公開日:2023年11月14日

写真家・石川真生は生きている限り沖縄を撮り続ける。「石川真生 ─私に何ができるか─」(東京オペラシティ アートギャラリー)インタビュー&レポート

沖縄を拠点に国内外で活躍する写真家の東京では初の大規模な個展が10月13日〜12月24日、東京・初台で開催中。

「大琉球写真絵巻 パート9」より「沖縄でバイレイシャル(ミックスルーツ)として生きること」(2021)

東京の美術館では初となる個展に至るまで

生まれ故郷の沖縄を拠点とし、沖縄に生きる人々に密着して写真を撮り続けてきた写真家・石川真生の個展「石川真生 ─私に何ができるか─」が、10月13日〜12月24日、東京オペラシティ アートギャラリーで開催されている。

2014年から現在まで取り組んでいる代表的なシリーズ「大琉球写真絵巻」を中心に、初期から現在まで約170点の作品を紹介。2022年に沖縄の本土返還50周年を迎えてもなお困難な状況が続く沖縄で、この地を撮り続ける石川の活動をたどるものだ。

石川真生

同展キュレーターの天野太郎は、横浜美術館在任中の2004年にグループ展「ノンセクト・ラディカル 現代の写真 III」で石川を沖縄以外の美術館で初めて紹介。その後も2014年から毎年、沖縄市民ギャラリーで開催されている「大琉球写真絵巻」の展示設営を無償で手伝いながら交流と研究を続けてきた。石川はメトロポリタン美術館など国内外の美術館に収蔵されながら、2021年に沖縄県立博物館・美術館で個展「石川真生 醜くも美しい人の一生、私は人間が好きだ。」が開催されるまで、活動が体系的に紹介されることはなかった。今回は東京の美術館では初個展となるため、この沖縄県立博物館・美術館での個展で示された成果も踏まえつつ、新たに構成されている。

なお、タイトルの「醜くも美しい人の一生、私は人間が好きだ。」という言葉は、石川の人間性や写真を撮る理由を的確に表している。そして今回の「私に何ができるか」というタイトルが投げかけるものとは。どちらのメインヴィジュアルも、石川が何度も撮影してきたある家族の写真だ。命の誕生から成長へ。とりわけ子供たちの姿から月日の流れが想像される。

「大琉球写真絵巻 パート9」より「沖縄でバイレイシャル(ミックスルーツ)として生きること」(2021)
会場風景 「大琉球写真絵巻 パート8」より「黒人に誇りを持って生きていく」(2021) 撮影:編集部

もうひとつ筆者が加えたいのが、2018年に原爆の図 丸木美術館で開催された「石川真生 大琉球写真絵巻」だ。薩摩藩による琉球侵攻から続く沖縄の苦難の歴史を、沖縄に住む人々に演じてもらい撮影するという手法で制作されてきた「大琉球写真絵巻」のパート1〜4までが、このとき沖縄以外で初めて前後期に分けて展示された。

「石川真生 大琉球写真絵巻」2018 原爆の図 丸木美術館でのアーティストトーク 撮影:白坂由里

筆者はこの展覧会のアーティストトークを聞き、作品を前に語り飛ばす“真生さん”自身に圧倒された。時の政権に対する胸がすくようなジョークの合間に、自らちょっとおどけてみせる姿はスタンダップコメディと見紛う勢いで、取り囲む観客たちから爽快な笑いが起こる。怒りも悲しみもあるが、神妙に頭を垂れたりしない。語りの底には、理不尽な立場に置かれてきた沖縄への愛が流れ、誰もが背中を押されるような熱気が渦巻いていた。このときの彼女はがんを患っているとは思えないほどパワフルだったが、今回はアーティストトークを行うのは体力的に厳しいと聞いた。文字では荷が重いが “真生さん”節が少しでも伝われば幸いだ。

「石川真生 ―私に何ができるか―」会場にて作品の説明をする石川真生 撮影:編集部

それぞれの人生を傷つけないようにリスペクトして撮る

石川の写真はその生きざまと重なる。1953年、戦後米軍統治下にあった沖縄県の大宜味村(おおぎみそん)で生まれた石川真生。高校時代、友人に誘われて写真部に出入りするようになり、授業に出たくないときには写真部の暗室に籠もっていた。

2年後の1971年11月10日、当時交際していた東京から来た左翼系大学生とともに、米軍の基地存続と自衛隊の配備を認める沖縄返還協定に反対するデモに参加。10万人規模のストライキと県民総決起集会が開かれていた。このとき機動隊とデモ隊が衝突し、機動隊員が亡くなる事件が起こった。追いかけてきたデモ隊から必死で逃げながら「なんで沖縄人同士で争わないといけないのか! こんな運動は嫌だ、と。けれど何か表現したい、そのときパッと頭に浮かんだのが写真だった」

