東京・六本木の森美術館で3月26日まで開催中の「六本木クロッシング2022展:往来オーライ!」に参加する松田修(1979年兵庫県尼崎市生まれ、東京在住)。昨年秋にはオルタナティヴスペースThe 5th Floorで個展「膿を照らす」を行い、近く3月24日から4月2日まで個展「なんぼのもんじゃい」を無人島プロダクションで開催する。初の単著『尼人』(イースト・プレス)を来月刊行するなど、いま最も精力的に発表活動を行っているアーティストの一人だ。
映像や立体、絵画など様々なメディアを駆使し、社会問題や現象をモチーフにした作品制作を続ける松田が照射してみせるものとは? キュレーターで横浜美術館館長の蔵屋美香が論じる。【Tokyo Art Beat】
昨今、美術館やギャラリー、オルタナティヴスペースといった展示の場で、年齢や性別、出身地、障害の有無などの点で出品作家に偏りが生じないよう注意が払われるようになった。美術界にも変化が生じているのだ。
しかし、それでも美術の土台を成す部分には、いまだ強固な同質性が気づきにくいかたちで根を張っていることがある。
たとえば、あるギャラリーで展覧会が企画される。そこに集うアーティストやキュレーターは、たとえ年齢、性別、出身、障害の有無などの面で多様であっても、そのほとんどが大学や専門学校で美術を学んでいる。つまり、美術というものがこの世に存在し、それを学ぶ方法があることを知っており、そのうえで美術の価値を多少なりとも認めて進学費用を負担する人がいてはじめて、彼らはこの場に集っているのだ。
インドの経済学者、アマルティア・センの「ケイパビリティ(潜在能力)」という概念がある。個々人が持つ選択肢の多寡に焦点を当てる考え方である(*1)。
平等とは何かを問うなかで、センは、そもそも人間は多様であり、何を幸福とするかも様々だから、「多様」でありつつ「平等」であるための道を探らねばならない、と考えた。そこで、真の平等の実現は、「多様」な道を選ぶ機会が誰にでも「平等」に与えられているかどうかにかかっている、という説を唱えるに至った。
選択肢の束は、すべての人が等しく持っているわけではない。先ほどの美術の話もそうだが、たとえばある子供が宇宙飛行士になりたいと思うためには、まず宇宙飛行士という職業があり、そこに達する学びのルートがあることを知らなければならない。情報を与えてくれるのは、身近な大人かもしれないし、学校や本、インターネット、博物館かもしれない。こうした出会いをもたらす環境なしに、子供が宇宙飛行士という職業を思いつき、将来の選択肢に加えることはないのである。
さて、松田修の話である。
森美術館で開催中の「六本木クロッシング2022展:往来オーライ!」(2022年12月1日〜3月26日、キュレーター:近藤健一、天野太郎、レーナ・フリッチュ、橋本梓)に、松田のインスタレーション作品《奴隷の椅子》(2020)が出品されている。モニター画面に現れるのは、デジタル処理によりぎくしゃくと動くひとりの女性の写真だ。女性は、高校を出てすぐに働き始め、やがて小さなスナックを持ち、3人の男の子を育て、親を介護し、コロナ禍で店を閉めるまで必死に働いた自分の人生を語り出す。
この女性のモデルは松田の母親である。女性のセリフは母親へのインタビューに基づいており、その奇妙な裏声は松田のアテレコによる。
松田の実家は、兵庫県尼崎市の売春街近くにある。日本では1957年の売春防止法施行以来、売買春は禁じられている。しかし「かんなみ新地」と呼ばれるこの地区は長く法の目をかいくぐって営業を続け、2021年、コロナ禍をきっかけにその歴史に幕を下ろした。以後このテキストでは、松田の流儀にしたがってこのあたりの地域を「尼(アマ)」と呼ぶことにしよう。
作品には女性の次のようなセリフが出てくる。
19歳で長男を産み、当時母親が働いていたスナックで働きはじめました。働き口はこれ以外考えられず、友達も多く働いていたので、抵抗はありませんでした。[中略]実家も貧乏だったので、専門学校や大学に進学することは考えたこともありません。私の街では普通のことでした。
私は、もうちょっと賢ければ飛行機の客室乗務員になりたかったんです。なり方もわかりませんが。いろんな国に行きたかった。自分の人生に後悔はありませんが、自分で選んだ人生ではなかったと思います。
これらの言葉は、先ほどのケイパビリティの考え方の核心を突いている。女性の生きた環境には、高校以上に進学するための、また客室乗務員という職業に就く道のりを知るための可能性が欠落していた。「自分で選ぶ」ことのできる道は、そもそも非常に限られていたのである。
