「展覧会 岡本太郎」が、大阪中之島美術館で7月23日~10月2日、東京都美術館で10月18日〜12月28日、愛知県美術館で2023年1月14日~3月14日に開催される。この大回顧展とともに、岡本太郎の芸術人生を改めて振り返ってみたい。絵画から文筆、テレビ出演まで様々な表現活動を行ったことから、「何が本職なのか?」と問われることも多かったという岡本。それに対する答えは「人間―全存在として猛烈に生きる人間」だったという。
それではこの「人間・岡本太郎」はいかにして形成されたのか。岡本太郎を研究する武蔵野美術大学芸術文化学科准教授の春原史寛に、「戦争」「生活」「メディア」という3つのキーワードから解説してもらった。【Tokyo Art Beat】
すべてに挑み続けた「人間・岡本太郎」は、戦争体験によって強烈に形成された。
戦争で生じる否定や、それに起因する怒りや抵抗。それを芸術に昇華した純粋な怒りによる挑みが、戦後の岡本の活動の原動力となり、学生運動などの闘争をテーマとした絵画作品も散見される。
代表作のひとつ《明日の神話》(1968)は戦争が生んだ核兵器を描く。水爆実験によって被爆被害がもたらされた第五福竜丸事件の爆心地と、不可視かつ不可触の放射能が人間に襲い掛かる恐怖を表現した。その見えない恐怖に抵抗するための、縄文土器の芸術性から発想した理解を超えた世界につながる「四次元」(*1) 的な武器が、岡本の信じる20世紀の新しい芸術であった。
このように、芸術によって社会のあらゆる課題に挑みかかるのが、岡本が目指した芸術家像である。
芸術は挑みであり、理解、無理解を超えての、強烈なコミュニケーションです。(*2)
岡本の主張のひとつに「対極主義」がある。矛盾する両極にある2つの概念・対象を、その矛盾のままにぶつけ合い、既存の文脈を超えた新たな価値を生み出そうとする。戦争の対極とは生活であろうか。戦後の岡本のメッセージは、芸術界を超えて最終的には社会を構成する多くの生活者に向けられた。そしてそのメッセージは、あらゆるメディアを通じて、生活の隅々まで届けられようとしていた。
岡本が生まれたのは、第一次世界大戦が勃発する数年前、1911年のことだった。のちに岡本が抽象表現に影響されつつ傾倒したシュルレアリスムも、この大戦を契機に、戦争や兵器を生み出す人間の理性への疑問から、合理性を超えた世界に注目して生まれた芸術運動であった。
岡本は、1930年19歳からフランスのパリで、現地の学生たちと学び、最先端の芸術運動に身を投じていた。しかし、第二次世界大戦の戦火はパリに迫り、1940年6月、29歳でマルセイユからの最後の引揚船で帰国。パリでの10年を超える芸術家としての知的で自由な生活から、すべての自由と人間性を奪われた想像を絶する過酷な軍隊生活へ大転換する。
1941年30歳のときに徴兵検査を受けて、翌年、戦争記録画を担当する報道班員ではなく初年兵として出征。自動車中隊に所属し、岳州(現・湖南省岳陽市)などの中国大陸の戦地を転戦した。
パリの中学校時代に暗誦させられた、ド・ヴィニーの「狼の死」という詩がある、狼は撃たれて傷つく。こちらを見て、口から血を流しながら、悲痛な運命と、苦悩に全身で耐える。そして死ぬ。「一ことも訴えずに」というのである、狼は言っているようだ。嘆いたり、泣いたり、わめいたりしないで、黙って苦悩に耐えよ。――その詩が絶体絶命の中に、一本の救いの綱のようにふっと心に浮かんでくる。黙って苦しめ、そして死ね、黙って。(*3)
この軍隊生活において、人間・岡本太郎を象徴するエピソードである「四番目主義」が生まれた。軍隊における上官からの理不尽な鉄拳制裁において、各自が名乗り出て殴られる1人目、2人目ではまだ調子が出ておらず、3人目あたりから調子が整い、4人目に最も強烈な拳が来て、それ以降は上官の情熱が覚めてくる。岡本は、誰かをかばうわけではなく、自分に賭けてみるために、常にその4番目に名乗り出る。安楽な道と破滅に向かう道があった場合に、後者を選び、その絶望のなかにこそ創造を見出す、戦後の活動を通底する岡本の流儀が作り上げられた。
1945年の終戦後は長安で捕虜生活を送り、翌年6月に復員。しかし、東京・青山の自宅やアトリエとそこにあった作品は焼失し、戦前までの活動で生み出した、かたちあるものは失われた。しかし、「私の人生で、もっとも残酷に、辛かった時代」(*4) という、虚無としての戦争体験の反動で、岡本は絵画、彫刻、写真、クラフト、デザイン、建築、映画、文学などのあらゆる領域を横断する、多面的な創造活動と前衛芸術運動によって、日本の芸術界を、そして文化状況を、さらには社会そのものを更新しようと挑み始めた。日本において人間を縛り付ける旧来の封建主義的な価値観を刷新し、真に自由で人間性に生きることのできる社会を、芸術を拠点に目指し、あらゆるジャンルの接点ですべての生活者に伝えようとしたのである。
