今年に入ってモスクワのアートシーンは、日常生活の速度と異なり、やや慌しくなってきた。来年に開催される第三回モスクワ・ビエンナーレのチーフキュレーターがジャン・ユベール・マルタンに決まり、この二年に一度の大きな国際展に呼応するかたちでオランダの建築家バルト・ゴールド・フルーンをキュレーターに迎え、今年の五月から国際建築展も開催される運びとなった。これに先駆けて国際建築展が開催されるわけだが、ゴールドフルーンの言葉を借りれば、ベネチア・ビエンナーレと同じく、建築展を後のアート・ビエンナーレと連携させていわゆる“アート発信源”としてモスクワを位置つけるつもりだ。二人とも「外からの」オーガナイザーとはいえ、モスクワとの結びつき(ユベール・マルタンはポンピドゥー時代〈パリ–モスクワ展〉のキュレーターを勤め、ゴールドフルーンはロシア現代建築に関する著作を執筆している)は強い。「西欧輸入型」の国際展ではなく地に着いた流れをこれらの国際展で形成するのではないかと、彼らの手腕に期待が寄せられている。
この「地に着いた」という表現に固執すれば、モスクワに精通しているという意味と共に公私の両面を把握しているということを示しうる。モスクワのアートシーンの歴史を振り返ると、1950年代からソ連崩壊まで「私」つまり非公式延いては「地下」の部分がその流れを支えてきたという事実がある。今日のアートシーンはこの「地下」の部分が脈々と受け継がれている。このことに焦点を充ててこの一月と二月に開催された展覧会を見てみると、「地下」での展覧会ないしはモスクワの隠れた顔に焦点を当てた展覧会が篩にかかる。
国立図書館(旧レーニン図書館)とプーシキン記念西欧美術館の間に位置し、企業ビルの地下に構える現代都市財団ギャラリーではエレーナ・コヴィリナのビデオ・インスタレーション《Rabenstbo – 平等》が展示された(1/31-3/15)。作品はギャラリー近くの通りで老若男女が四脚椅子の上に立ち、通りの向かいに聳えるクレムリンを眺める様子をビデオに収め、背景に英語、フランス語、ロシア語の『第三インターナショナル(原曲はフランス語)』が流されるというものだ。映像に目を凝らすと背丈がばらばらの老若男女が四脚椅子の上に立つと、同じ高さもしくは目線でクレムリンを眺めているのがわかる。
つまり、かつての社会主義の理想的シンボル「モスクワのクレムリン」を望むにはそれぞれの背丈が異なる。これを「平等」という、いわば社会主義が標榜する理念に従うのであれば、物質的な補助が必要となる。クレムリンを見つめる等の本人達には何ら気にすることでもないが、ビデオによって記録され、外部のまなざしに晒されるとその状況は滑稽にしか映らない。加えて、今日モスクワにおいて「平等」を求めるのであれば、経済的な観点からでのみ実現が可能であるものの、資本主義市民社会においてそれはアンガシュマン(政治参加)という形式を取らざるを得ない。しかしながらかつての社会主義の夢は失効しており、その桃源郷としての表象「第三インターナショナル」はその「平等」が懐古的である一方、いかなる時代においても実現不可能なことを示唆している。
椅子の高さが身長にあわせてバラバラになり、その上に立つ人々が滑稽に映るのは、キュレーターのアンドレイ・パルシコフの言葉を借りれば、「prokrustvo lozge – プロクルステスの寝台」(※1)に過ぎないからだ。一見するとイデオロギーとは無縁かつ普遍的と思われる「平等」という概念も、その実現が公式上潰えてしまったロシアにおいて単にソ連時代の懐古に過ぎないということを露呈している。一方で懐古的とされる表象(『第三インターナショナル』と社会主義の都としてのモスクワ)によって「平等」という概念を揺るがそうとするため、互いが作品の強度を補完し合い、インスタレーションとしか言いようのない作品形式を成り立たせているのである。
