中園孔二は1989年生まれ。2012年に東京藝術大学を卒業し、その翌年には、小山登美夫ギャラリーで初個展を開き、アートシーンで注目された。14年末には香川県に拠点を移したが、翌年夏、瀬戸内海沖にて消息不明となり25歳の若さで亡くなった。
中園とはどういう人物であり、何を考え、見ていたのか。関係者への取材や中園が残した150冊ものノートからそれを読み解く、初の評伝『穏やかなゴースト 画家・中園孔二を追って』が新潮社から2023年8月発売。筆者である村岡俊也にインタビューを行った(取材日:2023年8月10日)。
──中園孔二さんを検索して「Tokyo Art Beat」を訪れる方がとても多く、「中園孔二 ソウルメイト」展のレポート記事もたくさんの方に読まれています。作品の持つ底知れない魅力、ミステリアスな人物像が人を惹きつけるのだと思います。
今後ますます中園さんの作品が注目を集めることが予想されるなか、初の評伝『穏やかなゴースト 画家・中園孔二を追って』が発刊されました。私も早速読みましたが、ヒリヒリとして透明感のある作品がどのように生み出されたかがわかり、証言する方々が「こんな人だったんだよ」と隣で教えてくれるような一冊で感動しました。まずは村岡さんの中園さんとの出会いと、この本を作るまでの経緯を聞かせていただけますか。
中園さんの作品を初めて見たのは、2018年の横須賀美術館での個展でした。アートは専門ではないんですが、彫刻家の森淳一さんが東京藝大の卒展で中園さんの作品を見て「天才がいるよ」と言っていたとの投稿を読んで、どうしても見なくちゃいけないと感じたんです。実際に作品を見たときは、よくわからない、というのが正直な感想でした。それでも作品には圧倒されて、引っかかるものがあったので、画集(『中園孔二 見てみたかった景色』、求龍堂、2018)を見返しては
「この引っかかりをなんとかしたい」とずっと思っていたんです。そんななか、地元の友人でイラストレーターの横山寛多さんが鎌倉にあった美大受験の予備校で美術予備校で中園さんを教えていたことを知り、なおさら興味がわきました。横須賀の個展から2年が経った頃、寛多さんから「中園さんの同級生に会って話をするたびに、『いい話』になるんです。一緒に中園さんの話をまとめて冊子のようなものを作りませんか?」と言われて、すぐにやろうということになりました。
──ご家族や友人、元彼女から大学時代の恩師まで、網羅的に取材をされています。何名に取材されたのでしょうか。
40名ぐらいでしょうか。会えなかった人もいますけれど、それぞれの時代で深く関わった人たちに貴重な話を聞けたと思います。インタビューに応じてくれた人たちに話を聞くべき人を相談したり、あるいは次はこの人に話を聞いてみたらと紹介していただくこともあり、取材先が広がっていきました。取材を進めていくと、新たに知りたいことが生まれ、インタビュー中に名前のあがった人に「会って話を聞きたい」と数珠つなぎのようにもなりました。
──みなさんは言葉を尽くしていて、中園さんのことをそれぞれずっと語りたかったんだと感じました。
友人や知人たちは「中園くんのことを知ってほしい。書くなら正確に伝えてほしい」といった思いで取材に応じてくれたのだと思います。なかには、すんなりとは応じられない人もいて、先に取材した人にあいだを取り持っていただき、話を聞かせてもらったこともありました。インタビューを受けたことのない人がほとんどでしたが、僕と会う前に整理してメモを用意してくれたり、とっておきの思い出を聞かせてくれたりしていました。中園さんの絵を見たことのない人に、彼の絵の素晴らしさを伝えるのが難しいのと同じように、本人に会ったことのない自分に、中園さんの良さを伝えるのも難しいことだと思うんです。たとえば「夜に山の中をひとりで、登山道具も持たずに彷徨い歩いた」といった中園さんのエピソードを聞くと、単純に「すごいな」「変わっている」と思うけど、彼を山に向かわせた衝動は何だったのかなど、エピソードの表面上だけではわからないことがある。貴重なエピソードを明かしてくれた人たちも、僕がその話の奥にあるものを摑める相手かどうか見ていたと思います。
──みなさんが正直に語っているのも、村岡さんになら語って良いと判断されたんですね。相手によっては警戒されることもあるのではないでしょうか。
警戒されていたかどうかはわかりませんが、僕が生まれ育ち、いまも暮らしている鎌倉で中園さんは美大受験予備校に通っていたことや、中園さんのご実家近くに住んでいること、それに中園さんが遊び場にしていた山や鎌倉の海に僕も親しんでいることは大きかったと思います。たとえばインタビューで「カマケン(美大受験予備校の略称)があった場所」「夜を徹して友達と語り合った鎌倉駅前のマック」といった場所や店は知っている。中園さんは高二までバスケに夢中で、独特の身体感覚があったようですが、僕は学生時代はサッカー、いまはサーフィンをやっていて、なんとなくその身体感覚がわかる。こういった共通点は中園さんのことを知り、理解するうえで役立ったと思います。 取材をすればするほど、中園さんがその時期どうだったか、その証として絵がどうなったかがわかってきて面白かったです。中園さんの作品について「絵は絵でいいんだよ」という人もいれば「絵よりも本人がいい」という人もいて、作家と絵の関係ってなんだろうと考えました。
