公開日:2024年7月11日

「KYOTOGRAPHIE」はなんのためにある? 善意に満ちた態度と、キュレーションの不在(評:ダニエル・アビー)

京都を舞台に開催される写真祭「KYOTOGRAPHIE 京都国際写真祭」。2013年の第1回から今年まで続く本写真祭を、写真研究者のダニエル・アビーが論じる。

ヴィヴィアン・サッセン PHOSPHOR|発光体:アート&ファッション 1990~2023 京都新聞ビル地下1階(印刷工場跡) Presented by DIOR In collaboration with the MEP - Maison Européenne de la Photographie, Paris ©︎ Kenryou Gu-KYOTOGRAPHIE 2024

春の京都で開催される写真フェスティバル

「KYOTOGRAPHIE 京都国際写真祭」——毎春、ゴールデンウィークが近づくとともに、この写真フェスティバルが京都に戻ってくる。街のいたるところにポスターが貼られ、臨時のビジターセンターが設置され、展示会場の旗が市内中心部に点在する。

Birdhead(鳥頭) Welcome to Birdhead World Again, Kyoto 2024 誉田屋源兵衛 竹院の間、黒蔵 Presented by CHANEL NEXUS HALL ©︎ Takeshi Asano-KYOTOGRAPHIE 2024

「KYOTOGRAPHIE」の魅力は明白だ。誰もが行きたがる春の京都で、様々なユニークな会場を舞台に展示を開催し、なかには普段は一般公開されていない会場もある。観客は、各会場を巡りながらスタンプラリーのような興奮を感じることができる。運営は非常によく整備されており、チケットの手続きなどもスムーズ。会場は多くの人で賑わっている。

それなのに毎年、展示される写真よりも会場そのものに力が入っているような気がする。照明が貧弱だったり、作品が安っぽいインクジェットプリントだったり、何よりも展示内容が後付けで、フェスティバル全体がキュレーションの方向性を欠いているように見える。奇妙なことに、この写真祭は写真自体に対する思考が希薄だ。

ヨリヤス(ヤシン・アラウイ・イスマイリ) カサブランカは映画じゃない ASPHODEL Supported by agnès b. ©︎ Kenryou Gu-KYOTOGRAPHIE 2024

もちろん、写真というメディウムに深く関わる作品や、写真を挑戦的な方向に押し進めるような作品もつねに存在する。たとえば「KYOTOGRAPHIE 2024」では、京都市京セラ美術館で行われた潮田登久子の作品のインスタレーションが非常に良かった。様々な人の冷蔵庫というごく日常的な物だけを写しているが、身体のように見立てられた冷蔵庫が、開かれ、露出する様子を探究している。潮田のようなゼラチン・シルバー・プリントの展示作品はこのフェスティバルにおいて珍しい。

From Our Windows 潮田登久子 冷蔵庫+マイハズバンド Supported by KERING’S WOMEN IN MOTION ©︎ Takeshi Asano-KYOTOGRAPHIE 2024

また、京都文化博物館でのクラウディア・アンドゥハル「ヤノマミ| ダビ・コペナワとヤノマミ族のアーティスト」も素晴らしかった。ヨーロッパからブラジルに移民したアンドゥハルは、白人の写真家が先住民の被写体といかに真の連帯を築けるかを示しており、マルチチャンネルの映像作品《ヤノマミ・ジェノサイド:ブラジルの死》はとくに挑戦的だった。

クラウディア・アンドゥハル ヤノマミ ダビ・コペナワとヤノマミ族のアーティスト 京都文化博物館 別館 ©︎ Kenryou Gu-KYOTOGRAPHIE 2024

善意に満ちた態度、しかし……

しかし、残念ながらこれらの展示は例外であり、全体として、「KYOTOGRAPHIE」には写真に対する一貫したキュレーションの姿勢を欠いている。アーティストの選定にも、テーマにも一貫性はあまり感じられない。毎年のテーマは曖昧で、大した意味を持たない。今年のテーマは「ソース」(源、Source)だったが、真剣に考えれば、「ソース」(Sauce)という文化的および感覚的な意味を持つアイデアをテーマにキュレーションする知的努力をしたほうが興味深いものになっただろう。しかし、このフェスティバルはそんな遊び心や大胆さはない。

その代わりに、リベラルな、善意に満ちた態度が「KYOTOGRAPHIE」全体に浸透している。このような態度は、フェスティバルを「多様性」や「社会問題」という骨抜きされた概念のプラットフォームにしようと努めているかのようだ。結果として、行政が打ち出すSDGs程度の、表面的なアピールに留まったアートイベントになっている。