人々の生活が岡本の戦場となった。生活空間を構成する家具である岡本の《坐ることを拒否する椅子》(1963)は、疲労で座りこんで動かない人間の安直な姿勢に抵抗し、一時的な短い休息のみで再び日常の生活の精神的な挑戦に赴かせる、「精神的にも、肉体的にも人間と「対等づら」」 (*5)する椅子の提案である。
生活の中に創造的な遊びがない。それが現代の空虚さだ。つまり芸術が欠けているのだ。映画・テレビや野球見物は、それをごまかす手段であるにすぎない。遊びながら、みんな退屈している。近代とともに、世はひたすら味気なくなっている。 (*6)
岡本の大ベストセラー『今日の芸術』(1954)は中学2年生も読めるように書かれ、これからの芸術は「ここちよくあってはならない」「いやったらしい」「「きれい」であってはならない」と人々を挑発し、独立を果たして間もない日本の若者たちを文化的に元気づけようとした。美術史や美学ではなく、日常を生きる生活者にとって、芸術家が表現を行う挑戦的な姿勢がどのような意味を持つかを説いた、生活の充実のための芸術論である。
1950年代から60年代にかけての東北をはじめとした日本の伝統の探求や、アメリカ占領下の沖縄訪問による文化の取材も、現在の生活における、いまだ形骸化しない、伝統を生み出した当時の人々が環境に挑んだ意識の継承を探り、生活の充実に資する「新たな伝統」を芸術家として生み出すためであった。その知見が、人々の往来のなかに立ち上がる、岡本が多数手がけたパブリックアートの制作にも活用された。
岡本は、日本列島を鼓舞するために、作品のみならず、あらゆるメディアを活用して自分の芸術論を伝え続け、やがてそれだけでは人々が変わらないことを実感すると、芸術家・岡本太郎、そして人間・岡本太郎の挑戦するなまなましい姿そのものを見せつけた。その伝達のメディアは書籍や雑誌に始まり、ラジオ・テレビと展開し、生活者と密接なバラエティ番組やCMへの出演も厭わなかった。
1967年56歳のとき、『ワシントン・ポスト』紙に岡本の「殺すな」という書を用いたベトナム戦争に対する全面反戦広告が掲載された。同年6月に、1970年大阪万博のテーマ館プロデューサーへの岡本の参画が決まり、無償で無目的の消費である「祭り」としての万博を主張した。岡本は、万博をも自分の信じる芸術家像を伝えるメディアとして活用し、現代社会の問題や矛盾に引き裂かれる私たちが身に着け世界に挑むための、芸術による仮面「黄金の顔」を戴いた、べらぼうな《太陽の塔》を作り上げた。
無難なものはいくらうまくできても魅力がない。失敗するようなもの、べらぼうなものは、悪口をいわれるかもしれないけれども、悪口をいいながら何となくひかれてしまう。そういう物が現代の日本の文化に一番欠けていると思うのです。 (*7)
このような作品を平気で社会に突きつける姿勢を伝えるため、岡本はメディアに、人間・岡本太郎として自分の姿を赤裸々にさらし続けた。すべての人が生活において芸術家であれば、人間である喜びをつかみ取らせることができると考えたのである。
戦前のフランスで、異邦人でありながらもはやフランス人同様に生きて前衛芸術運動の高揚をまさに体感したこと。その後に戦地で戦争の虚無を直に体験し、自分の戦場はやはり「日本」であると決意したこと。そのような対局の経験が、日本における生活を対象とした戦後の岡本の芸術活動を方向付けた。
岡本は生活者に対する外部からの啓蒙を行っていない。自らも生活者のひとりで、あらゆるメディアを戦略的に活用して人々を仲間として内側から挑発し、人々が自ら芸術の意義を発見して変わって行くことを目指していた。そのようなある種の「わかりやすさ」は、芸術界における芸術家としての評価の放棄を覚悟することでもあった。
岡本は芸術を支える本来開示されない理解を超えた「べらぼうさ」のような本質的な「秘密」を重視しつつも、芸術家の対象を見る視線、思考のプロセス、身体が生み出す技法、それらを支える思想などのあらゆる手の内を披露して、芸術による人々の生活の充実のために、あくまでも率直に実感的に伝え続けたのである。
*1──岡本太郎「四次元との対話 縄文土器論」『みづゑ』1952年2月。
*2──岡本太郎「文庫版によせて」『今日の芸術』講談社、1973年。
*3──岡本太郎「わが二等兵物語」、『岡本太郎の宇宙2 太郎誕生』筑摩書房、2011年、528頁。
*4──岡本太郎「白い馬」、『岡本太郎の宇宙2 太郎誕生』筑摩書房、2011年、539頁。
*5──岡本太郎「坐ることを拒否する椅子」『朝日ジャーナル』1964年3月15日。
*6──同上。
*7──桑原武夫・岡本太郎(対談)「万国博への期待と不安 冒険の精神を」『朝日ジャーナル』1967年10月22日。