公開日:2024年7月9日

「髙田賢三 夢をかける」(東京オペラシティ アートギャラリー)レポート。パリから世界をカラフルな花々で彩った日本人デザイナー没後初の大規模個展(文:Naomi)

会期は9月16日まで。国内外のコレクションから厳選した約80のルックや宝塚の舞台衣装、絵画やデザイン画などを多数展示。

展示風景 撮影:筆者

タイムラインでたどる、髙田賢三の生涯とターニングポイント

1960年代に20代後半でいち早くパリへ渡り、1970年に自らのブランドを立ち上げて以降、日本人ファッションデザイナーとして第一線で活躍し続けた髙田賢三(1939~2020)。

2020年、突然の病により81歳で惜しまれつつ逝去した彼の、没後初めてとなる個展「髙田賢三 夢をかける」が、東京オペラシティ アートギャラリーで開催されている。会期は7月6日〜9月16日。

展示風景 撮影:筆者
左から「ドレス」(1988春夏、KENZO PARIS蔵)、「カーディガン、スカート」(1988-1989秋冬、KENZO PARIS蔵) 撮影:筆者

本展は、パリを拠点にコレクションを発表し続け、独特の色使いや柄の組み合わせから「色彩の魔術師」ともよばれた彼の人生とクリエーションを、壁にぐるりと記されたタイムラインでたどることができる。

また、展示室全体には、数々の貴重な衣装が展示され、幼少期から描いていたという絵画やデザイン画、手がけた映画や舞台に関する資料、そして1990年10月にパリ郊外で行われた伝説的なラストショー「KENZO 30ans(トランタン)」の貴重なダイジェスト映像が上映されるなど、見どころをぎゅっと凝縮したような構成だ。

展示風景 撮影:筆者
展示風景 撮影:筆者

タイムラインは、髙田が1960年に21歳で受賞した「装苑賞」以前、世に出る前の経歴からスタートする。

兵庫県姫路市に生まれた髙田は、1957年、美大や洋裁学校への進学が叶わず、神戸市外国語大学英米学科へ入学。夜学に通い、昼間は神戸の貿易会社で働き始めたばかりだったが、突然、人生の転機が訪れる。電車の新聞広告で、文化服装学院が男子学生を募集し始めたことを知ったのだ。

夏の間に資金を貯め、大学を中退して上京、住み込みで働きながらデザイン画の腕を磨いて、1958年春に文化服装学院師範課へ入学、翌年にはデザイン科へと進学した。

髙田の恩師となった小池千枝(1916~2014)は、同校で男子学生の募集を決断した人物であり、当時まだ日本であまり知られていなかった、オートクチュールの立体裁断の技術をイヴ・サンローランやカール・ラガーフェルドらとともにパリで学ぶなど、日本のファッション業界の発展に大きく寄与した女性だ。

展示風景 撮影:筆者

上京からわずか3年で、現在も新人ファッションデザイナーの登竜門として知られる「装苑賞」を受賞。それから4年で、海外旅行が自由化されたばかりの時代に、単身パリへ渡る。飛躍のチャンスを掴もうという髙田の行動力には、誰もが舌を巻いてしまうだろう。

半世紀前から発表していた、国境や文化、性別を超えるクリエーション

タイムラインの紹介と並行して、展示室内の前半では、とくに1970年代に発表したテーマにフォーカスし、デザインの変遷や時代背景、当時のモデルカットなどとともにを紹介している。

展示風景 撮影:筆者

ヨーロッパの伝統的なファッションを目にした髙田は、デビューとなる1970春夏コレクションで、麻の葉模様のドレスなど、日本の布地を使った作品を発表。続く1970〜71秋冬では、春夏の素材と考えられていた木綿を冬に着る、という新たな提案を行い、「木綿の詩人」と称された。

より自由で開放的な価値観へ大きく変わりつつあったパリの空気と、髙田が提案したのびやかで開放的な装いは見事にマッチし、瞬く間に世界の注目を集めるトップデザイナーへと駆け上がる。

後年、髙田自身も、「やりたいことはすべてこの10年でやり尽くした」と語ったほど、ケンゾーデザインの魅力が一気に開花した時期と言えるだろう。

「ドレス」(いずれも1971-1972秋冬、文化学園ファッションリソースセンター蔵) 撮影:筆者

また、「KENZOといえばニット」と言われるほど人気があったニットは、大胆な柄やカラフルな色づかいが印象的だ。

唇のデザインがアイコニックなニットは、ブランド最初期の1970〜71秋冬コレクションで発表された「ロンドン・ポップ」シリーズ。続く1971春夏コレクションでのマリンルックのニットや、1972春夏コレクションでのボーダーのプルオーバーなども、時代にマッチしたポップさが感じられる。

