公開日:2023年6月20日

「本橋成一とロベール・ドアノー 交差する物語」(東京都写真美術館)レポート。市井を写し続けた日仏写真家のコラボレーション

会期は9月24日まで。ユーモアと優しさを持ちカメラを構えたふたりの写真家の物語に迫る。

会場風景より

東京都写真美術館にて「本橋成一とロベール・ドアノー 交差する物語」が開幕した。会期は9月24日まで。担当学芸員は山田裕理。

東京都写真美術館はこれまで、日仏を代表する写真家の二人展シリーズを開催してきた。本展は、「木村伊兵衛とアンリ・カルティエ=ブレッソン 東洋と西洋のまなざし」(2009)と「植田正治 + ジャック・アンリ・ラルティーグ 写真であそぶ」(2013)に続くシリーズの第3弾となる。

ロベール・ドアノーは1912年、パリ郊外のジャンティイ生まれ。ルノー自動車工場専属の産業カメラマンなどを経て、39年、フリーのカメラマンに。とくに、パリで生きる庶民の生活をとらえた写真が高く評価されている。56年にニエプス賞、83年にフランス国内写真大賞を受賞。晩年はDATAR(国土整備地方開発局)による任務に参加し、パリ郊外の撮影も行った。94年パリにて死去。

本橋成一は、1940年東京・東中野生まれ。68年に「炭鉱〈ヤマ〉」で第5回太陽賞受賞。以降、サーカスや上野駅、築地市場、チョルノービリ(チェルノブイリ)などを舞台に、写真家・映画監督として市井の人々の暮らしを撮影し続けてきた。主な受賞歴として、写真集『ナージャの村』で第17回土門拳賞受賞、映画「アレクセイと泉」で第12回ロシアサンクトペテルブルグ国際映画祭グランプリなどがある。

直接の接点がないように思われるふたりだが、実は一度、会う約束を交わしている。本橋は知人の紹介を受けてドアノーとパリのホテルで会う機会を得る。だが残念なことに、本橋を乗せた飛行機が遅れたため、直接会うことは叶わなかった。そこでドアノーは、受付に一冊の写真集『La Compagnie des Zincs』(フランス語で「カウンターの輩」の意味)を託す。そこには「本橋、カウンターの輩には気をつけたまえ。僕は奴らにとことんやられてしまったからね」とユーモラスなメッセージが残されていた。直接顔を合わせることがなかったゆえに生まれた、なんとも粋なエピソードだ。

会場風景より。会場入り口には、ドアノーのメッセージが残された写真集『La Compagnie des Zincs』(カウンターの輩)が展示されている。

異なる時代と国を生きながらも、日々を懸命に生きる庶民をまなざしを向けたルポルタージュの写真家として高く評価されているドアノーと本橋。炭鉱やサーカス、市場など、作品に共通するテーマも多い。展覧会は5章構成。以下で見どころを紹介しよう。

プレス内覧会での本橋成一

キャリア初期:炭鉱と坑夫たち

ドアノーと本橋は、奇しくもキャリア初期に炭鉱を訪れている。第1章「原点」では炭鉱の風景や、そこで働く坑夫たち収めた写真が並ぶ。ドアノーは45年、雑誌『Jマガジン』の依頼でフランス北部ランスの炭鉱を訪れ、坑夫たちの厳しい労働の状況を訴える写真を撮影。坑夫たちの過酷さや悲惨さを伝えるために演出的に画面を作るのではなく、彼らに寄り添うように生活のなかにある慎ましくも輝かしい瞬間を切り取った。こうした温かなまなざしは、ドアノー写真の大きな魅力のひとつだ。

ロベール・ドアノー サン・ミシェル炭坑、ロレーヌ地方 1960 © Atelier Robert Doisneau / Contact
会場風景より、左からロベール・ドアノー《蝶々エリの子ども、サン・ドニ》(1945)と本橋成一《福岡 筑豊》(1965)

他方、本橋は写真学校の卒業制作をきっかけに65年、炭鉱についてのルポルタージュを書いていた作家・上野英信を訪ね、炭鉱の撮影を始める。本橋は、上野に「どこに軸足置いて君は写真を撮るのか」と聞かれたことを機に「とことん被写体と同じ視線で撮ろうと決めた」と語る。人間への愛に満ちた写真を撮り続けたドアノーにしばしば冠される「ヒューマニズム写真家」という呼称は、本橋にも当てはまるだろう。

本橋成一 羽幌炭砿 北海道 羽幌町 1968 © Motohashi Seiichi
会場風景より、左上は本橋成一《羽幌炭砿 北海道 羽幌町》(1968)、左下・右は本橋成一《福岡 筑豊》(1965)

「劇場」と「広場」の物語をとらえる

第2章は「劇場と幕間」と題されたセクション。パリの街中を歩き回り、思いがけない喜びの瞬間をとらえた写真は「ドアノーの小劇場」と評されるが、ドアノーは実際の移動遊園地やサーカスへも頻繁に足を運び、撮影も行っていた。本橋は雑誌『太陽』での俳優・小沢昭一の連載をきっかけに、72年ごろから大衆芸能を撮り始めた。

