シンガポール出身でベルリンを拠点とするアーティスト、ミン・ウォン(1971〜)。9月2日~10月21日に東京のオオタファインアーツにて個展「宇宙歌劇」を開催中だ。ウォンはパフォーマンス、ヴィデオ、インスタレーション、写真など多様な手法を通して映画やポピュラーカルチャーを再現し、人々のアイデンティティ、社会構造、映画言語などを折り重ねていく作品で知られるが、近年は中華圏の人々にとって伝統的大衆娯楽である広東オペラ(京劇)について探究を深めている。「宇宙歌劇」で展示する映像作品《ワヤン・スペースシップ》は、広東オペラ映画と旧ソ連圏のSF映画、さらにミン自身が宇宙飛行士を演じた過去の映像などを織り交ぜた映像コラージュだ。
Tokyo Art Beatは本展を機に、東京都現代美術館学芸員の崔敬華を聞き手に招いたインタビューを実施。作家の出身地であるシンガポールの広東オペラや映画の歴史、ナショナリズムへの問いとトランスナショナルな在り方、ジェンダー越境的な表象を含むミンの作品を軸に、これまでの歩みについて聞いた。【Tokyo Art Beat】
━━広東オペラに長らく関心をもっていらっしゃいますが、その背景には南洋美術学院で中国画を学んだことや、ご家族が広東オペラに携わっていたということもあるのでしょうか。
ウォン:義理の叔母のジョアンナ・ウォンはオペラ歌手で、シンガポールの広東オペラ界における人間国宝です。独立後はシンガポールの文化大使を務め、中国系のパフォーミング・アーティストとして各地へ派遣されました。生まれはマレーシアとシンガポールがイギリス領マラヤとして総称されていた時代のペナンです。シンガポール大学に入ってから私の叔父と出会いますが、叔父は彼女のためにいくつものオペラを書きました。
━━そのオペラは、ジョアンナさんがシンガポールに移住したことを表した作品でしたか? それとも伝統的な物語をもとにした作品でしたか?
ウォン:あとで知ったんですが、叔父は中国の歴史や神話を題材にしてオリジナルの台本を書いたそうです。私自身、一時期は劇作家として活動していました。南洋美術学院では、中国画、書道、篆刻(てんこく)、美術史、文学を学んでいましたが、それとは別に、シンガポールの英語劇の戯曲を書いていたんです。
━━どんな劇ですか?
ウォン:学生劇作コンクールで優勝し、プロとして初めて書いたのが《ワヤン・サヤン》でした。ワヤン(シンガポールのストリートの広東オペラ)の女優と、たまたまステージ裏に来ていた若い男性との出会いを描いた作品です。
━━それはご自身の実体験をもとに書かれたものですか?
ウォン:そうですね。その頃はよくワヤンのステージ裏に行って、写真作品や絵画作品を作るために写真を撮っていたんです。そういった初期の作品の一部はシンガポール美術館に所蔵されています。でも、実際のステージ裏を見たら、「ステージ上」よりもそっちのほうに面白さを感じたんです。ステージ上では役者が皇帝や王妃、王子や王女、神話の神や女神、歴史上の英雄を演じますが、ステージ裏はカオスです。叫んだり、汗まみれになったり、駆け回ったり、ぶつかったり。それでも、「ある線」を超えてステージに上がると、ガラッと変わるんですよ。私はステージ裏の魅力的な雰囲気に着想を得て、これまでに何度も上映された《ワヤン・サヤン》を書きました。
━━そのいっぽうで、様々な人種の役者が出演する作品も書いていますね?
