東京・上野の森美術館で産経新聞創刊90周年・フジテレビ開局65周年事業の展覧会「モネ連作の情景」が開幕した。会期は10月20日~2024年1月28日。2024年2月10日には大阪中之島美術館に巡回する(出品作品は一部異なる予定)。
印象派を代表する画家のひとり、クロード・モネ(1840〜1926)。国内外のモネの代表作60点以上が一堂に会す本展では、モネの代名詞として日本でも広く親しまれている「積みわら」「睡蓮」などをモチーフとした「連作」に焦点を当てながら、画家の生涯をたどる。
印象派以前のモネの作品を紹介する第1章の見どころは、日本初公開となる大作《昼食》だ。モネが家族を描いた本作はフランス国家が主催し、17世紀半ばから19世紀後半まで続いた伝統的な公募展「サロン(官展)」の落選作でもある。フランスの芸術家にとっては唯一の登竜門だったサロンだが、1867年から審査基準が厳しく保守的になり、それまで何度も入選をしていたモネはこの意欲作《昼食》で落選となった。伝統的な絵画と決別し、印象派の道へ進む転機となった作品と言えるだろう。
1871年末からパリ北西、セーヌ川に面した風光明媚なアルジャントゥイユに移居し、同地を訪れたマネやルノワールとともに制作に励んだモネ。2章では、セーヌ川流域を拠点に各地を訪れたモネの70〜80年代の作品が揃う。
本章で目を引いたのはユニークな「アトリエ舟」が描かれた《モネのアトリエ舟》(1874)。ボートの上に小屋を設えた移動式アトリエは先輩画家で「水の画家」とも言われるシャルル=フランソワ・ドービニーのアトリエ舟「ボタン号」を真似たもの。悪天候もものともしないこのアトリエで、モネは水上ならではの景色を絵画に残した。このアトリエ号は本章の他の絵画の中にもひっそりと登場するため、探し絵感覚で見つけてみてほしい。
「印象派」が誕生したのもこの頃だ。批評家のルイ・ルロワがモネの《印象、日の出》(1872)に対し、茶化した意図で「印象主義」と雑誌に書き綴ったことが始まりで、結果的にグループ名となり74年春、パリで「第1回印象派展」が開催された。
蒸気船や鉄道網の発達によって、ヨーロッパ各地を旅したモネは、にぎやかな街ではなく人影のない自然風景を好んで描き、ときには危険を冒しながら道なき道を進んでイーゼルを立てた。3章では、ノルマンディー地方のプールヴィル、エトルタといった場所でモネが描いた作品と、同じ場所で年月を経て描いた作品からわかる着眼点の移り変わりにフォーカス。断崖などの明確な造形から天候がもたらす海や空の変化へと、移ろうものをキャンバスに描きつけようとしたモネの熱量が伝わる。
本展のハイライトを選ぶとすれば、複数の連作が並ぶ4章「連作の画家、モネ」だろう。42歳のモネが移り住み、終の住処となったフランスのジヴェルニー。自宅付近の秋の風物詩であり、モネが体系的に連作の手法を実現した「積みわら」のシリーズからも4点が出品される。
一度に複数のキャンバスを用意し、陽光を受けて刻一刻と変化する光景を同時進行で描いたモネ。なかでも《積みわら、雪の効果》(1891)は、作品を連作として展示したこと名声を確実なものにしたパリのデュラン=リュエルでの個展で展示された作品でもある。そうした説明を抜きにしても、ぼってりと積み上がった藁と晴れ渡る空、夕日が描かれた画面からは乾いた秋の気持ち良よさと藁の香りが漂ってくるようで清々しい。
モネといえば、水に浮かぶ睡蓮のモチーフを思い浮かべる人は多いのではないだろうか。本展の最終章では、睡蓮やジヴェルニーの風景を描いた作品が集まる。花のフォルムがくっきりと描かれた最初期の《睡蓮》(1897-98年頃)に始まり、年を追うにつれて水面の微細な変化と映り込む樹木などの光景が溶け合って描かれていく。晩年のモネが患った視覚障害と視力の衰えも反映した筆致は、より抽象的に、より凄みをもって感じられる。
通常、こうした巨匠の展覧会では影響を与え合った他作家らの作品もあわせて紹介されることも多いが、本展は「100%モネ」を謳った、全点がモネという貴重な展覧会。印象派以前から晩年までの作品が揃い、作品を「連作」として見ることでモネの関心、スタイルの変化が明確にわかる本展は、モネ入門としてもぴったりの展覧会と言えるだろう。
野路千晶(編集部)
野路千晶(編集部)