日々練り歩いていた街で撮るべき瞬間を発見したドアノーに対して、あくまで仕事として劇場を訪れ撮影することが多かった本橋。ふたりの写真家の作品が並置されていると、どうしても共通点にばかり目がいってしまいがちだが、その撮影スタイルの違いを知ると、展示をより深く見ることができるだろう。

ロベール・ドアノー ピンター・サーカス 1949 © Atelier Robert Doisneau / Contact
本橋成一 木下サーカス 東京 二子玉川園 1980 © Motohashi Seiichi

壁が赤く彩られたゴージャスな展示空間が広がる第3章「街・劇場・広場」では、ドアノーのレ・アール市場、本橋の上野駅、築地市場、大阪・松原市の屠畜場などの写真が並ぶ。担当学芸員の山田は、本章を通じて「ドアノーは生きる人々の集積としての都市のエネルギーを劇場として、本橋は雑多な者同士が共存する空間を広場として、そこにある人々の物語をとらえようとしていたのではないだろうか」と論じている。

本橋成一 築地市場 東京 1984 © Motohashi Seiichi
ロベール・ドアノー “音楽好きの肉屋、パリ” 1953 © Atelier Robert Doisneau / Contact
会場風景より、左から本橋成一《築地市場 東京》(1985)とロベール・ドアノー《レ・アール市場最後の朝》(1969)
会場風景より、ロベール・ドアノー《パリ市庁舎前のキス、パリ》(1950)。ドアノーの代表作として知られる本作は、東京都写真美術館入り口近くの外壁に大きくディスプレイされているため、目にしたことがある人も多いだろう。

「交差」から生まれる物語

続く第4章「人々の物語」ではある地域に住む人々をまなざした写真をピックアップ。ドアノーの写真はサン・ソヴァン村での結婚式とパリ郊外で生活するロマを写している。サン・ソヴァン村は、第二次大戦中のドアノーの疎開先。当時受け入れてくれた家庭の娘が結婚するという連絡を受け、ドアノーは結婚式の様子を撮影した。

本橋の作品は、チョルノービリでの原発事故をきっかけに通った、ベラルーシやウクライナの村々をとらえた写真。この来訪をもとに、写真集『無限抱擁』(1994)や映画「ナージャの村」(1997)「アレクセイと泉」(2002)などを制作した。

ロベール・ドアノー “4本のヘアピン、サン・ソヴァン” 1951 © Atelier Robert Doisneau / Contact
会場風景より、本橋成一の作品。左2つは《ベラルーシ共和国 チェチェルスク ドゥヂチ村》(1996)、右は《ベラルーシ共和国 チェチェルスク オートル村》(1992)

展示を締め括る第5章は「新たな物語へ」。ドアノー作品としては、終生親交を持ったチェリストのモーリス・バケを収めた写真とDATAR(当時の国土整備地方開発局)のプロジェクトで撮影したパリ郊外の写真が配される。バケの写真は、チェロを持ってスキーをしたり、画中のバケが抱える額縁のなかに同じイメージが反復されたりと、ドアノーとバケの友情と遊び心を感じさせる。DATARのプロジェクトは、ドアノー作品のなかでは珍しいカラー写真だ。

会場風景より、モーリス・バケをドアノーが撮影した写真群
ロベール・ドアノー グランド・ボルヌ(集合住宅群)、エルブ広場 1984 ©Atelier Robert Doisneau / Contact

本橋作品として並ぶのは、沖縄・与那国島の漁師夫妻や、長野・小谷村の真木共働学舎で暮らす人々を収めた写真。家族やそれに近しい共同体のなかにある、親密な物語が浮かび上がってくる。

本橋成一 〈家族写真〉より 1994 © Motohashi Seiichi
会場風景より、本橋成一《沖縄 与那国島》(1989)

山田は、本展タイトルにある「交差」という言葉について「ふたりの作家のコラボレーションはもちろん、被写体となった人々同士の交流、訪れた鑑賞者の人々が作品に向けるまなざしの交わり、という3つの意味を持たせた。こうした『交差』を通して、訪れた人にそれぞれの物語が生まれたら」と話した。相手の有名性や社会的地位に左右されることなく、つねに愛を持って被写体と向き合ったふたりの写真家による作品を、ぜひ生のプリントで見ておきたい。

会期中には、「田沼武能 人間讃歌」展も開催されている。芸術家や文化人から世界中の子供まで多様な人々を撮影した田沼の写真は、ドアノーと本橋とはかなり異なるドラマティックな画面構成が印象的。本展と合わせて見ると、より楽しめるはずだ。

浅見悠吾

浅見悠吾

1999年、千葉県生まれ。2021〜23年、Tokyo Art Beat エディトリアルインターン。東京工業大学大学院社会・人間科学コース在籍(伊藤亜紗研究室)。フランス・パリ在住。