2月3日から5月6日にかけておこなわれた水戸芸術館の展覧会「マイクロポップの時代──夏への扉」展に出品された個々の作品について述べることは難しい。会場入口の壁面に描かれた開催趣旨が「宣言」であったように、同展の企画者・松井みどりの考える90年代後半から00年代にかけてのアートの傾向についての展覧会というかたちをとった声明であったからだ。よって、けして「難しい」のではなく、ここで起きた出来事を記憶にとどめる方法としては「有効ではない」というべきなのだろう。
本展によって紹介された作家に共通する特徴は、「社会的無名性や経済力の欠如」「子供のような想像力」といった「社会的に不利な条件」を想像の礎とするところにある。こうした特徴は主に1960年代後半から70年代生まれのアーティストらの活動のなかに散見され、彼らは日常の事物を積極的に用いて世界へ新たな知覚を提供し、日常を反転させる。こうした新たなアートの潮流を松井は「マイクロポップ」と呼ぶ。「マイクロポップ」という言葉は、ジル・ ドゥルーズとフェリックス・ガタリによる「マイナー文学」の理論と、ミシェル・ド・セルトーの「日常生活の実践の戦術」の考えから着想を得たのだという。
松井が「マイクロポップのドローイングやビデオが『誰にでも使える』手段だという主張と結びついていて危険なのですが」と述べるように、日常の身 近な素材を用いた一見稚拙な表現は、ある種の違和感を生み出した。その感覚は、アマチュア表現がパブリックな場に展示されているという相容れない現実へのシンプルな違和感にもちろん違いはないのだが、同時にいくつかのハイパーな日常を想起させるものだ。たとえば、亜流を生み出しやすいその表現によって誘導される、表現のオリジナリティを過剰に監視してしまう無意味なまなざし。または、マイナーな表現をテーマとすることによって否応なしに生じてしまう、マイ ナーのメジャー化という矛盾する未来。
最後に残された印象は、こうした不可避の構造をポジティヴに受け入れることで違和感や矛盾への演出を徹底する態度、もしくはパロディによって自身への消費を回避していく態度であって、そこに対抗はない。亜流とオリジナル、マイナーとメジャー、端から端へのジャンプ。それはひどく二極化する日常の状況認識であったのかもしれない。