──初めて中園さんの作品を見たとき、怖さを感じました。狂気的なのにピュアな印象もあり、美術史やテクニックではなく肉体的な感覚を受けました。本の中でもつねに好んで危ない場所に行くなど、中園さんは少し死に憧れていたところがあるのかなと感じます。
希死念慮のようなものがあったといった証言や、中園さんの残したノートにも、そういう記述は確かにありました。ただ「エピソードだけでは伝わらない」のと同じで、ここでも「希死念慮」ということにとらわれないようにしたつもりです。20代前半の若者、とりわけ創作にかかわるような人なら、若さゆえの破滅願望のようなものとは無縁ではないはず。もちろん楽しい時間もたくさんあるなかで、時折、生と死が即座にひっくり変えるような危険な場所に中園さんは身を置き、死の世界を垣間見ようとしたのではないか。作品にも、そういう世界観が表現されているように思います。
──お会いしたみなさんとの印象的なやりとりはありましたか?
みなさんそれぞれに特別な思い出があって、書きたくても、枚数などの都合で盛り込めなかったものもあります。藝大の同期生だった稲田禎洋さんは中園さんと多くの時間を過ごし、取材でたいへんお世話になりましたが、良き理解者であるからこそ、あまり多くを語ろうとしませんでした。稲田さんが自宅に招いてくれたことがあったのですが、「中園くんといると『いい時間』になるんです」と話して、手料理でもてなしてくれ、好きな音楽をかけ、大切なことをお話します、といったスタイルで、あのとき、「いい時間」がどういうものだったかを追体験させてくれたのだと思います。「中園さんと一緒の時間は、こんな感じだったんだろうな」って。
また、藝大で同じ油画専攻だった同期生ふたりに話を聞いたときには、途中から芸術談義となり、こういう議論を中園さんも浴びていたんだろうなと想像しました。みなさんの中に中園さんがまだしっかり生きているんです。中園さんについて話を聞きながら、それぞれの中で生きている中園さんに会わせてもらっているような感じでした。
──村岡さんがいままで行ってきた取材とは違いましたか?
これまではアスリートなど当事者にインタビューをしてきて、生前お会いしたことのない人のノンフィクションを書くのは初めてだったので、自分の中に中園さんをどうやって立ち上げるか考えながら取材していました。亡くなって8年というのは、話を聞けるぎりぎりのタイミングだったと思います。記憶が薄れているわけでなく、かといって言葉に出来ないほど直近のことでもない。当時、交わした会話やどういう状況だったか、みなさんはかなりはっきり憶えていて、だから証言集のような評伝になったと考えています。
──みなさん中園さんに対して多様な感情を抱いていたと思いますが、共通していると感じられた部分はありましたか?
多くの人が語っていたのは「中園くんは一人ひとりと向き合い、一対一の付き合いをする」ということでした。群れて同調することなく、一人ひとりと芯のところで触れ合っていた。もちろん、絵に関して衝突することや嫉妬されたりすることもあったようです。でも、うそやごまかしがないから、記憶に刻まれ、忘れられない思い出を残したんだと思います。中学3年の個人面談の日はものすごく暑くて、担任の先生にペットボトルのお茶を差し出したという話を書きましたが、それは機嫌や大人の顔色をうかがう優等生の振る舞いなんかではなくて、中園さんだと鼻につかないんですよね、打算でやってないから。相手の中にすっと入っていけてしまう。
──評伝を読むと、中園さんは子供のころから人とは違う目線を持っているように感じられます。
中園さん自身は生前のインタビューで「すごい普通の子どもだった」と振り返っていて、ご両親も同様のことをお話しています。でも幼少期や小学生の頃に描いた絵を見ると、とても「普通」ではなく、すでに際立って上手い。でもいっぽうで普通にスポーツや遊びに夢中になって、普通に悩んだり、怒ったり、喜んだり……そっちもあわせて見ることが大事なのではないでしょうか。
藝大3年のときに知り合い、年上のよき理解者だった桑原淳さんは「彼は天才のように言われるけど、僕からは努力の人に見えます」と話していました。天才というと、普通の人たちとは違う理論や次元で生きていると思ってしまいがちですが、僕たちが半歩しか行けないところを、努力や興味で、一歩、二歩と先へ進めてしまう人だったんだと思います。
──取材を進めるなかで、中園さんの心情に共感する部分はありましたか?
