公開日:2022年9月27日

アーティストトークから展覧会を考え、伝える。 「MOTアニュアル2022 私の正しさは誰かの悲しみあるいは憎しみ」展(東京都現代美術館)レポート

10月16日まで東京都現代美術館で開催されている「MOTアニュアル2022 私の正しさは誰かの悲しみあるいは憎しみ」展。8月に開催されたアーティストトークでの作家たちの発言を中心に、本展をレポート。

工藤春香 あなたの見ている風景を私は見ることはできない。 私の見ている風景をあなたは見ることはできない。 2022 撮影:森田兼次

東京都現代美術館では、現代の表現の一側面を切り取り、問いかけや議論の始まりを引き出すグループ展「MOTアニュアル」が毎年開催されている。その18回目に当たるMOTアニュアル2022「私の正しさは誰かの悲しみあるいは憎しみ」は、時代や社会から忘れられた存在にどのように輪郭を与えることができるのか、複雑に制度化された私たちの生活環境をどのように解像度を上げてとらえることができるのか、言葉や物語を介してともに考えようとするものだ。

その会期中の8月20日、同館講堂で2時間半にわたり出品作家によるアーティストトークが開催された。残念ながら高川和也が急遽欠席となったが、工藤春香、大久保あり、良知暁の3人がそれぞれに作品の背景となるリサーチや体験談などを語った。当初はトークを忠実に抜粋しようとしたのだが、鑑賞のヒントにもなるよう展示作品と合わせて再構成してレポートする。

左から、良知暁、大久保あり、工藤春香、高川和也

まず最初に、キュレーションした西川美穂子(東京都現代美術館学芸員)が展覧会を立ち上げた理由を語った。

「パンデミックやロシアによるウクライナ侵攻といった不条理な事態が続き、善悪の行方があやふやになりつつあるいま、他者との差異から生まれる誤解や矛盾、対立などにどう対処すればいいか。そのとき言葉は共有や和解の手段となるいっぽうで、ものごとを説明しよう、答えを出そうとするとズレて違うものになってしまったり、そのときに使われる言葉がかえって分断を生んでしまったりすることもあります。そうした語ることや記述の困難さに向き合い、見えない襞の部分に視線を向けたり、そうなってしまった行動について立ち止まって考えたりしながら、別の語りを模索し、物語として繰り返し語り直していくような展覧会にしたいと思い企画しました。そのため、作家といろいろと話しをしながら展示をつくっていきました」。

苦悩や欲望をラップに乗せてみる:高川和也

欠席の高川和也に代わり、彼が制作後に綴ったテキスト(図録に掲載予定)を西川が代読した。詳細は図録で読んでいただきたいので、概略をまとめたい。

高川和也のテキストをキュレーターの西川美穂子が代読した

高川は今回、自身の苦悩や欲望を正直に記述した6年前の日記の言葉を、ラッパーFUNIの協力を得てラップに変換しようと試みる52分の映像作品を発表している。それは「言葉にすることで苦悩と距離を取り、他人事してとらえられるかもしれない。そうした情動を一切合切言葉にすれば幸福になるのか、言葉にすることで失うものはあるのか探求したい」という動機から始まった。川崎市生まれの在日コリアン・ラッパーを名乗るFUNIは、現在はもはや自分から言いたいことはなく、言葉で表す術を持たない人々にラップでその術を伝えるワークショップを行っていた。

2022年6月10日、FUNIの実家、高吉機器製作所でラップのレッスンを開始。6年前の日記をもとに書いたリリックを読む。FUNIはリリックの内容には踏み込んで来なかった。たとえば「シャープペンシル、スケッチブック、あとは消しゴム」というリリックはリズムに分解され、言葉は意味を剥がされ、音へと変換されていく。