ウォン:はい、そうです。私はシンガポールの英語劇の世界にいましたが、様々な言語や種類の異なる「英語」を使って台本を書いていました。シンガポールには「純粋」な英語を話す人はいません。様々な教育レベルの人がいて、ほとんどの人は「シングリッシュ」(シンガポール英語)や、複数の言語やスラングを混ぜてコミュニケーションをとっています。そんな環境のおかげで言語が好きになり、言語でクリエイティブになれることを知りました。当時、ラジオとテレビはできるだけ正しい言語を使おうとしていましたが、演劇では自由だったので、私はその柔軟性を活用しました。演劇では、話し言葉だけでなく、非言語コミュニケーションや豊かな身体表現が頻繁に使われます。「何を言うか」よりも「どう言うか」に意味があるんです。たぶん、こうした理由から、パフォーマンスと言語が私の作品の基盤になったんだと思います。
━━あとで手がけた多くの作品でも、そのことはよくわかります。たとえば、ひとつの映画のなかで、複数の人物をよくリエナクト(再演)していますね。
ウォン:はい、普通は演じるはずのない役をいつも演じています。そうした意図的な誤りは私の実践の一部となり、制約や支配から逃れるための戦術でもあります。シンガポールの演劇界にいた友人たちは素晴らしい役者でしたが、当時アメリカやイギリスでは、娼婦やコックや難民やギャングといった、お決まりの役しかもらっていないことに私は気がつきました。友人たちの不満がひしひしと伝わってきましたよ。そこで、あらゆる役柄を自分で演じることを戦略にしたんです。様々な階級、人種、国籍、そして異なる言語を話す老若男女をです。どの役も、私のアイデンティティからできるだけ離しています。そういった意図的なミスキャスティング(誤った配役)は異化効果を出す手法になりました。観客は「役」に集中し、演出家や脚本家がその役柄でしようとしていることを考えるんです。
このやり方を発見したのは、数年ロンドンで過ごしてからシンガポールに帰国したときでした。当時はシンガポールのマレー映画産業を題材にした作品を作りたいと思っていました。マレー映画は1950年代後半から60年代前半に黄金期を迎えていましたが、当時の複雑な社会史と政治に埋もれたものになってしまいそうでした。通常、映画館を所有していた中国系のプロデューサーたちが出資し、地域でシンガポールにもっとも近く、成熟した映画産業界のボリウッドからインド人の撮影班を雇っていました。出演はマレーシアとインドネシア出身のマレー系の役者、歌手、ダンサーでした。
私はこうした映画から数本をリエナクトし、その登場人物全員を演じました。演じた役は50年代から60年代頃のマレー人ムスリムでしたけどね。
そこで何が起こったかと言うと、当時現代的だとされた価値観が現代社会の現実と衝突したのです。たとえば、私は女性が性的な欲望についてオープンに話すシーンや、登場人物が信仰を罵ったり祈ったりするシーンなどをリエナクトすることにしたんです。マレー人ムスリムの友人たちは、所属するコミュニティを絶対に敵に回したくないのでそういう役は演じられないと言いましたが、私は中国系シンガポール人でしたので、距離を取りつつ役に入るのは難しくありませんでした。
━━その時代の物語は、その後言われるようになった、多文化主義国家としてのシンガポールという神話に対する批評として機能しうると思いますか?
ウォン:はい、間接的にではありますが。私はナショナリズムとナショナル・シネマという概念にとても関心があります。2009年の第53回ヴェネチア・ビエンナーレのシンガポール・パビリオンで展示したとき、その神話についての問いを提示しました。「ナショナル・パビリオン」で構成されるヴェネチア・ビエンナーレのような国際的なプラットフォームにおいて、この展示が語る物語は「ナショナル・アイデンティティ」とは何かという大きな探究を行うための土台のようなものです。
シンガポールという新しい国は、多民族国家なのに中国系が大多数だという体裁を取りたがり、マレー文化との過去を強調したがりません。もうひとつの国の課題は、シンガポールのディアスポラ的な中国人のアイデンティティと、中国本土のアイデンティティとを、別物として区別することです。たとえば、シンガポールの中国系のルーツを認めるために、政府は「シンガポール・チャイニーズ・アート・センター」を開設しました。そこでは、何十年も規制されていた中国南部の方言(福建語、潮州語、広東語など)の多様性を取り戻す取り組みが行われています。
━━私はヴェネチア・ビエンナーレでの展示を見られませんでしたが、それはたんなる批評ではなく、賞賛の意味もあったとどこかでおっしゃっていましたね。それはどういうことで、どのように表現されたのか説明していただけますか?
