練馬区立美術館にて、「日本の中のマネ ―出会い、120年のイメージ―」が開催されている。会期は11月3日まで。企画は同館主任学芸員の小野寛子。
エドゥアール・マネは19世紀フランスを代表する画家。《草上の昼食》や《オランピア》を筆頭に、西洋近代絵画に新しい潮流を生み出しているものの、日本での受容は——たとえばマネが交流を持ち、印象派の代表的な画家として認知されているモネと比べれば——それほど明確なものではない。その要因のひとつに、小野は「美術批評や芸術論上での受容が先行しており、視覚的つまりは作品を通した具体的な影響関係が見え難いことにあると思われる」(*1)と述べている。なるほど、たしかに印象派のように一目でわかるようなスタイルの絵画ではないかもしれない。加えて、国内の所蔵作品が極めて少ないこと(*2)も関係しているだろう。本展では、そういった不確かなマネのイメージに、マネ自身の作品や、マネが影響を受け/与えた作品を通じて迫る。
展示の冒頭には、ギュスターヴ・クールベと印象派の作品が並ぶ。マネはしばしば印象派の筆頭として認知されることもあるが、本展では、レアリスムを代表する画家として知られるクールベとの関係が指摘される。
クールベは大画面に描かれるべきは神話や歴史であるという、サロンを中心とした絵画のヒエラルキーに異議を申し立て、身近にあって観察することができるものを描いた。そのスタンスは、同時代の都市生活や女性を描いたマネにも多分な影響を与えているだろう。
印象派の風景画としては、日本美術の影響をうかがわせるクロード・モネ《アンティーブ岬》や点描によるタッチが目を引くカミーユ・ピサロ《エラニーの牛を追う娘》、そのピサロに印象派の典型と称されたアルフレッド・シスレーの風景画《モレのポプラ並木》などが展示されている。人物画は、ピエール・オーギュスト・ルノワール《髪を結う少女》やメアリー・カサット《マリー=ルイーズ・デュラン=リュエルの肖像》など、女性が描かれたものが中心だ。
第2章ではいよいよ、国内所蔵の貴重なマネ作品が展示される。《サラマンカの学生たち》は、スペイン美術の影響がうかがえる作品。マネには珍しく、文学的主題の採用が見られる。
一貫して現代の生活を描くことを試みたマネにとって、女性像は重要なモチーフのひとつだった。本展では、知人の娘を描いた《イザベル・ルモニエ嬢の肖像》や友人を介して紹介された《散歩(ガンビー夫人)》が並ぶ。画面下が描かれず未完成となった《薄布のある帽子の女》は、作家の制作過程へ想像を掻き立てられる。
油彩画のほかにも、オリジナルのエッチング作品も多数公開。《オランピア》や《フォリー=ベルジェールのバー》など、以降の章で紹介される作品の題材となったものも見ることができる。
続く第3章からは、日本の芸術家へマネが与えた影響に注目する。本章では、明治から昭和初期に作られた、日本の西洋画が中心に展示される。
洋画家でありながら美術批評家としての著作も多い石井柏亭による《草上の小憩》は、タイトルも相まって、一目でマネの《草上の昼食》をモチーフとしていることがわかるだろう。印象派の手法を取り入れた本作は、石井の代表作としても知られている。「水浴」という伝統的な主題を描いた安井曾太郎《水浴裸婦》や村山槐多《日曜の遊び》にも、《草上の昼食》を思い起こさせる特徴が見出せるだろう。
他方で、《オランピア》を解釈した作品もある。熊岡美彦は《オランピア》の模写を雑誌に掲載しており、彼の《裸体》は、左右逆転していることやポーズの違いはあれど、裸婦の堂々としたまなざしにその影響を感じずにはいられない。構図がより《オランピア》に近い片岡銀蔵《融和》は、ベッドに横たわる白人女性が日本人女性に、メイドであった黒人女性は南洋系と思しき女性に置き換えられており、日本人女性から南洋系女性への優越感を帯びた視線は、制作された当時の、アジア諸国に対する日本の傲慢な政治的な態度を思わせる。
マネの影響を受けた日本の芸術家は、戦前の西洋画家に限らない。第4章では、森村泰昌と福田美蘭という、日本の現代美術を代表するふたりの作家が紹介される。
キャリアの初期からマネの絵画をモチーフとした作品を発表していた森村は、マネや彼が多大な影響を受けたベラスケスの作風について以下のように述べている。
マネとかベラスケスは、印象派風の絵画とは「カッコよさ」が違っているのです。マネとベラスケスに共通していえるのは祝祭性の拒否、お祭り気分がない。イケイケな感じとか煽る気分からはほど遠いような気がします。(*3)
マネの絵を注意深く観察し、「冷めた熱狂」ととらえた森村が制作した《肖像(少年1、2、3)》はマネの《笛を吹く少年》をもとにしたセルフポートレイトの写真。3連作として実現した本作は、同時期にマネの《オランピア》をオマージュした《肖像(双子)》と同様に、マネ作品のモデルと森村自身との性別や人種の差異が意識され、その優劣という「価値観の攪乱」(*4)を意図したものだという。
いっぽう福田の作品は、マネのまなざしに注目したものが多い。《帽子を被った男性から見た草上の二人》は、《草上の昼食》において指を差す男性の視界を想像し、描いた作品だ。できる限り厳密さを求めたという本作は、福田自身の筆致ではなく、マネの見方・描き方に従って制作された(*5)。ほかにも、現実の曖昧さや複雑さを孕んだマネのイメージを念頭におきつつ、ウクライナの大統領、ウォロディミル・ゼレンスキーを描いた作品や、「エドゥアール・マネ」という名前のバラを題材とした作品も展示されている。
福田のマネへの読解は作品に留まらない。福田は、本展に合わせて作られた新作を、マネのサロンへの出品へとなぞらえて、日展へ出品するという試みも行う予定だ。
美術史のなかでは「近代絵画の父」と呼ばれるほどの知名度を持ちつつも、日本ではあまり理解が進んでいないマネ。しかし、中世から近代へ、価値観が転換する時代を生きた彼の絵画を見て、知り、考えることは、絵画を通じて歴史を学び、私たちが生きる現代をより深くとらえるヒントになるはずだ。貴重なマネ作品が集結する本展に、足を運んでみてほしい。
*1──第3章「日本におけるマネ受容」キャプションより。本展図録、p. 114
*2──コラム2「日本所在のマネ作品」より。本展図録、p. 70
*3──森村泰昌へのインタビュー「マネの絵に『なる』、あるいは『冷めた熱狂』」より。本展図録、
p. 184
*4──同上。本展図録、p. 187
*5──福田美蘭《帽子を被った男性から見た草上の二人》キャプションより。本展図録、p. 150