高川和也《そのリズムに乗せて》(2022)の展示室 撮影:森田兼次

聞いてくれる他者がいる。そのような「サンクチュアリ」がラップでは重要で、その場はまさにそうだった。「言葉によって切断された自分と自分以外を言葉によって再びつなぎ直すことはできるか。あるいは言葉以外の方法で他者と交信できるか」。自分の外側にある形式(今回はラップ)に沿って吐き出すことで、内面から解放されながらも、まだ残る葛藤が次につながる予感で締めくくられた。

なお、ラップの実践の前に「日記の読み解き会」という別の試みも挟んでいる。これは「内省ではなく他者と協働し、日記を対象とした当事者研究をしてみたい」という動機から実施され、映像作品には対話時に生ずる葛藤や反応の違いも現れている。

高川和也《そのリズムに乗せて》(2022)の展示室 撮影:森田兼次

自分の価値観はどこから来ているのか:工藤春香

2016年から「社会構造とその中にいる個人の存在」をテーマに制作してきた工藤春香は、美術館では初の展示となる。今回発表した《あなたの見ている風景を私は見ることができない。私の見ている風景をあなたは見ることはできない。》は、過去2回の個展「生きていたら見た風景」(2017)、「静かな湖畔の底から」(2020)とつながりながらも新たな視点を加えて再構成したものだ。

工藤春香

「最初の制作は自分の出産体験がきっかけでした。ニュースで相模原障害者施設殺傷事件の犯人が優生思想を持っていたことを知り、私が健康な赤ちゃんが生まれますようにと願ったことは、差別意識からくるものだったのではないかと思ったのです。そこから旧優生保護法の歴史を調べながら、自分の価値観がどこから来ているのかを探るために制作しました」。

今回の展示は、事件のあった、相模湖にほど近い「津久井やまゆり園」の地域史から始まる。同園は東京オリンピックと同じ1964年に開園している。日中戦争が激化した1938年、ダム建設で湖底に沈んだ集落を描いた水彩画や地図。相模湖の水を京浜工業地帯に運び、京浜工業地帯の植物を相模湖に移植する映像作品。

「事件の外側を調べることで、いま存在していないものや場所を想像することができるか。あの事件が起こった社会構造を自分ごととしてとらえるために歩いて見えた風景や感じたことを表現しました」。

工藤春香《あなたの見ている風景を私は見ることができない。私の見ている風景をあなたは見ることはできない。》(2022)展示室 撮影:白坂由里

また、旧優生保護法を中心とした歴史とそれに対抗するような障害者運動の100年を、自分の身体に染み込ませるために年表にした。鑑賞者が歩きながら読んでいくうちに「内」と「外」が入れ替わるのは、権力による構造を個人の連帯で変えることができるのではないかという思いからだという。

工藤春香《あなたの見ている風景を私は見ることができない。私の見ている風景をあなたは見ることはできない。》(2022)展示室。「1917年から2022年までの主に旧優生保護法を中心とした障害に関する政策・制度・法律等をまとめた年表」と「1878年から2022年までの障害当事者運動に関してまとめた年表」が表裏一体で展示されている 撮影:白坂由里

その障害当事者運動のなかで、施設か在宅かの二択ではなく、地域で自立する運動が生まれ、制度ができた。「その制度を利用して、津久井やまゆり園を退所し、地域で自立生活をしている尾野一矢さんに会うことができました。生きていたから会えた」と工藤は言う。展示室では、尾野氏の部屋を思い出しながら再現した。

工藤春香《あなたの見ている風景を私は見ることができない。私の見ている風景をあなたは見ることはできない。》(2022)展示室の中にある「尾野一矢さんの部屋」 撮影:白坂由里

「同じ風景を見ていても彼が見ている風景を見ることはできない。他者の考えていることをわかることはできない。けれど知ることはできる。『知る』を積み重ねていくうちに少しだけわかる。知り続けていかないといけないと思っています」。

「また、自我も環境によってつくられるとしたら、自分を形成している外側(の要因)を知ることも必要です。私は予想を立てずに行動してみて、その時自分の力で考えたことに自分があると感じます」。