ウォン:ヴェネチアの展示では、ほかの国が多文化主義に取り組み始める以前から文化のるつぼであるシンガポールを称えました。私はそのことを、あまり知られていないけれども素晴らしいシンガポールの映画遺産を通じて表現したんです。具体的には、国籍、人種、ジェンダー、言語といった概念を扱ったいくつかの映画のリエナクトを上映しました。
たとえば、ダグラス・サークのハリウッド映画『悲しみは空の彼方に』(1959)のリメイクでは、シンガポールの中国系、インド系、マレー系の男性俳優に黒人、白人、混血のアメリカ人女性の役を交代で演じてもらいました。ウォン・カーウァイの『花様年華』(2000)のリメイクでは、白人の女優に彼女が知らない広東語で台詞を言ってもらいました。ヴィデオ・インスタレーションを3つ展示しましたし、映画のエフェメラを収集しているシンガポール人から借りた大量の資料も公開しました。シンガポールのパビリオンは、まさに「ナショナル・パビリオン」でした。そこにあったシンガポールは、映像作品やパフォーマンスで活躍する何世代ものアーティストたちにとってはインスピレーションの源でした。
━━ヴェネチア・ビエンナーレ以降、若い頃関心を持っていた広東オペラを再び取り上げていらっしゃいますが、それはどのように展開したのでしょうか。
ウォン:2010年から毎年香港を訪れて、香港映画史のリサーチを続けています。香港映画の歴史は広東オペラ映画から始まっているんです。19世紀末から、広東オペラの一座が香港の港からアメリカや東南アジアに渡って、ディアスポラ(移民、民族集団の国境を越えた離散、離散した民)の華人コミュニティに向けて上演しました。同時に、役者がアメリカでハリウッド映画に出会い、物語や音楽や技術を中国に持ち帰るときに香港を経由しました。その結果、広東オペラが香港で映画化されるようになり、50年代と60年代に黄金期を迎えました。多くの映画では、現代性と、香港のハイブリッドな都市生活が表現されていて、衣装、現代生活を歌った歌が特徴でした。
━━その意味では、現代性は西洋化と同義ですか?
ウォン:歴史的な意味ではそうです。でも、過去10年香港に通い続けて、香港で起きている様々な変化も見てきました。たとえば、アート・バーゼルが開催されたり、一流のギャラリーがいくつもオープンしたりしました。中国本土から資本が流出するサインでしたね。あと、中国政府への社会的な不安もあり、デモが何度も起こりました。香港と中国の未来を誰もが心配していました。私はその未来をSFというレンズを通して見ることにしたんです。中国語圏におけるSFの歴史を研究したところ、それが20世紀のあいだ盛衰を繰り返し、現在はその第3の波にあることがわかりました。私は作品作りに向けたふたつのリサーチをつなげてみました。その過程で、広東オペラ映画と中国のSFという、並行する歴史への興味が融合したプロジェクトをいくつか手がけました。
また、香港の伝統的な広東オペラの竹製ステージの構造と歴史も研究しました。文化大革命の後の中国本土では竹製ステージが廃れてしまったにもかかわらず、昔ながらの竹の劇場は、いまも栄えている香港固有の文化遺産です。
2年ほど前にシンガポール美術館からパブリック・アート・プロジェクトの依頼を受けたとき、私は「ワヤン・スペースシップ」を作ることにしました。私がワヤンのステージ裏を撮影していた1990年代後半に比べて、ローカルな広東オペラのステージはほとんど姿を消しましたが、ステージ制作者の最後のひとりを見つけることができました。父親から材料と知識を受け継いでいる彼の力を借りて「ワヤン・スペースシップ」を作ったんです。