松田もまた、アーティストを目指して進学するような環境に育ってはいない。冒頭の例に戻るなら、専門教育を受けた人びとが集う美術の場に加わる可能性は本来低かっただろう。しかしいくつかの偶然により、東京に出、働きながら予備校に通い、大学進学を経てアーティストとなった。この経緯については、昨年行われたトークの記録(*2)を参照してほしい。ここでは、松田が尼の環境から、本人によれば「うっかり」越境するきっかけとなった要因のいくつかをあらためてあげておこう。
ひとつは自転車である。芦屋、宝塚、三宮といった周辺の高級住宅地に自転車で遠出をするようになって、少年時代の松田は、尼とは異なる世界があることを知った。ここで松田は、恵まれた環境に最初から生まれる人びとがおり、自分たちがどれだけ働いてもそうした暮らしに届くことはないという不平等な現実への怒りを育んだ。
もうひとつはテレビである。自分の志向に合うものばかりを勧めてくるインターネットとは異なり、他人が決めたプログラムが一方的に流れるテレビには、予想外の出会いをもたらす可能性が潜んでいる。松田は子供時代から、大人たちが不在の家でテレビをつけっぱなしにし、もっぱら映画やお笑いを見ていたという。
3つ目はサブカルチャーである。高校進学を機に、働きながらひとり暮らしを始めた松田は、バイト先の先輩の影響もあり、『STUDIO VOICE』『DOLL』といった雑誌を通してサブカルチャーの世界を知った。HIP HOP、ノイズミュージックなどの音楽に興味を持ち、またデヴィッド・リンチの諸作品にも触れた。このなかで、やがてポール・マッカーシー、会田誠、田名網敬一など、サブカルチャーと地続きの表現をする美術家たちに出会うことになる。
こうして松田は、サブカルチャーを経由して美術の領域にたどり着いた。阪神淡路大震災の翌年、1996年から2000年ぐらいまで、1979年生まれの松田が高校1、2年から20歳前後の短い時期である。
1995年にWindows 95が登場したとはいえ、インターネット全盛のこんにちとは異なり、この時代のテレビと紙媒体の雑誌にはまだ勢いがあった。先に述べたように、テレビにおいては視聴者がプログラムを選ぶ範囲は限られている。また当時のサブカルチャー雑誌は、切れ味のよいグラフィックという共通項によって、幅広いジャンルの情報を横断的につなげて見せていた。予期しない出会いをもたらすしくみを内在させた、インターネット以前のふたつの媒体は、松田が尼から外に世界を広げるための格好の培養器となったのだ。
《奴隷の椅子》に話を戻そう。この作品について松田は、先にあげたトークで次のように述べている。
貧困を生む構造に対する怒りは一生消えないけれど、近年、直接的に怒ったりするのではなく、うまく呪う方法はないかと考えています。実際に貧困と関わらなくても、そのことを見る人に考えさせる。これを僕は「呪い」と呼んでいます。呪いらしい呪いにすると、見るひとはいやがりますが、一見やさしそうなもので呪いをかけることはできる。その意味で、《奴隷の椅子》はとてもうまくいったと思います。ぜんぜん知らない人生を体験して、その先ずっと考えてしまうしくみを作ることができました。
つまり《奴隷の椅子》は、貧困に対する怒りの表し方を調整し、「やさしい呪い」とすることで、多くの人へのアプローチが可能になった、画期を成す作品だというのだ。
では、《奴隷の椅子》以前に制作された、人がいやがる「呪いらしい呪い」を表す作品とは、一体どんなものなのだろうか。
2022年秋、東京都台東区のオルタナティヴスペース、The 5th Floorで、松田の個展「膿を照らす」(2022年9月25日〜10月1日、キュレーション:高木遊、岩田智哉)が開かれた。若手から中堅の作家は往々にして新作ばかりを求められる。そんな彼らに過去を振り返るための小休止として回顧展を実施してもらう、という主旨の好企画、「ANNUAL BRAKE」の一環だ。
もと社員寮だという会場は、3つの小ぶりな部屋に分かれていた。第一室(501)には、2008年から翌年にかけて作られた映像作品が並んでいる。東京タワーを男性器に見立ててオナニーをする《東京ナニ~》(2008)や、男性器でバーベルを上げ下げする《チントレ》(2009)など、いずれも身も蓋もない下ネタである。
第二室(502)に予定されていた《生れて、すみません。》(2018)は、事情により別会場での展示となった。オウム真理教の教祖で、2018年に死刑となった麻原彰晃を扱う映像作品である(*3)。
第三室(503)に展示されたのは、いずれもヴィデオゲームを素材とする最初期の作品だ。《911 ぶん死ぬマリオ》(2003)や《DV ぶん殴られる春麗》(2004)は、どちらも有名ゲームのキャラクターが死んだり殴り飛ばされたりするさまをひたすら見せる内容だ。
第一室の下ネタ作品について、会場配布のハンドアウトの中で、松田は次のように述べている。