社会的な問題提起と同時に、自分自身を省みることもできる作品だ。

本当のことか、作られたお話なのか:大久保あり

「本当って何かということを考えてみましょう」。

大久保ありの口から「本当」の危うさの例がどんどん出てくる。

「いま話していること自体は本当だと言えても明日になれば、記憶を補完しちゃうかもしれない。1年、10年、と経てば曖昧に。記述すれば変化が加えられてしまうし、感情が乗ることでも変わる。時間や関係性、社会状況による解釈でも変わります。たとえば、相手を愛しているときと、別れた後では、相手の発言の信じ方(疑い方)が違う。ニュースも誰かの目を通して伝えること。歴史の教科書の内容が入れ替わることもある。けれどすべてに疑いを持つと生きづらいので、便宜上、本当として皆さん受け取っていると思います」。

そのため大久保は、嘘、虚構、物語を自らつくり、その際の技術や作られ方を知ることで、情報に対する自覚的な享受の仕方が学べるのではないかと制作してきた。

大久保あり

今回の展示では、その過去作から13作品を選び、ものと言葉で回廊状の空間《No Title Yet》を構成した。そのなかから《パンに石を入れた17の理由》を紹介する。

「手作りパンを焼いていた時期があります。意地悪ではなく、パンに石を入れたものを食べさせたいと思って、入れてもいい理由を考えたら食べてくれるかもと思って17個考えました。ミネラルが採れるとか、ありそうな理由となさそうな理由を。それに母方の家族史と組み合わせて、実在した人物が石を入れて焼いたパンを発明したというお話をつくりました。そうしたら展示を見た親戚が信じちゃったんです。家族が知らない家族の話ってあるので、文章としてしっかり書かれると信じてしまうのかなと思いました」。

さらに、石と酵母とレシピを入れた書籍にもなっているので購入すれば実際につくれてしまうのだ。

大久保あり《No Title Yet》(2022)の展示室より、《パンに石を入れた17の理由》(2013-2020) 撮影:白坂由里

もうひとつ《私はこの世界を司る。あなたは宇宙に存在する要素》では、作品を作ると決めて日記を書き出した。日記形式のお話を作るために実際の日記を書いた。その日記の内容のために実際の行動をコントロールしたという。様々な虚実のバリエーションを、仮設を意味するインスタレーション空間で体験してほしい。

大久保あり《No Title Yet》(2022)展示室 撮影:白坂由里

発語する緊張を分かちあう。忘却に抗うために:良知暁

4番目となった良知暁は、用意してきた手紙を朗読した。「『あなた』を英語に翻訳すると『YOU』はひとりだけでなく、複数化される。ひとりであり複数の人に届く手紙として」。

良知暁

会場には、日韓英3言語のスライドが映し出されている。置かれている小さな冊子には「シボレート/schibboleth」にまつわる物語が記され、持ち帰ることもできる。

良知暁《シボレート/schibboleth》(2020/2022)展示室 撮影:森田兼次

良知は、「ある一説を『詩』として持ち歩いている」。忘れてはいけない、けれど忘れてしまうかもしれないからだという。

「Write right from the left to the right as you see it spelled here.」

この一節は、1964年にアメリカのルイジアナ州で行われたリテラシーテストの27番目の問題である。政治制度や憲法に関する知識を理解するには識字能力が必要だという名目で、実際には黒人の有権者登録を阻止するため、投票権を制限・剥奪するものとして機能したことが、冊子やスライド作品から解き明かされていく。

この詩を繰り返し読むとき、「/r/と/l/の発音が揺れる」と良知は語る。

展示室には点灯していないネオン管の作品がある。

良知暁《シボレート/schibboleth》(2020/2022)展示室より、ネオン管による《ráɪt》 撮影:白坂由里

良知は、「単語はもともと魔術的なものとして始まった。light「光」という単語が光り輝くように感じられ、dark「暗い」という単語が暗いものだったときがきっとあったのです」(ボルヘス『詩という仕事について』鼓直訳、岩波書店、p.116)という言葉を杖として、「点灯していないネオン管の発音記号を/r/からはじまる「ライト」ではなく、/l/から始まる「ライト」だと間違えるとき、目の前のネオン管が光り輝くように感じられるかもしれません」と手紙の中で綴っている。

展示会場では、発音記号が書かれた葉書を持ち帰ることもできる。

raɪt frəm ðə left tə ðə raɪt əz juː siːɪt spelt hɪə.