土台には、東南アジアの希少な海洋木材を使いましたが、装飾パネルと外側のキャンバスのデザインを変えて、農業や宇宙開発計画で使用される鏡面反射材を取り入れて作り直しました。さらに、鏡、蛍光管、層状のダイクロイックフィルムを試しに使い、広東オペラの衣装の色に似た色を組み合わせて、抽象的な舞台美術を作りました。サーモンピンクとミントグリーンの組み合わせや、イエローにブルーとパープルを対比させる特徴的な手法は、光のスペクトルを操作する実験から生まれました。
でも、もっともエキサイティングだったのは、夜に「ワヤン・スペースシップ」全体がライトアップされ、一方向ミラーと層状のダイクロイック・フィルムが無限のホログラフィック効果を生んだときでした。昼間はステージが周囲を反射して「カモフラージュ」されていますが、夜になると、SF広東オペラを発信する一種の扉に変身します。シンガポール美術館の裏手にあるコンテナ埠頭前で毎晩行われたこの催しは、ワヤンのステージが歌劇団とともに船で運ばれてきた時代を彷彿とさせました。スペースシップが動き出すのは、美術館が閉館する7時を過ぎてからです。考えた末に、かつて家族連れがワヤンを見に行っていた夜の時間帯への移り変わりをこのように表現しました。
━━今回の展覧会では、「ワヤン・スペースシップ」で発表されたヴィデオ作品が展示されていますね。あなたが演じる「学識ある戦士」が宇宙船の中を歩き回る映像と、過去の広東オペラとSF映画のアーカイブ映像がコラージュされていますが、これらを組み合わせた意図はなんでしょうか。
ウォン:コラージュされているのは、同時代の広東オペラ映画とSF映画です。SF映画は主にソ連と東欧のものです。1950年代後半から60年代前半の作品なのですが、その時代は、優れた作家、芸術家、音楽家、デザイナーなどがユートピア的な理想を表現しようとしてSFに目を向けた頃でした。スタンリー・キューブリックの『2001年宇宙の旅』も含めましたが、キューブリックもじつはこうしたソ連の映画からインスピレーションを得ています。
広東オペラのどのクリップにも、広東オペラでもっとも有名な男役のひとりであるヤム・キム・ファイが出ています。彼女は女性役と男性役、現代人と歴史上の人物も、神話の登場人物も演じていました。作品のなかではひとりの主人公が時空や性別を超えて旅をしていますが、時々、背景に宇宙飛行士も登場するので、最初は奇妙に思われるかもしれないけれど、決してあり得ない話ではないと思います。
以前、中国人の宇宙飛行士たちが中国の神話に触れながら夢や体験を説明しているインタビューに出合ったことがあります。たとえば、中国人初の女性宇宙飛行士であるリュー・ヤンは、孫悟空が雲の中を歩いている夢を宇宙で見たと言っていました。また、中国の神話や伝説に由来する名前の宇宙船もたくさんあります。不思議だし、認めるのも少し恥ずかしいですが、いま行っているリサーチのおかげで、若い劇作家兼アーティストとして《ワヤン・サヤン》を手がけた頃に一周して戻ったんだと気がつきました。
━━展覧会にはフォトコラージュも展示されていますが、この制作プロセスについて聞かせてください。
ウォン:今回展示している写真のコラージュには、1950年代から60年代にかけてシンガポールとマレーシアで活躍したワヤン・オペラの男役の女性俳優たちが主に写っています。使ったのはプロモーション用のスタジオ写真です。宇宙の画像は同時代のソ連のSF雑誌や本の挿絵を引用したセノグラフィー(舞台美術)で見つけました。また、キューブリックの『2001年宇宙の旅』で主人公が4次元の時空に入ってゆくシーンを連想させる、燃えるような「異世界」の光を演出するために、ダイクロイックフィルムを重ねたり、フラッシュ撮影を試したりしています。
最後に絵を完成させるために、毛筆を使って異なる要素を繋いでみました。先ほどお話したように、私の実践すべてが円環状につながるので、複数の時空を融合させながら、中国の山水画のようなものに立ち返ることができました。