展示風景 撮影:筆者
展示風景 撮影:筆者

後半は髙田の代名詞とも言われる1970~80年代のフォークロア作品を約40点展示している。

フォークロアとは民族や民間伝承を示す言葉だが、ファッションにおいては主に民族衣装にデザインイメージを求めたスタイルを指している。多様性と新たな価値観が求められていた1970年代当時、大きく注目されていた。

展示風景 撮影:筆者

髙田は、立体裁断と平面細断を融合させた巧みなパターンに、大胆な花柄やシルクジャカードなどのテキスタイルデザイン、中世ヨーロッパのチュニックのような「中世ルック」や、フリルをふんだんに使用した「ロマンティック・バロック」など、西洋と東洋を融合させた新たなスタイルの提案にも積極的だった。

展示風景 撮影:筆者

1980年代といえば、川久保玲のコム・デ・ギャルソン、山本耀司のヨージ・ヤマモトによる“黒の衝撃”がパリを席巻した頃だ。しかし髙田は、カラフルな配色と重ね着による「ニューカラー」を提案し、自身のクリエーションをアップデートし続けた。

展示されたルックは、あえて発表年の時系列ではなく、ランダムに並べられている。ボーダレス、ジェンダーレスの思想をいち早く取り入れた、何にも縛られない自由なデザインの数々は、装うことの純粋な楽しさを思い出させてくれるだろう。

念願の宝塚歌劇、三宅一生や山口小夜子とのコラボレーションも

本展では、同時代を共に駆け抜けた盟友、三宅一生と開催したファッションショーや、トップモデル山口小夜子とのコラボレーションもいくつか目にすることができる。

展示風景 撮影:筆者
展示風景 撮影:筆者

髙田が約20年にわたって収集したリボンで作られたマリエ(ウエディングドレス)は、1982年秋冬のショーで発表された大作だ。1987〜1988秋冬のコレクションでのドレスも、細部まで非常に緻密に制作されている。山口の写真とともに、ぜひ間近でじっくりと見てほしい。

「ドレス」(1987-1988秋冬、文化学園ファッションリソースセンター蔵) 撮影:筆者

また終戦直後の1947年、8歳だった髙田は、宝塚歌劇の舞台を観に行き、映画館へも足しげく通う少年時代を過ごしていた。

1980年、41歳で原作と監督、衣装デザインを務めた映画「夢・夢のあと」を手がけ、54歳となった1993年には新宝塚大劇場のこけら落とし公演のレビュー「パルファン・ド・パリ」で約100種600点におよぶ舞台衣装のデザインなどを担当。いずれも大きな話題となったが、これらの貴重な資料の数々や映像、実際の作品などもまとめて目にできる。

宝塚歌劇団「パルファン・ド・パリ」より「宝石の女」の衣装(1992、姫路市立美術館蔵) 撮影:筆者

写真撮影が可能、無料の音声ガイドや公式図録にも注目

本展は自身のスマートフォンで専用のQRコードを読み取ると、無料の音声ガイドを利用できる。加えて、私的な利用のみに限られるが、展示風景の写真撮影も可能となっている(映像作品を除く、動画撮影は不可)。いずれもマナーを守って楽しんでほしい。

展示風景 撮影:筆者

また本展の膨大な展示資料やファッション写真などは、ブランドを想起させる朱赤が美しい公式図録におさめられている。本書には、これまでまとまった専門研究のなかった高田賢三の仕事について、国内外のファッション史研究者が論稿を寄せており、本展を契機に髙田の再評価がなされることを期待したい。

そのほか、ポストカードやTシャツ、ポスターなども販売されているので、併設されたショップ、Gallery5へ忘れずに立ち寄ってほしい。

ショップ「Gallery5」 撮影:筆者
ショップ「Gallery5」 撮影:筆者

Naomi

アートライター・聞き手・文筆家。取材して伝える人。服作りを学び、スターバックス、採用PR、広報、Webメディアのディレクターを経てフリーランスに。「アート・デザイン・クラフト」「ミュージアム・ギャラリー」「本」「職業」「生活文化」を主なテーマに企画・取材・執筆・編集し、noteやPodcastで発信するほか、ZINEの制作・発行、企業やアートギャラリーなどのオウンドメディアの運用サポート、個人/法人向けの文章講座やアート講座の講師・ファシリテーターとしても活動。学芸員資格も持つ。