朗読は、その識別のための言葉を「15円50銭」という言葉と緩くつなげていく。1923年9月1日の関東大震災後、朝鮮人が暴動しているという流言が官憲、メディア、民衆によって拡散され、朝鮮人が暴行され殺害された。「ジュウゴエンゴジッセン」という語の頭に濁点がある発音で、日本人かどうかを識別したという証言があった。そこには地方出身者やろう者などもいた。(識別しようとするものとピタリと重ならなくても)区別し析出する必要性が潜在していたということだ。

展示室に架けられた時計は、15時50分で止まっている。

良知は手紙の中でこう語る。

「展示期間が終われば、あの時計は展示室から美術館内の元々あった部屋に戻ります。ただ、人(ひと)ではない〈美術館〉に態度を共有してもらうというのは実際にはどういうことなのでしょうか。まだ私自身もよくわかっていませんが、少なくとも、時計は元の部屋に戻っても、1日に2回、〈3:50あるいは15:50〉を指すことだけはわかっています。日付に特定の意味が付されたときのように、時間に特定の意味を与えることで、日常の中に忘却に抗う契機をつくりだす。〈美術館〉は、1日に2回示される〈3:50あるいは15:50〉に、関東大震災の朝鮮人虐殺という出来事を、そして、それと切っても切り離せない日本の植民地主義のことを思い出すのでしょうか」。

作品を見た私たちも、生活のなかでふと思い出すことがあるだろう。

良知暁《シボレート/schibboleth》(2020/2022)展示室より、《15時50分》と鑑賞者 撮影:白坂由里

良知は、人を分断した言葉を「詩」に変えて、美術館の空間を「私はどこに立っているか」と問い返す装置にしたのかもしれない。

良知暁《シボレート/schibboleth》展示室 撮影:白坂由里

残り時間が短いながらも、客席からの質問に対する作家からの回答のなかに、こんな言葉があった。

「聞き取りによる証言集には名前を出せない証言もあり、それは時として、ある論理的な確からしさを失わせるかもしれないけれども、過去の問題が現在も切り離せないこととしてあることを示している」(良知)。

いかに小さな声をかき消さずにいられるか。それには、誰でも声が挙げられる制度の後ろ盾が不可欠だとも思う。展覧会タイトルの「私」は「公」にも置き換えられ、個人の内省と、社会や政治の変革という双輪が必要なのだと、綿密に踏み込んでいる印象を筆者は抱いた。

観客からの質問に答える3人

最後に西川は「正しいのか、そうではないかという二元論に陥らないことを語るにはどうしたらよいか。この展覧会で、作家それぞれのアプローチからいろいろな構造を見つめ、考えるきっかけになれば」と語った。作家たちの本や資料を探す技術、現地取材、自分で調べ、探求していく力にも触発される。鑑賞後、様々な声や話が交わされるといいなと思う。物語は物語ることによって伝播し、展覧会は伝承の装置でもあるのだとあらためて思い出した。

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白坂由里

白坂由里

しらさか・ゆり アートライター。神奈川県生まれ、千葉県在住。『ぴあ』編集部を経て、1997年に独立。美術を体験する鑑賞者の変化に関心があり、美術館の教育普及、芸術祭や地域のアートプロジェクトなどを取材・執筆。『美術手帖』『SPUR』、ウェブマガジン『コロカル』『こここ 』などに寄稿。