「明治美術狂想曲」と題された企画展が、東京・丸の内の静嘉堂文庫美術館(静嘉堂@丸の内)で開かれている。静嘉堂文庫は、岩﨑彌之助(1851~1908、三菱第二代社長)と岩﨑小彌太(1879~1945、三菱第四代社長)の父子二代が収集したおよそ20万冊の古典籍と6500件の東洋古美術品を東京・世田谷の施設で収蔵。昨年10月からは、東京・丸の内の明治生命館1階にオープンした展示施設の静嘉堂@丸の内で、企画展を開催している。
それにしても、今回の展覧会名に含まれる「狂想曲」は、なんともいわくありげな言葉だ。西洋の価値観への追従などにより社会が変革のさなかにあった明治維新直後の日本では、狩野派の御用絵師の失職や仏像・仏教絵画をないがしろにする廃仏毀釈などを通して、「狂」の字を使うのにふさわしい状況が、絵画や彫刻の世界を襲っていた。
橋本雅邦(1835〜1908)の《龍虎図屏風》(1895、重要文化財)は、そうした世相を経た中で明治中期に生まれた作品だ。
どちらも強さを象徴する龍と虎が対決する様子を描いた「龍虎図」は、室町時代の雪村、桃山時代の長谷川等伯、江戸時代の長沢芦雪など多くの絵師が手掛けてきた伝統的な画題である。その歴史の上にある雅邦の作品についてまず特徴的なのは、余白がほぼ存在せず、さまざまな要素が画面をぎっしりと埋めていることだろう。龍や虎がただ力強い、あるいは凄みを見せているだけの絵ではない。画面全体をただならぬ空気が覆っているのだ。それはまさに、価値観が混沌とした時代を映したものではなかったのか。
右隻では、龍の親子の周囲に、渦巻くように雲と波が描かれている。伝統的な龍虎図では龍は雲を従えるという約束事がある。しかしこの絵では龍は雲ばかりか波まで従え、その波はまるで怪物のように虎に向かっている。龍の子どもも、なかなか獰猛な表情を見せているではないか。左隻の虎2頭は、強風や雷が襲いかかる中で、大きくしなった竹とともに戦いに備えている。遠近感を強く意識して様々なモチーフを重ね描いたり陰影を用いたりしているのは、雅邦が新しい時代の日本画の在り方を模索したことの表れだろう。奥行きの表現が素晴らしく、立体感が巧みな仕上がりだ。
この作品は岩﨑彌之助の出資で制作され、明治28年(1895)に京都で開催された第4回内国勧業博覧会に《龍虎》というタイトルで出品されたという。東京からわざわざパトロンの支援を受けて出品したこと、美術館や「文部省美術展覧会(文展)」などの公募展が存在しない時代に博覧会という貴重な場で発表されたことを考えると、雅邦は力を尽くしてこの作品を描いたであろうことが想像できる。
ところが、当時の報道では龍の顔や虎の姿勢が不評で、博覧会における受賞も逃したという。あるいは、そもそも会場が京都だったから、東京の絵画を弾き出したといったような事情もあったのだろうか。
そしてこの作品は、昭和30年(1955)に近代絵画として初めて重要文化財に指定された4点のうちの1つとなり、その時点では近代美術として最高の評価を受けている。
現代の目で見ても、龍の表情も、湾曲した虎の姿勢も、なかなか魅力的だと思うのだが、どうだろうか。時代のうねりを描いたとも言えるこの作品そのものの評価が波乱万丈のなかにあったことが興味深い。
この展覧会は、静嘉堂文庫美術館の所蔵品のみで構成されているが、明治初期の美術界のうねりをじつによく表している。そのことがわかる象徴的な作品を、もう一つ紹介しておきたい。河鍋暁斎(1831〜1889)の《地獄極楽めぐり図》だ。14歳で亡くなった江戸の商家の娘の追善供養のために制作されたこの作品は全40図の画帖仕立てになっており、阿弥陀如来に連れられて地獄を巡って極楽浄土へと向かう娘の物語が、暁斎の個性的な筆致で描かれている。
画帖ゆえ縦約25cmの小ぶりな画面とはいえ、描かれた内容は強烈である。「極楽行きの汽車」のページはなかでもとくにインパクトが強い。実に華やかな色使いでたくさんの飛天が描かれた中で線路の上を走っているのは、文明を象徴する蒸気機関車と客車の後ろ姿である。手前に描かれた人力車も明治の最先端の乗り物だ。どちらも過剰と言っていいほど豪華に飾り立てられている。地獄は暁斎が得意とする画題の一つだが、そこから魂を極楽に送り届けるのに文明の利器である汽車に乗せたというのは、極めて破天荒な発想だったと言わざるをえない。
この画帖の制作年代は明治2〜5年(1869〜72)とされている。曽田めぐみが美術史學會発行『美術史』第175号(平成25年10月発行)に掲載した論文「河鍋暁斎筆『地獄極楽めぐり図再考』」によると、「極楽行きの汽車」は明治5年に追加された図で、画面左に大きく描かれた3人のうちの真ん中の女性が供養の対象とされた娘だったと推測している。また、同年は新橋・横浜間で鉄道が開通した年であり、蒸気機関車を精緻に写した絵図を暁斎が手に入れることは難しいことではなかったとも推測している。画帖を描き始めた頃は鉄道は存在しておらず、開通した年に絵を追加したことになる。ただし、見ての通り、実際に蒸気機関車や客車の姿を知っていたとしても、まったく写実的には見えない。ひたすら豪華に描かれているのは、極楽往生が作画の目的だったためだろう。あるいは暁斎は、娘の魂を極楽浄土に送り届けるのに最適の乗り物を見つけたなどと考えた可能性もあるのではないか。
