ひとつひとつの作品が違った表情を見せ、そこはかとなく愛らしい……。東京・六本木のサントリー美術館で開かれている「没後190年 木米」展で、作家の全容を見渡した筆者の印象だ。
江戸時代後期に活動した木米(1767〜1833、*1)は、中国陶磁器を熱心に研究し、京都周辺で作陶に努めた作家である。中国陶磁器を範としながらも、木米の作品はなぜ創造的なのか。答えを最初にお伝えしておけば、木米には「愛」と「自由」があったからということになろうか。
しかし、いかに多様で豊かな文化が花開いた時代だったとはいえ、江戸は、革命があった近代のフランスなどとはずいぶん状況が異なっていたはずだ。封建制社会のもとで、「愛」と「自由」はどのように美術に反映したのだろうか。
木米は、極めて意欲的な中国陶磁器の研究家だった。この展覧会では、入り口を入ってすぐの場所に、そのことがよくわかる作品《染付龍濤文提重》が展示されている。重箱が手提げ台に載った、陶磁器としては少々珍しい形状の作品だ。青い釉薬で中国陶磁器を象徴するかのような龍の文様が重箱の胴や蓋にいくつも描かれている。筆者はまず、パターン化された龍のこの形を、とてもユーモラスに感じる。中国・明の龍文に倣(なら)っているという。
「染付」は、中国陶磁器の代表的な技法の一つである。龍の文様は陶磁器製の手提げの重箱にあしらわれているということもあって、なかなかの気品を漂わせている。それゆえ、長く見ていると愛でたくなってくる。
研究を怠らなかった木米は、おそらく中国から輸入した染付の実物をよく見ていたはずだ。どうすればあの気品が表現できるのか。それを紙の上で再現すべく残した《古器觀図帖》という中国陶磁器のスケッチ帖が、この展覧会に出品されている。
写真が存在しなかったこの時代の日本では、描いて写すのが記録の基本だった。後に述べるように木米は文人画に分類される詩情豊かな絵画を描いた画家でもあったが、この画帖に描いた中国陶磁器の絵は写実性が高く、博物画に近い。手元に自分で描いた模写を置いておき、作陶の際の参考にしようとしたのだろう。
筆者は、まずこの絵に「愛」を感じる。文人画に見られるような抽象化への志向はここにはなく、できるだけ客観的に描こうとしていることはわかるのだが、筆あとにほんのりと温かみを感じるのだ。中国陶磁器への「愛」が表れているようにも思える。
《染付龍濤文提重》の最後の2文字の「提重」は野外でピクニックなどをするときに弁当を持っていくような用途で使われる道具。漆工品の例が多かったようだ。木米は、それをあえて染付の磁器で作ったのだ。そこには、自由な制作を旨とする木米の姿勢が反映されている。もはや、ただの中国陶磁器の模倣ではない。木米の「愛」の表現だったとも言えるのである。
木米の本拠地は京都だったが、文化4〜5(1807~08)年に金沢に招かれて春日山窯を開き、活動していたことがあった。その作陶の成果である《三彩鉢》と《黒釉三彩瓜文鉢》は、中国・清の景徳鎮窯の素三彩を手本にしているという。ただし、《三彩鉢》の器形は、朝鮮半島の造形に由来する高麗茶碗からの着想ではないかというのが、同展での指摘である。実に興味深い。筆者は、三彩の美しい色合いが魅力的なこの器に何か木米特有の表現が出ていることを感じながら鑑賞したのだが、ここでは木米は「自由」を得ていた。さまざまな分野を研究し、組み合わせてでも自分がいいと感じた表現を積極的に取り込んでいこうとしていたのだ。