「そういうことだよね」と腑に落ちて、心のなかで語り掛けるようなことはありました。本の序章である「はじめに」で「中園孔二の絵を、きちんと人生の一部としたい。当時は、そんな気持ちだった(*)」と書いて、編集の方に「ちょっと大仰じゃないですか?」と指摘されたのですが、僕のなかでは全然、大仰なことではなかったんです。中園さんのことをずっと考えながら、彼が見たであろう景色を見て、彼がひとりで歩いた夜の山を実際に歩き、最後に暮らした高松やアトリエに行き、最後に立った海岸を目に焼きつけた。そうすることで、この本は書けたのだと思います。
──こんなふうに評伝を書いてもらい、自分の軌跡を文字化したい作家もたくさんいるのではないでしょうか。
「中園孔二 ソウルメイト」展はすばらしい展示でしたが、親交のあった人のなかには「中園くんなら、こういう展示にしないはず。そもそも生きていたら、この時点での個展も拒んでいただろう」と話す人もいました。
そこには若くして亡くなることの残酷さがあります。この本も同じで、ご存命だったらまだ書かれなかっただろうし、中園さんがノートに残した言葉もデッサンも世に出ることはなかったでしょう。ご両親や関係者の方たちのご理解とご協力をいただき、内容も刊行前にお読みいただきご了承を得てはいますが、書くことの責任を重く感じていました。
──中園さんは若くして亡くなったこともあり、その人物像はベールに包まれたままです。今回の評伝は中園さんがどんな方かを知りたかった方にとっては待望の本でもありますね。
インタビューに応じてくれた人それぞれの中園孔二像があるので、それぞれの中園孔二という「面」をたくさん集めることで多面体を球へと近づけていくような作業でした。中園さんの作品は「無題」ばかりで、自身はタイトルをつけませんでした。ですから、何を描こうとして、何が描かれているのかは観る人に委ねられていると言えます。この本を書きあげた後、「ソウルメイト」展で中園さんの絵の前に立ったとき、不覚にも涙が出るほど感動したんです。想像とはいえ、彼がどんな状況で何を考えていたかを知ってから絵を観て、「中園くんに会えた」と不遜にも、そんな思いも湧いていました。
──装丁には高校時代の作品が使われています。
表紙の絵は高校時代に教室の風景を描いたデッサンで、背表紙がちょうどスケッチブックのリングになっています。カバーは裏面にも印刷されている作品群が透けてかすかに見えるよう、書名にあやかってデザイナーさんが「ゴースト」感のある仕掛けを施してくれました。
──この本をどんな人に手にとってほしいですか?
強いて挙げるなら、若い人たちでしょうか。自分の少し上の世代に中園孔二という「すげえやつ」がいて、苦悩しながらも自分のやりたいことや生き方を、一生懸命貫こうとしていたことを知って欲しいです。画家を志す人はもちろんですが、絵とは関係なく暮らしていたとしても、何かに苦しんでいたり、迷ったりしている人も手に取ってほしいです。読むときっと勇気づけられるはずで、実際に僕が中園さんに勇気づけられ、ものすごく心を打たれましたから。
──中園さんの魅力がほとばしる、キラキラとした本でした。
青春ドラマみたいですよね。実際に青春の真っただ中で、亡くなったのは25歳でしたから。
──生きていたらどんな作品を作ったんだろうと悔やまれます。
藝大の同期でライバル視されていた画家の小川真生樹さんが「描き続けなければいけない作家だった」「ずっとその先を見続けたかった作家」と話していたのが、強く印象に残っています。早すぎる死は惜しまれますが、ともに切磋琢磨した悪友にそう言われるなんで、なんかサイコーだなと憧れます。
*──「当時」とは、イラストレーターの横山寛多さんに誘われ、思い出をまとめる手伝いをすると決めたときのこと
村岡俊也
むらおか・としや ノンフィクション・ライター。1978年生まれ。鎌倉市出身、同市在住。これまでの著書にアイヌの木彫り熊職人を取材した『熊を彫る人』のほか、『酵母パン宗像堂』(ともに写真家と共著、小学館)、『新橋パラダイス 駅前名物ビル残日録』(文藝春秋)、『穏やかなゴースト 画家・中園孔二を追って』(新潮社)など。
野路千晶(編集部)
野路千晶(編集部)