これらの作品たちは、自分が元々持つ「文化資本」や「美意識」を、アートへ持ち込もうと躍起になっていた頃に作られた。[中略]例えばそれは「下ネタ」で、多くの人からすると「下品」だと蔑まれるものである。しかし「新地」近くの住民にとっては、ちょっとでも「新地」に関係する人間にとっては、「下ネタ」は「生きる術」といっていい。そんな「下ネタ」は主に、えげつない「現実」を直視せず、生きるための「笑い」として多く用いられている。
「文化資本」とは、フランスの社会学者、ピエール・ブルデューの概念で、その人が生まれ育った環境で得た文化的な思考や行動様式、財産のことを言う。通常は美術やクラシック音楽の鑑賞など、いわゆる文化らしい文化のことを指すが、松田はあえて下ネタにこの語をあてている。
尼崎は松本人志をはじめ、数々のお笑い芸人を輩出する街である。松田自身も話のうまい「おもろいおっちゃん」だ。しかしこの「おもろい」という「文化資本」は往々にして、「貧しいというけれど、明るくたくましく生きているじゃないか」という外部の受け止めを可能にする。まず貧困という不平等があり、そのやり切れなさに耐える技術として笑い(ここでは特に下ネタ)が用いられているという事実を、表に見えている「おもろさ」が覆い隠してしまうのだ(*4)。
また松田は同ハンドアウトのテキストで以下のように続ける。少し長くなるが、再び引用する。
しかし、そのようなスラムの「文化資本」や「美意識」は、アカデミックな美術大学で美術史を学び続けても、当時のネットを探しても、美術作品としてほとんど確認できなかった。僕は当時、まるで「僕ら」が存在しないかのように感じた。世の中のいろいろな不均衡には幼少期から慣れてはいたが、「僕ら」のいない美術史が、まるで「全人類の美術史」然としていることも、僕には許せなかった。ウォーホルから感じられた、「カスなモチーフ」の連続による無常性には、かすかなシンパシーを抱いたりもしたが・・・。そして、ほとんど怒りと呪詛のような情動から制作されたのが、僕の「下ネタ」のシリーズだ。
ここまできてわたしたちは、初期作から《奴隷の椅子》まで、人のいやがるものからやさしいものへと呪いの度合いを変えながら、長く松田が取り組んできたことを理解する。それは、「僕らのいない美術史」に「僕ら」の存在を書き込むことである。
この問題を考えるにあたって、「膿を照らす」展に出品された映像作品のすべてが、あるひとまとまりの要素のくり返しという構造を持つ点に注目したい。なぜならこのくり返し構造は、「僕らのいない美術史」と「僕らがいる美術史」をつなぐ特異点として、松田が意識的に選んだと思われるものだからだ。
くり返し(repetition)は美術作品にしばしば用いられるメジャーな形式である。とくに欧米圏にポップアートやヴィデオアートが登場した1960-70年代に多用された。
たとえば、先の引用で松田も言及するアンディ・ウォーホルは、同一のものが大量生産、大量消費される社会のしくみに自らを沿わせるように、くり返しの形式を用いてコカコーラの瓶やキャンベルスープの缶詰を描いた。また、まったく動かない対象であるエンパイアステートビルを固定カメラで約8時間撮影した映画《エンパイア》(1965)では、盛り上がりもオチもなく、ただただ退屈な途中経過だけが続くさまを強調した。それは、ビルの静止画が写るフィルムの中のひとつのコマが永遠にループし続けて、時間の流れをせき止めてしまったような、奇妙な錯覚を引き起こす表現だった。
対する松田の下ネタ作品はどうだろう。《Eat》(2009)では、口と尻の間をひも状につながったソーセージがぐるぐると循環するさまが44秒の映像におさめられている。この44秒のかたまりがくり返しくり返し再生されるのだ。また《Drink》(2008)では、散水ホースの片方の端に水を飲む男性の口が、もう片方の端に男性器がある。この両端が映り、オチが了解されるまでのわずか9秒間が、やはりループで延々と再生される。ここではしょうもない9秒の「出落ち」(お笑い用語で、出てきた瞬間に笑いのクライマックスがある構成)のネタが、せっかくの盛り上がりの瞬間を打ち消すように何度も流れるのだ。
決定的瞬間をくり返しによって無効化する手法はまた、ゲームを主題とする《911 ぶん死ぬマリオ》や《DV ぶん殴られる春麗》にも共通している。マリオは罠に落ち、春麗は対戦相手にぶっ飛ばされて、死または敗北という究極の事態を迎える。しかしその決定的なさまは、何度もリピートされることで次第に意味を失っていく。松田はこれらのゲーム関連作品について、先のハンドアウトの中で、尼の住民が持つ、社会にも他者にも、死にさえも関心を向けない「不感症」を表すもの、と語っている。
