公開日:2024年6月7日

「三島喜美代展」(練馬区立美術館)レビュー。取るに足らないものへの偏愛と唯物論的実践(評:打林俊)

国内外で再評価が高まる現代美術家、三島喜美代(1932〜)の展覧会「三島喜美代―未来への記憶」が、練馬区立美術館で開催されている。会期は5月19日〜7月7日。

会場風景より、《Box Orange 19》(2019) 撮影:筆者

具象と抽象のあわい:その答えとしての複製

会場に入ると、まずは最初期の作品としてマスカットやかぼちゃを描いた1950年代初頭の初期作が展示されている。三島が具象画を描いていたというのはやや意外な感じがするが、その隣にはすぐに抽象画が並んでいる。もちろん彼女が描いた具象画がこれだけということではないだろうが、その期間が極めて短かったことを示しているといえよう。これらの初期作品は今回が初公開とのことで、三島喜美代が20歳前後のころである。

会場風景より、《マスカット》(1951) 撮影:筆者

抽象画への移行は1960年前後だが、それは彼女の夫でもある画家の三島茂司の影響によるところが大きかったという。ただし、ほぼ同時期にはのちの三島喜美代を代表する陶によるチラシや新聞、あるいはごみなどの複製作品の登場を予感するコラージュ作品も作られている。ここからは、三島が必ずしも抽象表現にフィットしたわけではなく、具象表現とのバランスを模索していたことが見て取れる。

そうした初期の画業を経て、1960年代後半にはシルクスクリーンを用いた絵画作品が登場する。「ヴィーナスの変貌V」などを見ると、コラージュの手法を用いつつ、あらたな手法としてシルクスクリーンに変わっていったことが見てとれる。表現としてはまだ具象と抽象の間のバランスを見定めようとしていたようということだろう。こうした初期の制作から出てきたいくつかのエレメントである複製行為、文字、シルクスクリーンといった要素が焦点を結ぶのが、1970年から71年に開始された陶芸作品の制作だった。

会場風景より 撮影:筆者

取るに足らないものへの偏愛

新たに制作に陶芸を取り入れた三島は、粘土を薄く伸ばしてそこにシルクスクリーンで転写を行うという独自の手法で、商店のチラシや丸められた新聞などのエフェメラを再現/複製していく。「割れる印刷物」と総称されるこれらの作品の興味深い点は、再現行為と複製行為の境がきわめて曖昧になっていることである。つまり、丸めた新聞を粘土で「再現」しているものの、そこに転写されているものは複製なのである。

ちなみに、何かを送るのに再利用したことを思わせる歪んだオレンジの段ボール箱に中国の新聞が丸めて押し込まれた《Box Orange 19》(2019)を見ていると、新聞にQRコードが刷られている。試しにこれをスマートフォンで読み込んでみたところ、見事に実在の新聞のウェブサイトにアクセスできるではないか。

会場風景より、《Box Orange 19》(2019) 撮影:筆者

これほどに写実性の高い複製であるいっぽうで、これに似たような段ボール箱を再現した作品ではサンキストのパロディで「Sankis」と描いてみたり、実際には185mlの容量の缶コーヒーが500ml缶になっていたり、新聞を包み紙に用いた小包では内側の文字が反転していたりと、再現にあたっては現実との微妙なずれも潜ませている。こうしたユーモアは、社会では取るに足らないと考えられているエフェメラやゴミを観察する視点を作り出してもいるといえるだろう。

会場風景より、《サンキスボックス》(2005) 撮影:筆者

ところで、取るに足らないものといえば、段ボール箱やエフェメラと並んで展示されている写真のネガを再現した作品《Film 75》(1975)は注目に値する。そもそも写真を制作するにあたって、ネガはなくてはならないものでありながらも、あくまでプリントを作るための中間生成物として存在するものである。展示の構成からみれば、写真ネガもまた取るに足らないものであると読み取ることができる(丸まったり捻れたりしているのもその表れと見ることができよう)。

会場風景より、《Film 75》(1975) 撮影:筆者

デジタルカメラなどない1970年代、一眼レフであろうと使い捨てカメラであろうと、現像に出せばサービス版のプリントとともにネガが手元に戻ってくる。とくに家族写真などの場合、そうしたネガは一過的に焼き増しに使われることはあるかもしれないが、プリントはアルバムに大切に貼り付けられるいっぽう、ネガはどこかにいってしまうというのは家庭でよく見られた光景ではなかっただろうか。そういった意味でも、一般家庭のなかでネガは取るに足らないものと見なされていたという事実を示しているようにも感じられる。

エビデンスとしてのゴミ、そして20世紀の記憶へ

とはいえ、さんざんと「取るに足らない」を連発してきたが、もちろん三島自身の視座は、そのエフェメラル(一過的)なもの、さらにはゴミへの半ば愛情とさえいってもいい眼差しである。実際、展覧会の第3章は三島が収集したゴミで作られた立体作品で、彼女がニューヨークからゴミを持ち帰って税関で驚かれたというエピソードも紹介されている。

そして最後の展示室は、20世紀の新聞が転写された耐火レンガで埋め尽くされた空間が広がる。《20世紀の記憶》と題された本作は、40年にわたり、1万600個ものレンガが使われた三島の代表作である。三島は自身の作品を「情報の化石」と呼び、陶で作られたそれらの作品は印刷物と組み合わせることで不安感や恐怖感を表現しているなどとも評される。

会場風景より、《20世紀の記憶》(1984-2013) 撮影:筆者

しかし、じつのところ新聞や雑誌、チラシは安価にそして簡便に情報を流通させるために軽さや安さを追求されてきた。質の悪い紙は保存性なども考えられていない。そうしたメディウムに乗せられた情報は、果たしてそれと比例するような軽いものなのか。陶やレンガといった素材は、情報価値と物理的な重みが正しい比重になっているようにも感じられる他方、1万個のレンガが並んだ空間に分け入って一つひとつを見ることが叶わない展示空間のありようは、溢れかえっているにもかかわらず必要とする特定の情報を的確に探し当てることのできない現代の情報のありようさえ示しているように感じられるのである。

打林俊

うちばやし・しゅん 写真評論家。1984年生まれ。2010年〜11年パリ第I大学大学院招待研究生、2013年日本大学大学院芸術学研究科博士後期課程修了。2016年度〜18年度日本学術振興会特別研究員(PD)。専門は写真と美術を中心とした視覚文化史。主な著書に『写真の物語 イメージ・メイキングの400年史』(森話社、2019)、『絵画に焦がれた写真−日本写真史におけるピクトリアリズムの成立』(森話社、2015)、『写真集の本 明治~2000年代までの日本の写真集 662』(飯沢耕太郎との共著、カンゼン、2021)。『写真』(ふげん社)の創刊号からvol.4までディレクターを務める。「NeWORLD」で連載「虚構の煌めき~ファッション・ヴィジュアルの250年~」を執筆。