(2012、2014)が、小学校の校舎に美しい詩情をもたらす。
廊下に吊られた黒い布と電球の装飾に誘われ扉の奥に入ると、魔術的な空間が現れ、暗がりに照らされた様々なポーズの背中と出会う。2020年に木村伊兵衛写真賞を受賞するなど注目を集める気鋭の作家、片山真理の展示だ。自らの身体を模した手縫いのオブジェを制作し、それらとともに演出された空間でセルフポートレイト撮影してきた作家は、本作で、自らの体と愛について一層研ぎ澄まされた表現を見せる。ステートメントには「障害者」「女」「母」といったいろんな「タグ」を付けられ、まなざされ、一方的に扱われてきた経験が綴られているが、本作で立ち現れる身体は、受動と能動の合間で強い存在感を放っている。
もうひとり、身体について様々な感覚を呼び起こす作品を発表するのが、メキシコ出身のバルバラ・サンチェス・カネだ。「マッチョ・センチメンタル」を独自に提唱し、ジェンダーの枠を超えた作品を通じて、メキシコに対する伝統的なイメージや、女性性・男性性といった規範に抵抗してきた。《悪臭の詩》は皮を用いた作品で、人を容易に差別へと向かわせる「皮膚」とアイデンティティとの関係を鑑賞者に想起させる。腐敗から再生へと向かう生のサイクルや、人間の肉欲、暴力をいかに打破できるかといった問いも含んでいると作家は語る。
オーストラリアのアボリジナルな現代アーティストとして国際的に評価されるダニエル・ボイドは、印象的なドットに覆われた作品群を発表。これらはポスト・コロニアリズムの観点から先住民をめぐる悲惨な歴史や文化的ジェノサイドに言及するものだ。
屋内外の2か所で展示するニューヨーク在住のアジフ・ミアンは精霊ジン、妖怪、幽霊といった存在を、テクノロジーを用いた手法で表現。実像と虚像を揺さぶり、権力による個人の監視といった政治的問題にアプローチする。
体育館に移ると、曽根裕による滑り台状の巨大な作品《アミューズメント・ロマーナ》が、広い空間を占めており度肝を抜かれる。鑑賞者は実際に作品の中に入り、滑ることもできる。
その奥には、ティラバーニャの作品《無題2017 (オイル ドラム ステージ)》が。大理石などの石工で知られる福建省にある曽根のスタジオで制作されたというこのステージで、地元の老舗ライブハウスであるペパーランドのプロデュースのもと、会期中150組のバンドが演奏する予定だという。内覧会が行われた29日には、大和田俊を中心に、木村匡孝、曽根裕、村岡充らアーティストで構成されるバンドUntitled Band (Shun Owada and friends)がライブを行った。
岡山県天神山文化プラザの1階では、フィリピン出身の国際的アーティストであるデヴィッド・メダラ 、サウスカロライナ州コロンビア生まれのジャコルビー・サッターホワイト、そしてメキシコ出身のアブラハム・クルズヴィエイガスが作品を展示。なかでも異様な存在感を放っていたのはクルズヴィエイガスの作品だ。現代アートの展覧会の一般的なイメージとはかけ離れた、「絆」「栄華」「乱闘」といった大きく力強い墨文字。《無題の書道コンテンスト》名付けられたこれらは、地元の書道家や高校生たちとともに制作されたという。
地下1階は、リクリット・ティラヴァーニャによるキュレーションの「インデックス展」。小さく区切られたブースに参加作家の小作品などが展示され、本展を一望するようなインデックス=目次の役割を果たす。展覧会の内側にいながら、展覧会を相対的に捉えようとするリクリットの試みだ。
建築家の岡田新一が設計中に中近東各地を旅し、バグダット北部のモスクの塔からデザインの手がかりを得たというオリエント美術館。魅力的な空間に古代オリエントの美術品が並ぶ展示室のなかに、現代アーティストたちの作品と円空仏が配置された。
バングラデシュ、ダッカ生まれのラゼル・アハメドは、映像作品《誰がタニヤを殺したか》を出品。本作はダッカで行われたクィア・ドラァグショーを撮影した個人的なアーカイヴヴィデオに端を発しており、この映像に映る友人・トノイがアルカイダの襲撃で殺害されたという出来事をもとにしている。フィクションとして制作された映像作品は、クィア・ドラァグショーの準備としてメイクアップしたり身支度する人物たちの姿を映しながら、迫害される難民としての苦悩や互いへの疑心暗鬼といった心情がモノローグで重ねられる。