この恋人と東京に出て、書店で「WORKSHOP写真学校 東松照明教室」の募集をたまたま立ち読み。そこで東松が沖縄の写真を撮っていることを知り、教室に入った。いっぽうで石川が尊敬するのは、庶民の生活を泥臭く人間臭く撮った、沖縄の写真家・平敷兼七。沖縄に戻り、沖縄と沖縄に関係したものだけを撮るようになった。

沖縄にはなぜ米軍基地が集中しているのか。米軍基地を撮るには米兵に近づくのが早道だと考えた石川はバーで働き始める。そこには黒人兵が多く出入りし、差別を受けてきた黒人の歴史と沖縄人の歴史を重ねて思うこともあった。このときバーで働く女性たちを撮影した写真が「赤花 アカバナー沖縄の女」となる。

「赤花 アカバナー 沖縄の女」(1975-77)より

この撮影時に親しくなった黒人兵士マイロン・カーがアメリカに帰国した後の1977年、彼の故郷を訪ねてフィラデルフィアに行った。「貧乏な家の男たちが兵隊になって沖縄に来ているというルーツを見たい」。彼と彼周辺の黒人たち一家を撮影したのが「Life in Philly」である。

「Life in Philly」(1986)より

石川は当時を振り返って「黒人に対しての先入観はなかったよ。イタリア系アメリカ人の叔父さんがいい人だったから、米軍の犯罪は憎かったけど、米兵一人ひとりには恨みはなかったよ。あのときから米軍と米兵個人のことは自然と分けていたと思うよ」と答えている(2021年、沖縄県立博物館・美術館「石川真生 醜くも美しい人の一生、私は人間が好きだ。」図録インタビューより)。

また、当時の報道メディアは、事故など事件を起こさない限り自衛隊に近づかないようにしていたという。そこに飛び込んで批判しないとダメだと考えた石川は、今度は自衛隊に正面から取材を申し込み、許可を得る。

「沖縄と自衛隊」(1993)より

石川の写真は、通りすがりのスナップでもなければ、潜入ルポルタージュでもない。「人間を知りたい」という思いで、現場に何度も通ううちに相手が腹を割るようになる。「誰にでもあるプライドを傷つけないように相手をリスペクトして撮る」という姿勢は、沖縄芝居の俳優たち、港湾労働者や遠洋漁業の漁師たちでも同様だ。だからこの展覧会は、石川真生の個展であるとともに、じつに多くの市井の人々が登場する。

「沖縄芝居―仲田幸子一行物語」(1977-92)
「基地を取り巻く人々」(2009)より

人は演じることが好き。「大琉球写真絵巻」

石川に撮られる人々は「名もなき人々」には収まらず、たんなる被写体を超えて表現者になる。それが顕著なのが、庶民の歴史を庶民が演じる「大琉球写真絵巻」ではないだろうか。快諾して名前を出している出演者も多い。

今回は「大琉球写真絵巻」のパート1、沖縄以外で初展示となるパート8、9、2023年の最新作となるパート10を展示。高さ1m、長さ30mのロール紙にプリントされた写真群が、サーキットのように折り返しながら続いている。

会場風景より、「大琉球写真絵巻パート1」の展示風景

ちなみに、回廊には琉球・沖縄史掘り起こしのきっかけとなる共著『琉球写真帖』(絶版)が展示されている。「沖縄の人は戦争で写真を失っているから、家に眠っている写真があったら提供してくださいと言って、沖縄本島だけでなく、奄美諸島や先島諸島の人々からもいただいて編纂したんです」

《大琉球写真絵巻》が始まったのは、第2次安倍内閣以降、普天間基地にオスプレイを配備し、辺野古に新基地を移設するという計画が進んでいたからだ。「自分に何ができるか。結局、写真を撮って発表することしかない。それでいままでの沖縄の歴史を見てみようと思って、琉球國時代からの歴史絵巻を作ることを思いついたの。昔の大きな襖絵とかが好きだから、ロールにプリントして、巻けば展覧会へも運びやすいだろうと。でも、こんなに長くなるとは思ってなかった」

被写体を務める人々との共同制作について尋ねると、「初めは人探しや場所探しに苦労したよ。友達とか知り合いに声をかけて、みんなに協力してもらった。だけど出演した人が展覧会を見て、こんなに大きい写真になったのかってびっくりして喜ぶから、自分も出たいという人が名乗り出てくれて、だんだん口コミで広がっていきました」

美術(小道具・大道具)はその場で用意できるものでやっているという。

「大琉球写真絵巻 パート1」より「『薩摩よ、来るな!』。祈るカミンチュ(神人)」(2014)