木米は、「愛」というキーワードで語るべき、さらに重要な文化の中にいた。煎茶道である。煎茶道は18世紀半ばに禅僧の売茶翁(ばいさおう)が京都周辺で開いたもので、移動式の茶店で道行く人に煎茶を勧めたことに始まったという。煎茶道は江戸後期の「文人」と呼ばれる、詩書画を愛した人々に影響を与え、その世界に木米もいたのだ。そして、たくさんの道具を作った。言うまでもなく道具なくして煎茶道は実践しえない。木米はずいぶん重要な役割を果たしたのではないだろうか。
ここで、木米の煎茶愛を象徴する作品を紹介しておこう。《白泥蘭亭曲水四十三賢図一文字炉》である。上に急須を載せて沸かすための炉なのだが、空気を通すための穴から人物の像が上半身を覗かせている。《蘭亭序》という書の名作を書いた4世紀の書家、王羲之の姿だという。筆者が特に感じ入ったのは、王羲之の像が見せている笑顔である。そこには必ずや木米の心が乗り移っているのではないかと思うのだ。
木米が制作した煎茶の急須も実に愛らしく、バラエティーに富んでいた。造形も色合いも、ただの中国陶磁器の写しという次元を超えた自由さを感じる。木米の急須を使って煎茶を飲んだ文人たちは、心が楽しさで満たされたのではないだろうか。
ここで、木米を語るうえで重要な江戸時代の「文人」のことに触れておきたい。中国の教養のある人々のことを指していた「文人」に憧れた人々が、日本でも「文人」になったのである。身分にとらわれることがなく文人が生まれ、詩書画を盛んにした。文人画家として知られる田能村竹田や浦上玉堂が有名だ。
木米がこの世界に近づいたのは、琳派の流れを汲んだ京都出身の絵師、中村芳中(ほうちゅう)を通じて、大坂の商家に生まれた木村蒹葭堂(けんかどう)という文人の紹介を受けてからだという。文人の世界は自由を旨とし、まさに詩書画の間を行き来していた。木米はその詩書画に陶を加えた人物だともいえる。「文人陶工」とも言われるゆえんである。
木米が文人だったことを象徴するのが、文字を書き入れた陶磁器だ。日本の絵画は、文字と絵が同じ画面でしばしば共存している。木米は、釉薬を使って文字を書いたり刻み込んだりすることで、それを陶においても実行した。書かれた文章をいちいち読むことはあまりしないのかもしれないが、文人の空気がよく伝わってくる。
文人画家・木米が描いた絵画もまた魅力的である。
《松下煎茶図》は、楕円形と矩形を組み合わせた造形の中で流れ落ちながら途中で消える滝の描写の妙が魅力的だが、画面下部には人物が煎茶を楽しんでいる様子が小さく描かれている。ただし、かなり目を凝らさないとわからない。木米はほかにも煎茶の様子をさりげなく描きこんだ山水画を何枚も描いている。絵画では煎茶愛を強く主張するのではなく、さりげなく画面に仕込むのが木米の流儀だったのかもしれない。
《松下煎茶図》の画面左上に賛を書き入れた田能村竹田は豊後国(今の大分県)出身の文人画家として有名だ。木米とは煎茶を通じて知り合ったという。竹田は、賛として記した七言律詩の中で、木米を文人画家の池大雅や俳人の与謝蕪村らの先人に通じる人物とし、悠然と作陶に打ち込む様子をたたえ、この作品自体との偶然の出合いを喜んだことなどを書いているという。竹田にとってもまた、愛すべき作品だったのだろう。
《涅槃図》は、とても個性的で目を喜ばせてくれる逸品だ。釈迦の入滅を悲しんで集まった人間や動物を描いた画題だが、落書きのような洒脱な筆致に強く惹かれる。象、虎、蛇、鶴などに混じってアザラシらしき動物がいるのも面白い。いかなる動物も釈迦のもとに集まってきたということか。木米が到達した「自由」の境地を表した作品とも言える。
*1──これまでは「青木木米」と呼ばれることがしばしばあったが、本人が名乗っていた「木米」が「青木八十八」を縮めることで生まれた経緯等を考慮し、本展では「青木」はつけずに「木米」のみを作家名として使用している。
小川敦生
小川敦生