フリーダ・オルパボはノルウェー人の母とナイジェリア人の父の間に生まれた。Instagramをはじめとするオンラインプラットフォームから取得した画像をコラージュした人物像は、黒人女性が性的特徴を過剰に付加され、好奇の目でまなざされてきた歴史を暴く。人種とジェンダーの複雑な関係性をテーマに、インターセクショナルな視点から制作されたイメージだ。
ブラジル出身で新具体主義(ネオ・コンクレティスム)の中心的存在として知られる物故作家、リジア・クラークの小型オブジェも展示されている。 またソウル出身の梁慧圭(ヤン・へギュ)は吹き抜け空間に、無数の鈴を幾何学的なパターンで編んだ作品を設置した。
梁慧圭(ヤン・へギュ)は、岡山神社でもペーパーカッティングの作品を展示。またカリフォルニア州サンノゼ育ちのミー・リン・ルが、地元のダンサーとコラボレーションした映像を展示するほか、アブラハム・クルズヴィエイガスのインスタレーションもある。
中国を代表する映像作家、王兵(ワン・ビン)の作品と、アート・レーバーとジャライ族のアーティストたちの作品を展示。後者はサオ・グエン・ファン、トルーオン・コング・トゥン、アレ・クィナン・タンで構成されるコレクティヴで、ホーチミン市を拠点に活動している。庭園に設置されたサウンドインスタレーションは、風に吹かれるなか、心地よい音色で鑑賞者を癒す。
岡山城の敷地には、電子音楽の作曲家・アーティストとして国際的に活動する池田亮司の作品が登場。そのサウンドは岡山城の周辺まで響き渡る。とくに周囲が暗くなり始める夕暮れどきに見ることをおすすめしたい。
このほか、石山公園、シネマ・クレール丸の内、岡山後楽園(観騎亭)、岡山天満屋(表町商店街側ショーウィンドウ)が会場となっている。また会期中は各所でパブリックプログラムが予定され、アーティストトークや地元団体による対話型鑑賞、学生グループによる新聞発行、一般公募企画などが行われる。詳細は公式サイトで確認してほしい。
29日午後には、岡山市立オリエント美術館にて記者会見が行われ、総合ディレクターの那須太郎氏、アーティスティックディレクターのリクリット・ティラヴァーニャ氏、パブリックプログラムディレクターの木ノ下智恵子氏(大阪大学21世紀懐徳堂准教授)が登壇した。
Tokyo Art Beatはこれまで、市民団体「岡山芸術交流を考える市民県民の会」から岡山芸術交流の運営組織に、陳情や要望が提出されていることを報じてきた(経緯)。要望は、石川康晴氏(公益財団法人石川文化振興財団理事長)が務める総合プロデューサーの人事や、会場使用をめぐり、芸術祭の基本コンセプトの見直しを求める内容だ。27日に「「岡山芸術交流2022」への市民からの陳情・要望について、実行委員会への質問と回答」という記事を公開したが、今回、記者会見での質疑応答で、那須氏とティラヴァーニャ氏に見解を求めた。質問内容は以下の通り。
「記者会見の冒頭で(那須氏より)『過去2回を経て今回はより鑑賞者とのコミュニケーションを重視する展覧会を開催しようというのが目標』『地元の方々に開かれた展覧会になっている』とのお話がありました。いっぽうで、市民団体からは芸術祭の見直しを求める要望が出ています。これは市民の参加を求める作品やプログラムのあり方とも無関係ではないと思いますが、どのような見解をお持ちでしょうか」。
これに対しティラバーニャ氏は「私は市民団体に関してよく知らないので、回答できません」としつつ、本展テーマ「僕らは同じ空のもと夢をみているのだろうか」と引き付けつつ、以下のように考えを語った。
「私たちが夢というものについて語るのであれば、ほかのすべての夢、異質なものに目を向け、私たちが不快に思うほかの場所について考え、話し、議論しなければならないのです」。
「私は人と食事に行ったり、会ったり、日常生活のなかで、人との距離を縮めるようなことをしています。私は基本的に一人ずつアプローチをしていますが、この芸術祭はそれに近づくためのワンステップになるのかもしれません。アートは人々に多くのものを与えてくれるものだと思っており、自分の作品でもこれを表現しようとしています。アートはもっと生活の中にあるべきだし、生活はもっとアートの中にあるべきだと思うのですが、それを阻害するものが往々にしてあるんですね。そして、少なくともこの芸術祭では、アーティストがそういったことを行い、実現できることを期待しています。岡山は中心地/騒がしさから離れた場所であることを好ましく思っています。私はここにいるのが好きで、アートの世界に気を取られることもありません。ただ私が岡山にいて……人が来てくれるのは嬉しいし、ありがたいことです。岡山の人たちに楽しんでもらえたら嬉しいです」。