1609年、ウミンチュ(漁師)やハルサー(百姓)が土地の恵を得て暮らしていた琉球國に薩摩藩が侵略。1879年、琉球藩を廃して沖縄県となる(琉球処分)。以後、沖縄戦、米軍統治などの場面が続く。

「こういう場面を作りたいという構想が私にあるから、私が監督として演出して、撮影もする。自分で実際に演技してみせて、みんなもテイクを重ねるうちにだんだん演技が上手になってくるの。なかには芸達者もいてそれ以上に素晴らしい人もいる。金も何も払わないのにさ、演技指導して威張ってるわけよ(笑)」

さらに豊かなのは、そうした構想からはみ出る人々の「地」のパワーかもしれない。

「撮影にはいろいろなハプニングがあってね。たとえば沖縄に基地を押しつける安倍晋三首相と石破茂幹事長を、沖縄人が魔よけのシーサーを先頭として追い出す場面。ユーモアを交えたわけじゃないよ。みんな本気で怒ってる。だけど撮影中にバーっと雨が降ってきて、延期できないから(そのまま撮影を)やろうという決意で皆さん開き直ってるから、安倍役も石破役もカチャーシー(沖縄の踊り)みたいな動きをしてはしゃいじゃったの」と撮影中のエピソードも教えてくれた。分厚い壁への憤りも連帯の喜びも渦巻いているのかもしれない。

会場風景より、「大琉球写真絵巻パート1」の展示風景

また、暴力描写のある場面の撮影には、日頃から話をしながら心が強い人や演技が上手い人を見極めて出演を依頼する。正面切った迫真の演技に「ありがたいことです」と石川は話す。

「演じるということが人は好きなんだよ。私は『大琉球写真絵巻』を好きだと思ってやってくれているみんなに感謝してるよ。みんなちゃんと納得して出ているので、多くの人に見ていただきたいです」。

会場風景より、「大琉球写真絵巻」の展示風景

私には写真しかない

いっぽう、パート7以降になると、石垣島、宮古島、与那国島などで撮影した写真が増えてくる。そこには陸上自衛隊のミサイル基地開設に反対する人々の姿もある。

石川は今年1月に骨折が重なり入院をしながらも、なんと3月には石垣島へ飛んだ。

「自分でもバカじゃないかと思ったけど、日米共同訓練の報道があってから居ても立ってもいられなかった。体がぼろぼろなのに石垣島へは4回続けて行ったから、帰ってきたらもうくたばってしばらく動けなかったよ。私は計画的に行くんじゃなくて、何かが起こったら『明日明後日から行くから』と決めて友達にチケットの予約をお願いする。その友達もわかっているからパパッと予約して連絡をくれる。また借金だなって思うけれど覚悟して行く。カンパもお願いする。みんなのサポートがあるから続けられています」

石垣島では市長が基地建設に賛成で、海岸線ではリゾート開発が行われている。

「親の代で荒地を開梱して農園を作り上げたパイナップル農場の人たちは、後から来た自衛隊に土地を売るなんてとんでもない、先に来た自分たちがなんで黙ってないといけないのかと基地開設に反対している。息子夫婦も自分の子供を伸び伸びと育てたいからと移住して、その子供は、2つの部落を統合して廃校を免れた小学校に通ってる。この一家は、パイナップルを栽培しながら家族とここでずっと幸せに暮らしたいと言ってます」

「大琉球写真絵巻 パート10」より「石垣島のパイナップル農家」展示風景(2023)

パート1には、1950年代、米軍が基地建設のために沖縄本島の住民の土地を強制的に取り上げた場面もあるが、現在も同じ問題が先島諸島で起ころうとしている。「なんで国は勝手にやるんだろうね、と思うよ」。シリアスになると「それに対して暴力では敵わないから、写真の力で可愛くコラーってやるわけ」と笑ってみせる。

展覧会タイトル「私に何ができるか」という言葉について「こんな私に何ができるかと考えて、結局は写真を撮るしかない。死ぬまで撮り続けよう、そして発表し続けようというとてもシンプルな答えにたどり着いた」と語る。「見てくれた人には押し付けてはないよ。みんなそれぞれに違うから、自分のやりたいように生きればいい」と言った。

それでも多くの人にできることがある。まず沖縄に行って、自分の目で見ること。石川真生の写真展をきっかけに沖縄に行く。そんな動きにつながればとも思う。

会場風景より、「大琉球写真絵巻」の展示風景

白坂由里

白坂由里

しらさか・ゆり アートライター。神奈川県生まれ、千葉県在住。『ぴあ』編集部を経て、1997年に独立。美術を体験する鑑賞者の変化に関心があり、美術館の教育普及、芸術祭や地域のアートプロジェクトなどを取材・執筆。『美術手帖』『SPUR』、ウェブマガジン『コロカル』『こここ 』などに寄稿。