書家 石川九楊(いしかわ・きゅうよう、1945~)の仕事の全容を見せる大規模展「石川九楊大全(いしかわきゅうよう・たいぜん)」の「前期【古典篇】遠くまで行くんだ」が、上野の森美術館で開催されている。会期は6月8日~30日。
石川九楊は、1945年福井県生まれ。京都大学法学部を卒業し、京都精華大学教授、文字文明研究所所長を経て、現在は同大学名誉教授を務める。
幼い頃から書に親しみ、大学では書道部に在籍、雑誌の発行や展覧会を開催していたという。1979年に独立し、「筆蝕(ひっしょく)」や「書の文学的表現」に着目した独自の書論を展開。また、評論家として、1990年『書の終焉』でサントリー学芸賞、2002年『日本書史』で毎日出版文化賞、2009年には『近代書史』で大佛次郎賞を受賞するなど、作品制作・執筆活動のいずれにおいても、最前線の表現と論考を続けており、これまでに発表した制作作品は2000点以上、著作刊行は100点を超える。
なお、プレス内覧会が開催される数時間前には、2025年放送予定のNHK大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」の題字を揮毫したことも発表され、作品が会場に展示されていた。
開幕に先立って開催されたプレス内覧会で、石川は本展について、「80歳を前にした “中締め” の意味合いが大きい。書に親しむこと75年、溺れること65年、そのすべてを見ていただきたいという想いで企画した」と挨拶した。
「筆とは、たんなる刷毛ではなく、元々はノミだった。そして紙とは繊維の積層板であり、元々は(紙が発明される以前は)石だった。その間の力のやりとりに、時間の過程的なプロセスが存在していた」と語った石川は、2023年12月に『悪筆論』を上梓している。川端康成や三島由紀夫、中上健次ら作家たちの筆跡、つまり筆触をあえて「悪」と表現し、その作家性と作品を読み解いた一冊だ。
また、本展を通して“習字” や “書道展の作品” を思い浮かべがちな、世間一般の「書」のイメージを変えたい、と力強く述べた。「『書』とは、文字を学び文字を書く、のではなく、言葉を書くもの。『書』と聞いたとき、筆記具を持った人が文章を綴っている姿を思い浮かべるようになってほしい」(石川)
本展は、石川のキャリアの中盤にあたる1980〜90年代、古典に回帰し、新たな書を模索していた時期に手がけた作品群で構成され、5つの展示空間で展開している。中国・唐代中期の詩人、李賀(りが)の詩を書いた、巨大な作品群が並ぶ第二室は、ぜひ間近で紙の質感と墨のにじみを鑑賞してほしい。
中国の書道用紙を模して日本で制作された紙・中国画箋(ちゅうごくがせん)に、まるで踊るように墨で表現されているが、“墨に五彩あり”の言葉に違わない、色の奥行きを感じた。
また、第四室の「世の末なれど、仮名のみなん今の世はいと際なくなりたる(源氏物語)」では、『源氏物語』の千年紀を記念して2008年に出版された、石川の『源氏物語書巻 五十五帖』の全作品がずらりと並ぶ。
展示室をぐるっと囲むように、一帖「桐壺」から最後の「夢浮橋」に、本文の存在しない幻の一帖「雲隠」を加え、五十五帖が配置されている。
すべてを一度に鑑賞してみると、当然ではあるが、ひとつとして同じ表現がないことが一目瞭然だ。そして石川が『源氏物語』と、書という果てしない世界を、いかに奥深くまで探求してきたか、創作への姿勢に圧倒されるばかりだ。
続く第五室の『徒然草』や『歎異抄』なども鑑賞していくと、おそらくこれまで多くの人々が抱いてきたであろう書のイメージが、驚くほどにがらっと変わるだろう。そもそもこれは書なのか、何をもって書の作品、と言うのか。そんな疑問までわいてくるかもしれない。
そして、第五室の中央に置かれた展示ケースには、漢文の長詩「千字文(せんじもん)」を、1文字ずつ、合計1000枚の盃に書いた《盃千字文》が並ぶ。
「千字文」とは、中国・梁(りょう)の時代に、子供に漢字を教えたり、書の手本として使うために考案されたもの。形や大きさはほぼ同じだが、いくつかの色や柄が存在する盃がずらっと並べられ、思わず見入ってしまう魅力があった。
後期の会期中にも発売予定の『石川九楊全作品集』は、2000点もの作品がすべて掲載されたカタログレゾネ。本展のミュージアムショップで、実際の仕上がりイメージを確認できる。
そして、見ごたえ十分の【古典篇】の後、7月に開催される【状況篇】も必見だ。
コロナ禍やウクライナでの戦争にまつわる書きおろしの新作や、戦後詩新作50点(いずれも未発表)、「妻を語る」シリーズや、「河東碧梧桐109句選」など、現代作家や時事問題をとりあげ、石川自身が制作した詩文の言葉を書いた作品も展示予定だという。
また、聖書をモチーフに書いた、85m超の大作《エロイエロイラマサバクタニ又は死篇》(1980)も展示予定。2017年に上野の森美術館で行われた「書だ!石川九楊展」において、大きな話題となった作品だ。
石川は展覧会を開催することについて、「(作品を)自分が作ったということを忘れて眺められる機会。そして、新しい書にまた向かいたいと思っている」と語っている。
時間と触覚の芸術、言葉の表現として深淵なる書の世界を探求し続け、80歳を迎えても進化を続ける石川。前期・後期とも、会期はわずか1ヶ月ほど。ぜひ会場に足を運んで、間近で目にしておきたい。
Naomi
Naomi