このようにくり返しの形式をあからさまに用いるタイプの松田の作品は、ウォーホルのくり返し作品にも共通する次のような感覚を見る者のうちに引き起こす。
まず、進展も結論もなく、ただただ空虚な時間が続くことに対して抱く無常感である。同時に、相反するようだが、意味のないことが機械的に繰り返されることに由来するおかしみである。フランスの哲学者、アンリ・ベルクソンが、生とは絶えず生成変化し、くり返さないことを根本原理とする。しかしそれが機械的な反復に陥っているのを見る時、そこに笑いが生じる、としていることを思い出そう(*5)。
こうして松田はくり返しという形式に、著名アーティストたちが織りなす「僕らのいない美術史」のなかへと「僕ら」の侵入を許すほころびを見出した。再び冒頭の話に戻るなら、いま美術の現場では、年齢や性別、出身地、障害の有無などの要因によって見えなくされてきた人びとが、その居場所を得ようと声をあげている。しかし、専門教育の有無を左右する経済格差は、いまだ問題として充分に可視化されているとは言えない。なぜなら、尼に暮らすような人びとにとって、美術の場に至る選択肢を思いつくこと自体がそもそも困難だからだ。
その意味で、偶然の連鎖によって「うっかり」尼からの越境を果たした松田は、日本においてこの問題に切り込むことのできる稀有な存在である。「僕らのいない美術史」には、松田が見出したサブカルチャーやくり返し構造のように、「僕ら」へとつながる裂け目や抜け道がおそらくまだたくさん潜んでいる。アートという器はわたしたちが考える以上に大きいのだ。それらの裂け目や抜け道をひとつひとつひろいあげてつなげることで、思いがけない光景が新たに開けるかもしれない。
たとえばこんな風に問うてみる。そもそもウォーホルと松田の戦略には、なぜこんなにうまく一致する地点があったのだろう。
ウォーホルは、1929年に始まる世界恐慌の前年に、鉄鋼業で栄えた企業城下町、ピッツバーグに生まれた。両親は現スロヴァキアからの移民で、父親は炭鉱労働者だった。14歳のときに父親が亡くなった後は、母親が3人兄弟(!)を育てあげた。
ウォーホルが扱うコカコーラやキャンベルスープ缶、食器洗い用たわしであるブリロのダンボール箱といったモチーフは、前に述べたように、通常大量生産、大量消費社会へのクールな介入という観点から説明される。しかし、甘味飲料や安価な缶詰、ピンク色のたわしといった、松田言うところの「カスなモチーフ」は、おそらく社会の低層にいる人びとにとってより身近なものだったろう。こうしたモチーフの選択に、貧しい家庭に育ち、まず商業イラストレーションの領域から美術の世界へのアプローチを開始したウォーホルが放った、ひそかな「呪い」を見て取ることはできないだろうか?
松田の呪いに導かれて、わたしたちの目にはいま、新しい「僕らのいる美術史」の姿が見えかけている。それは「僕らのいない美術史」の景色を塗り替える、たくさんの可能性に満ちたものだという予感がする。
*1──アマルティア・セン、池本幸生・野上裕生・佐藤仁訳『不平等の再検討―潜在能力と自由』(岩波文庫、2020年)を参照。
*2──「すみっこ☆CRASH」トーク(松田修×蔵屋美香)、無人島プロダクション、2022年4月2日 https://www.mujin-to.com/news/archive_matsudatalk/[2023年3月13日閲覧]
*3──《生れて、すみません。》(2018)は、麻原彰晃の画像をコラージュし、太宰治の著作からとったタイトル通りの言葉で謝罪させるという3分27秒の映像作品である。今回はThe 5th Floorの入る建物のオーナーの意向により、近隣の別会場を借りての展示となった。またThe 5th Floorの第二室(502)の扉には、そのような形になった経緯の説明文が掲出された。松田はハンドアウトの中で、すでに社会的制裁を受けた麻原をアートの場でさらに糾弾するつもりはなく、あくまで「僕らの社会から「排除された存在」のアイコンとしてのみ」扱っている、と述べている。
*4──センも笑いや楽しげなようすが不平等を見過ごすきっかけとなることに注意をうながしている。「永続的な逆境や困窮状態では、その犠牲者は嘆き悲しみ不満を言い続けているわけにはいかないし、状況を急激に変えようと望む動機すら欠いているかもしれない。実際、根絶しえない逆境とうまく付き合い、小さな変化でもありがたく思うようにし、不可能なことやありそうにないことを望まないようにすることの方が、生きていくための戦略としてはよっぽど理にかなっている。」(セン、前掲書、p. 10)
*5──アンリ・ベルクソン、林達夫訳『笑い』岩波文庫、2010年、pp. 37-38
蔵屋美香
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