━━今回展示されている作品は、中国文化が移動しながら、ほかの文化に適応し経てきた変化を探究しているいっぽうで、近年は中国がほかの地域や国家と繰り広げてきた政治的、思想的力学について考察する作品も制作されていますね。
たとえば《Hand In Hand(手に手をとって)》(2019)という作品では、あなたがダカールを歩き回りながら、中国資本で建てられた巨大なインフラを訪ねる姿がとらえられています。そこであえてアイデンティティを不明瞭にすることで、中国が経済的、思想的影響を獲得しつつある土地で、あなたの中国人的な側面がどう展開するのかを見せていますね。こういった作品からは、中国系/人であるとは何かという継続的な問いが見てとれるような気がしています。
ウォン:私の作品の根幹にあるのは、アイデンティティとその形成の探究です。30年間ヨーロッパに住んだ中国系シンガポール人3世のアーティストとして、中国系の作り手であることの意味と、世界における自分の立場について考えています。「中国人」には様々な意味が含まれており、その意味の複雑さを指摘し続けることが大切です。私がどのように見られ、どのように紹介され、この世界でアーティストとしてどのように機能するかに影響することなんです。誰もが中国アートに興味を持ち、中国本土や香港や台湾からアーティストを招くのに、シンガポールからは招かないという時代がありました。なぜならば、私は十分に「中国人」ではないとみなされたからです。いっぽう、現在私は東南アジアに住んでいないのに、東南アジアのアートシーンの一員と思われることがよくあります。人は誰かを分類するためにこういう枠組みをよく作るんです。
しかしパンデミックが始まったとき、どんな人であるかは関係なくアジア人はみな差別の対象になり、いわゆる「中国ウイルス」はお前たちのせいだと非難を受けました。 この問題はそれだけにとどまりません。私の最新のプロジェクトでは、1972年にニクソンが毛沢東と握手して以来のアメリカと中国の外交関係を調べています。考えてみれば、アメリカと中国本土との関係が正常化してからまだ50年しか経っていません。しかし楽観主義と関係構築の時代は終わり、不信、断絶、敵対という、やや危険な時代が訪れました。私の新作のレクチャー・パフォーマンス《ラプソディ・イン・イエロー》(2022)は、「アメリカにつくか?中国につくか?」という選択と、そのような選択を強いられることから生じる緊張感がテーマです。シンガポールは長いあいだその選択を留保してきましたが、その綱渡りは徐々に危うくなっています。
私はアーティストとして異なる世界の架け橋になろうとしています。どちら側の人間でもありませんが、両者をコードスイッチすることができる。つまり、アウトサイダーとインサイダーを同時に演じることができるのです。
━━本日はどうもありがとうございました。
Ming Wong
アーティスト。1971年シンガポール生まれ、ベルリン在住。パフォーマンスや映像をはじめとする様々な手法を用いて、傑作と名高い映画やポピュラーカルチャーを再現して自ら入り込み、オリジナルの真正性、国籍や人種的・文化的アイデンティティー、ジェンダー、言語、ナショナリティーといった問題に言及する作品で知られる。2009年第53回ヴェネチア・ビエンナーレのシンガポール館代表となり、審査員特別表彰を受賞。シドニー・ビエンナーレ(2010)、光州ビエンナーレ(2010)、シンガポール・ビエンナーレ(2011)、リバプール・ビエンナーレ(2012)、釜山ビエンナーレ(2018)、アジア・アート・ビエンナーレ(2019)といった国際展に多数参加するほか、世界各地で個展を開催。日本での主な個展は「ミン・ウォン ライフ オブ イミテーション」(原美術館、2011)、「私のなかの私」(資生堂ギャラリー、2013)、「偽娘恥辱㊙︎部屋」(ASAKUSA、2019)。
崔敬華
崔敬華