暁斎は戯画を多く描くいっぽうで、図抜けた画力を持つ狩野派の継承者という側面が強い画家だったが、描き出した絵の破天荒ぶりには、やはり時代の変革の空気がよく表れていた。
明治の美術界で起きた荒波の中で浮かび上がったジャンルとしては、工芸にも着目せざるをえない。陶磁器にしても木工品にしても、江戸時代から盛んなジャンルではあったが、西洋の価値観が流入する中で、特徴的な日本文化のジャンルとして浮かび上がってきたのだ。そのなかで、柴田是真(1807〜1891)の漆芸品は、明治という時代が育んだ華の一つである。是真の作品は海外のオークションにもしばしば出品されるなど、世界的なコレクションアイテムとなっている。
そのいっぽうで、国内においては、是真はここ数十年の間に徐々に注目度が高まってきた作家なのだが、岩﨑家は早くから素晴らしい作品を所有していた。『柳流水蒔絵重箱』だ。本展で実際に作品の前に立つと、その流麗さと輝きに目が吸い寄せられ、離れられなくなった。真骨頂は、五段重ねの構成にある。一層ずつ色が異なるのだが、きちんと重ねると図柄が合うようにできている。層ごとに色の基調が異なるのに全体で筋を通しているのだ。また、いったんは廃れていた青海波(せいがいは)と呼ばれる細かな波の文様を復活させ、自作に多用するなど、是真は伝統の研究・活用にも余念がなかった。是真は描画が至難を極めるという漆絵でも、巧みな作品を多く描いたことで知られる。卓越した技術を持って伝統を継承しながら、時代を切り開いた有能なクリエイターだったのだ。
ほかにもすぐれた工芸品が多く出品されていたので紹介しておきたい。
薩摩焼も、欧米で人気を博した陶芸だ。それにしても、この香炉は蓋の上に「麒麟」が載っている。何と華やかなのだろう。こうした器が置かれた邸宅を想像してみるのはなかなか楽しいことである。
「無線七宝」という独自の技法を考案した濤川惣助(なみかわ・そうすけ、1847〜1910)の《七宝四季花卉図瓶》で注目したいのは、下絵の原画を日本画家の渡辺省亭(わたなべ・せいてい、1852〜1918)が描いたことだ。七宝は金属の素地にガラスの釉薬を載せる技法だが、「無線七宝」はぼかしの表現に長けているという。西洋への渡航経験を持ち、彼の地の技法を巧みに取り込んでいた省亭の美しい花鳥画がこの技法で表現されたこの器は、会場の中で垢抜けた美しさを放っていた。
《曜変天目茶碗》は、静嘉堂文庫美術館所蔵の至宝として知られているが、明治13年(1880)の第1回観古美術会に出品されたという履歴を持つ。同会は、明治維新によって価値観が激変した美術界のなかで古美術の見直しが始まっていたことを示す鑑賞会だ。こうしたところにも、西洋価値観流入の反動と見られる現象が起きているのは、なかなか興味深い。
最後に、黒田清輝(1866~1924)の《裸体婦人像》について、触れておかねばならない。明治期の日本で東京美術学校の教員を務め、油彩画技法の導入と定着に大きな役割を果たした黒田は、「腰巻事件」と呼ばれる有名な事件の渦中にいたことがあった。《裸体婦人像》を明治34年(1901)の第6回白馬会に出品したところ、警察の指導で下半身を布で覆う展示にすることを余儀なくされたのだ。
これもまた、明治期の価値観の混乱が招いた事件だったと見ていい。黒田が留学歴を持つ当時の西洋の画壇では裸婦を描くのは当たり前のことであり、美の表現力の根本を育てる分野とも考えられていた。しかも黒田は、腰巻きで隠された腰部に「最も意を尽くした」という。いっぽう、いわゆる欧米列強に負けない国づくりを目指していた日本の一般社会では、裸婦の姿を人前で見せるのははばかられること以外の何ものでもなく、芸術への理解はなかった。数年前にも、鷹野隆大の写真作品をめぐって近似した事件があったので、現代でもさして状況は変わっていないのかもしれない。
ところが、そんな経緯のあった作品を、岩﨑家は購入して撞球(ビリヤード)室に飾っていた。何とも面白いことだと思うのだが、どうだろうか。これまでに挙げた絵画や工芸品とはまったく異なるテイストの作品のように見えるが、新鮮な日本の表現を探していた岩﨑家の目には、ここに挙げたほかの作品と同じく、時代の息吹を表すものとして生き生きと映ったのではないだろうか。
なお、この作品を表紙にあしらった本展の図録は、出色の出来である。現代の多くの書籍の表紙につける「帯」と呼ばれる紙を、あたかも「腰巻き」のように被せて販売しているのだ。
本展では、通常の絵画や彫刻の歴史からは見えてこないような、明治特有の華やかさや息吹を感じることができた。そこには、岩﨑家のコレクターとしての感性が大きく働いていたに違いない。
小川敦生
小川敦生