一方でモスクワ中心部の東に位置する、クールスク中央駅脇にあるコンテンポラリー・アート複合コンプレックス「Vinzabod」では去る2/15に地下ギャラリーの形態をとった期間限定プロジェクト《Vydelenyie – 分配》が開催された。この複合コンプレックスはかつての酒造ギルド集会場、酒蔵とその地下貯蔵庫が一体となった跡地(敷地面積は20,000㎡)を利用した巨大なアートコンプレックスである。そのため、有名なギャラリーが集いモスクワのコンテンポラリー・アート発信地の一つに数えられている。海外からの有名なアーティストの講演会(昨年末にはヴィト・アコンチが講演を行っている)や国内のロックスターのライブ会場となったり、普段から一般の来場者が多い。
中央広場すぐ横にある地下貯蔵庫を改造した期間限定のギャラリーには様々なアーティストの作品が収められており、コンセプトは名前が示すとおり作家のコンテンポラリー・アートでの位置を配置させること(鑑賞者による作家のマッピング)を意図している。作品を概観すると、やはり「地下」ならではの作品が多い。例えば、リュドミラ・コンスタンチノヴァのカリカチュア作品は国内の有名人の日常を皮肉った線画であり、いわゆる通常のギャラリーでは展示できないものが多い(このシリーズには次期大統領とされるメドゥヴェージェフの性格を嘲笑う絵画がある(下図)。いわく「彼は大統領選が間近であるのに、普段の習慣(麻薬吸引)がやめられません」というキャプションが添えられている)。
こうした痛烈な皮肉に満ちた作品だけでなく、地下という環境(酒造庫)が作品の鑑賞形態もしくは印象を決定付けている。グラフィック作品の―は鮮明な色彩と青系の線から構成されているため、描かれている対象のインパクトさに限らず、背景の暗さから鮮明に目へ飛び込んでくる。また彼の彫刻作品は木造のため、遠くから見ると背景に溶け込み何かがあると認識する程度で何の変哲もない。だが、近づいて鑑賞すると、照明によりそのリアルさが浮き彫りとなり、地下という閉じられた空間で不気味さを一層湛えている。
このプロジェクトはフランスのギャラリー「Rabouan-Moussion」と提携してキュレーター、アンナ・グートキンが企画したものであり、「外部」と連携し国内のアートシーンからのマッピングを避けようとするきらいがある。それは言論統制に傾倒しつつある現政権下では、アイロニー、過激なパフォーマンスやポルノグラフィック的な作品が公で発表するのは難しく、「地下」という発表形式が適しているということを読み取るのは誤りであろう。
むしろ、「地下」という展示形態が社会ないしは公へのアンチテーゼ以外に何を含みうるか。地下でのみアンチテーゼが存在できたソ連社会とは異なり、今日のモスクワにおいて原則的に言論は自由である。そのため、地下=アンチという公式は効力を持たない。つまりこの企画展は、否定的側面(地下での展示)もしくは「悪趣味」という部類の作品を提示することで鑑賞者がどうマッピングを行うかということを問いかけているのだ。
「地下」という概念が「公」のカウンターパートとして、モスクワのアートシーンを面白くし続けてきたわけだが、上記二つの展覧会にのみ焦点をあてると、これらはむしろ我々鑑賞者の奥底にある通念に異議申し立てをしている。それは、かつてのソ連社会が大衆を基盤として「地下」と「公」の対立項が存在していたのに対し、今日のロシアでは個々人の観念にこの対立項(「地下=通念への異議」、「公=通念」)が移行したことの証左と言えるかもしれない。
このことは「公」の部分に面白味がないということを意味しない。上記で持ち出した、非公式のアートシーンは公の部分が存在しているからこそ、存在意義を有するのであり、地上での過剰な圧力により熱量が生じるマグマのようなものである。そのため地下という狭くかつ限られた空間だからこそその爆発力を我々は感受できるのではなかろうか。地上というのは取りも直さず、「公」のことを意味するのだが、その圧力が必ずしも抑圧や排除といったものではなく圧倒的なパトスに満ち溢れ、正の側面としてもはや否定する余地もなく提示されている場合がある。このことを顕著に示す展覧会が、2/23の「祖国防衛記念日」に合わせているかどうかわからないが、現在開催されている。そのことは別途報告することにしよう。
※1-何もかも無理やりひとつの型に押し込めてしまうこと。強盗プロクルステスは捕囚者を寝台に寝かせ、その寝台よりも長ければその部分を切り落とし、短ければ体を引き伸ばしたというギリシア神話の一節に基づく。