元永定正(もとなが・さだまさ、1922〜2011)は三重県出身の現代美術家。戦後の芦屋で結成されたグループ「具体美術協会」の中心メンバーとして国内外で高く評価を受け、『もこ もこもこ』(作:谷川俊太郎絵:元永定正、文研出版)をはじめとする絵本は現在まで大人気。鮮やかな色彩やときにキャラクターのようなユーモラスなかたちが登場する元永の絵は、これまで多くの人に愛されてきた。その生誕100年を記念する特集展示が、三重県立美術館で開催中だ。会期は12月11日まで。作家の出身地にある同館は現在70点の元永作品を所有しており、本展はコレクションを中心に作品初期から晩年までの作品資料約 50 点により画業を振り返る。企画は同館学芸員の原舞子。
本展の見どころのひとつは、出身地・伊賀との関わりに焦点をあてていることだ。最初の展示室は、元永の若き日の自画像をはじめとする初期作品や、交流した地元の作家たちの作品が展示されている。
小学校高学年の頃に映画俳優か歌手か絵かきになりたいと夢を抱いていた元永は、商業学校を卒業後、大阪、京都や伊賀でいくつもの仕事に就き、やがてマンガや絵を描き始めた。地元の広報誌などにマンガ・イラストを描いていたことから、郷里の伊賀で親しみを込めて「(漫画の)漫ちゃん」と呼ばれていたという。
絵の道を志した当時、元永は伊賀在住の洋画家、濱邊萬吉(はまべ・まんきち 1902〜1998)に師事。帝展(文展)に入選した実績もある濱邊をはじめ、戦前の伊賀上野は「洋画のまち」と呼ばれるほど多くの洋画家を排出していた。関東大震災で東京の家から焼け出された画家・奥瀬英三(1891〜1875)が郷里の伊賀に戻り立ち上げた「青丘社」は絵画・彫刻を研究する会として、濱邊ら多くの作家を集め、展覧会を毎年開くなど活発に活動。
戦後すぐにはこうした地元の名士たちを中心に音楽鑑賞会や文学の会、茶会などが催されるなど文化的な空気が醸成され、元永もその中に身を投じて様々なサークル活動に勤しんだ。《社交ダンスの仲間たち》(1947〜48)はその頃の作品。元永は木担ぎ(材木仲仕)の肉体労働を終えた後に、毎晩のように社交ダンスに通っていたという。
1952年、仕事を求めて神戸へ移った元永は、芦屋市展で抽象絵画と出会い、自身も抽象画や抽象彫刻の制作を行うようになる。そして1955年の芦屋市展に出品した《寶(たから)がある》が吉原治良の目に留まったことで誘いを受け、具体美術協会「真夏の太陽に挑むモダンアート野外実験」展に参加。ここで発表したインクで染めた水をビニールシートに入れて吊るした作品は吉原に「水の彫刻」と絶賛され、吉原が主催する具体美術協会に参加することになった。(この《作品(水)》 は、2023年1月9日まで大阪中之島美術館「すべて未知の世界へ ー GUTAI 分化と統合」、2023年3月5日まで金沢21世紀美術館「時を超えるイヴ・クラインの想像力―不確かさと非物質的なるもの」で展示されている)。
「具体」を活動拠点とするようになった元永は、キャンバスに絵具を流して制作する絵画で国内外で評価を受けるようになる。具体には解散の前年1971年まで参加した。本展にもこの頃の作品が並ぶ。
1966年、渡米しニューヨークで制作を開始。画材屋でのアクリル絵具とエアブラシとの出会いが、この後の作品に変化を与えた。絵具の流動的な痕跡ではなく「かたち」を描くことに重きが置かれるようになり、70年代からはキャラクター性を帯びたかたちが画面に登場。タイトルもひらがな表記のものが増え、かわいさ、ユーモア、楽しさ、親しみやすさが全面に出てくるようになる(絵本『もこ もこもこ』は1977年初版刊行だ)。
展示の終盤には、2009年の元永定正展に際してエントランスホールで行われたパフォーマンスイベントで制作された《ライブペイント》(2009)が。
そして《ひかり》(1997)。元永は2009年個展図録に以下の言葉を残している。展示壁に掲載されたものを以下に引用したい。
私は思う。我流が一番新しい。我流は一流なのである。絵を始めてから70年もの時間が過ぎた。続けることが勉強だ。自分を信じて描いている。一寸先に光はあると描いている。
「一寸先に光」というポジティブな明るさは、元永のおおらかな作品たちからも感じとることができるだろう。「具体」解散50年、そして元永生誕100年という記念すべき今年、様々な展覧会で元永の作品が展示されている。それらは人々との出会いによって、また新たな光を生むことになるだろう。
福島夏子(編集部)
福島夏子(編集部)