たとえば京都芸術センターで開催されたジェームズ・モリソンの展示「子どもたちの眠る場所」は、この態度をよく示している。この展示では、世界中の子供たちをそれぞれの寝室で撮影しており、一人ひとりの子供が極端な「社会問題」を象徴している——軍事化、中毒、さらにはイスラエルのパレスチナへの暴力的な植民地化まで。1枚の子供の写真だけでは、これらの状況の複雑さを伝えることができないにもかかわらず、すべての写真が同じ視覚的な型に押し込まれ、偽りの理解感を生み出している。またこの展示では、最後に鑑賞者が階段を上って展示全体を上から見ることもでき、各写真がどこから来たのかを示す地図が親切に示されている。言い換えれば、鑑賞者は、一度に一連のグローバルな「問題」を把握しているかのような錯覚を得る。しかし、これは理解とは言えない。文字通り、子供たちを見下ろしているのだ。

ジェームス・モリソン 子どもたちの眠る場所 京都芸術センター Supported by Fujifilm ©︎ Takeshi Asano-KYOTOGRAPHIE 2024
ジェームス・モリソン 子どもたちの眠る場所 京都芸術センター Supported by Fujifilm ©︎ Takeshi Asano-KYOTOGRAPHIE 2024

いっぽう、「イランの市民と写真家たち」による「あなたは死なない──もうひとつのイラン蜂起の物語──」という展示は、2022年に始まったイラン蜂起に焦点を当てようと試みていた。高級家具店の上階で行われたこの展示は、壁に無造作に貼られたわずか9枚の写真と13分のビデオ1本で構成されていた。主催者側は、社会的大義の正義の側に立つことに喜びを感じているようだが、この小さなスペースに後付けのようにぎこちなく詰め込まれた、このような見劣りする展示物を見学するために来場者からお金を取るのは、イラン蜂起に対する侮辱ではないだろうか?

イランの市民と写真家たち あなたは死なない──もうひとつのイラン蜂起の物語── Sfera In collaboration with Le Monde ©︎ Kenryou Gu-KYOTOGRAPHIE 2024

同時に、京都新聞ビルの広い会場で開催されたオランダ人写真家ヴィヴィアン・サッセンの回顧展は、このフェスティバルが誇る展覧会だった。ここでは、激しいスポットライトの光が作品を明瞭に見ることを難しくしていた。しかし、サッセンの代表作の多くは、ややシュールなポーズをとったアフリカ系黒人をドラマチックな色彩で撮影したものだ。サッセンと被写体との関係はどのようなものだろうか? アンドゥハルのような関係ではなく、彼らはオブジェクトに近い。このことは、「KYOTOGRAPHIE」のリベラルな政治的態度を考えると、大きく矛盾している。

「KYOTOGRAPHIE」の展示の多くは、現代美術としての写真になんらかのジェスチャーを示してはいるが、今回のヨリヤスやBirdheadの期待はずれの展示のように、ほとんどの場合、限られた「写真」の概念にとどまっている。

ヴィヴィアン・サッセン PHOSPHOR|発光体:アート&ファッション 1990~2023 京都新聞ビル地下1階(印刷工場跡) Presented by DIOR In collaboration with the MEP - Maison Européenne de la Photographie, Paris ©︎ Kenryou Gu-KYOTOGRAPHIE 2024

同時開催の「KG+」

写真自体を真の意味で挑発する作品を見るには、「KYOTOGRAPHIE」と連携・同時開催している公募型アートフェスティバル「KG+」に足を運ばなければならない。「KG+」は市内各所で行われ、喫茶店を会場にしたカジュアルな展示などもあるが、なかにはキュレーターが入った展覧会もある。

今年見応えがあった展示としては、たとえば澤田華と谷平博の二人展(eN arts)をあげたい。それぞれ「写真」をコンフォートゾーンから大きく押し出した作品を発表した。とくに、澤田の映像作品は従来のスナップ写真の分解と再構成をスリリングなかたちでパフォーマンスに仕立て上げていた。

しかし、このような作品は決してメイン展示には登場しない。ここで「KYOTOGRAPHIE」と「KYOTO EXPERIMENT 京都国際舞台芸術祭」の対比が浮かび上がる。後者は、パフォーマンスのメディウムに深く関わり、アーカイヴ的、歴史的、そしてもちろん実験的な方法で取り組んでいる。「KYOTOGRAPHIE」はいつか、このようなキュレーションに力を入れるのだろうか? これほどまでに運営体制が整い、素晴らしいスペースを確保したのだから、展示作品である写真も素晴らしいものにすれば良いのではないか? 無難な枠にとらわれず、より先鋭的な作品に開かれる勇気があるのだろうか? 結局のところ、「KYOTOGRAPHIE」はなんのためにあるのか? そして誰のためのものなのか? もしかしたら、国内外からの観光客が楽しむためのイベント、町おこしの一環、あるいは主催者自身の組織能力を自己満足的に祝うためのものであり、私がこのような苦情を述べること自体が的外れなのかもしれない。そうであるとしても、より良い「KYOTOGRAPHIE」は可能だと信じたい。ただ現在の状況では、凡庸にとどまり、抜け出す道は見えない。

Daniel Abbe

Daniel Abbe

ダニエル・アビー アメリカ生まれ、京都在住の美術史家。カリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)にて博士号(美術史学科)を取得。