那須氏の回答は以下。
「僕自身、市民団体の方々の詳細は把握しておりませんけれども、こういった大きなイベントをやるにあたっては、様々な方の様々な意見があると承知しています。それについて、やはりコミュニケーションが大事だと思いますので、ひとつずつ相手の方の意見も聞きながら、お互いがどういう意見を持っているかをすり合わせて、着地点を見つけていくような努力をするということではないでしょうか」。
那須氏は「市民団体の方々の詳細は把握していない」と語ったが、「岡山芸術交流を考える市民県民の会」は、氏名を明かしながら積極的かつ具体的な働きかけを継続的に行ってきた。詳細はこちらの記事にまとめてあるが、2022年2月に陳情書を岡山県議会と岡山市議会に提出し、7月8日には岡山市に要望書を提出。要望書には、代表者の氏名や要望内容の詳細が記され、さらに市民400名の署名簿も付けられている。これらの陳情や要望の内容やそれに対する岡山市からの回答等は、団体のFacebookで一般に公開されている。また、Tokyo Art Beatは上記の団体の動きを受け、9月21日に岡山芸術交流実行委員会事務局宛に質問を送付。9月26日に回答を得、27日に「「岡山芸術交流2022」への市民からの陳情・要望について、実行委員会への質問と回答」を公開している。
署名簿数400を超える市民の側から、公的な手段によって働きかけがなされてきたにもかかわらず、総合ディレクターは「把握していない」という。そうであれば、いったいどうすれば市民たちの存在や声は「把握」されるのだろうか。いったいどうすれば双方向的なコミュニケーションが始まるのだろうか。
また「相手の方の意見も聞きながら、お互いがどういう意見を持っているかをすり合わせて、着地点を見つけていくような努力をするということではないでしょうか」とのことだが、今年2月に陳情書が提出されてからすでに7ヶ月が経過し、30日に開幕を迎えた。これから「すり合わせ」が行われるということだろうか。それとも当該団体は、コミュニケーションを取る対象に値しないということだろうか。
市民団体は上記の要望書に、「第1回から務めている石川総合プロデューサーは、(略)一昨年、自社におけるセクシャルハラスメント疑惑の問題が全国で大きく報道されており、実行委員会から報道された内容にかかる説明が無いまま第3回も引き続いて総合プロデューサーに就任させたことも納得できません。主催する岡山市や岡山県はこの問題を容認していると受け取られイメージダウンとなり、市民・県民は恥ずかしい思いをします。」と記している。もしその「報道」内容を虚偽だと疑わなければ、ハラスメントを訴えた人間が確かに存在すると考えるのが自然だろう。
このような精神や身体への暴力とそれに伴う痛みを世に訴えた人々の存在を、皮肉なことに、本展をめぐるなかで筆者は何度も思い起こした。暴力や身体、そして権力の問題を扱った、優れた作品が多数あったからだ。
運営組織が遠ざけているのは市民団体だけでない。石川氏に関する一連の報道について、運営組織から十分な説明が行われていないと考え、本展の鑑賞を諦めざるをえないと失望する人々の声もSNSなどを通して聞く。現在の運営組織の対応は、こうした社会的・政治的問題意識を持つ人々をも本展から遠ざけることにつながらないだろうか。そうだとすれば非常に残念であり、作品を展示するアーティストたちの名誉のためにも、様々な声に耳を傾けてほしいと願う。
最後に付け加えれば、こうした事案は、属人的なものではなく構造的なものとして議論されるべきだろう。たとえば「岡山芸術交流」はアーティスティックディレクターこそ毎回異なるものの、実行委員会(岡山市・公益財団法人石川文化振興財団・岡山県)を筆頭に、総合プロデューサー、総合ディレクター、パブリックプログラムディレクターをはじめ、主要な人事や構成団体は過去3回を通して大きく変わっていない。盤石な組織体制が長期的な目標を掲げた継続的な活動を可能にする面は大きいかもしれないが、より流動的で新しい意見を呼び込む組織となることが、多様な市民からの声に応えることや、より高度な公共性の獲得にもつながるのではないだろうか。
福島夏子(編集部)
福島夏子(編集部)