六本木のSCAI X SCAIで展示中の平野薫(1975-)の新作は、かつて他人が身につけていた衣服や下着を糸へと解きほぐしていくという、ここ数年の作品と同様の手法によって制作されている。平野の作品は、いずれも一見して彼女のものであるとわかるような確固たる「手の痕跡」を伴っているのだが、そのことは衣服の繊維をただひたすらほどいていくという、彼女の制作手段とおよそ無縁ではありえない。
いま述べたように平野の作品は、衣服をほどき、それを一本一本の繊維に還元していくという「手仕事」によって生み出されたものだ。むだな装飾を一切排した彼女の作品のメディウムとして用いられるのはただ衣服から抽出された「繊維」のみであり、それらはまずもって不安定で心もとない印象を与えるべくわれわれの眼前に立ち現れる。けれども他方で、衣服という束縛を解かれ周囲の空間に広がるそれらの生地は、最初の印象に反する力強さを兼ね備えてもいる。いったん繊維という最小単位に還元されたかつての衣服は、繊維に特有の「強さ」と「脆さ」の双方を伴いながら空間の中に拡張していくとともに、周囲の空間と呼応しながらそのつどまったく新たな表情を見せることになる。
さらにその見た目の軽やかさとは裏腹に、平野の作品が濃密な時間の厚みに支えられたものであるということも忘れてはならないだろう。「もの」そのものが持つ時間と、それを解体する時間。平野薫の作品は、その二つの時間を「ほどく」という行為で媒介することによって成立しているからだ。たとえば今年の1-2月に行われた資生堂ギャラリーでの個展(shiseido art egg)において、たえず会場で制作をつづけていた平野の姿はいまだ多くの人が記憶にとどめていることだろう。会期中に着々と増えつづけるタイムカードには、平野が作業をおこなった日付、およびその開始時刻と終了時刻が淡々と、しかし克明に記されていた。われわれが目にする作品は、日に10時間以上にも及ぶそうした作業を通じてのみ生み出される、気の遠くなるような「反復」の産物なのである。衣服を一本一本の繊維に還元していくというその行程を口で説明するのは容易いが、実際に彼女の作品を見てみないかぎり、その背後に存在する時間の厚みを実感するのは困難であるに違いない。
改めて強調しておくならば、上記のような平野の制作手段においてもっとも肝要なのは、その「手仕事」によってもたらされる「時間の厚み」にほかならない。つまり、衣服のように強度の低い事物を別の姿へと変化せしめるという手法自体を過度に強調しすぎると、そのもっとも本質的な部分を見逃すことになる。というのも、破壊、切断、焼却といった手段によって「既成の(ready-made)」事物を加工するという選択自体は、極めてありふれたものにすぎないからだ。ほんとうに特筆すべきなのは、平野の作品がそうした暴力性とはまったく異質なものであるということだろう。肌理(きめ)を失うことなく、それでいて過度の滑らかさからも切り離された繊維のテクスチュアは、それを解きほぐす「手」と「時間の厚み」の介在によってはじめて視覚的に立ち現れることになる。
ところで、「衣服」を解体するという点で一貫性をもつ近年の平野の作品は、ここのところ微妙な、しかし決定的な変化を見せている。たとえば東京日仏学院における2006年のインスタレーションでは、その元になった衣服が完全に繊維へと還元されてしまっており、展示されていた作品の原型を視覚的に把握するには実のところ若干の困難がともなっていたと言える。それに対し前回の資生堂ギャラリー、そして今回のSCAI X SCAIでの展示作品は、それぞれの元になった衣服や下着の形がわずかにとどめられており、それによって作品は着衣として用いられていたかつての姿から、繊維という単位に還元された現在の姿への移行をより強く喚起させるものとなっている。それは言い換えれば、「もの」が「作品」へと移行するその時間の厚みが、近年ではより強く意識しうるようになったということでもあるだろう。このことがとりわけ重要であると思われるのは、まさしくこうした事物に内包される時間性の「移行(パサージュ)」こそ、平野の作品が含みもつ最大の核であるように思えるからだ。
枕を素材として制作された羽根のオブジェ、あるいは髪留めのゴムを用いた作品など、今回の展示ではこれまでには見られなかったタイプの作品も複数見受けられる。しかしそうした近作においても、「もの」そのものが持つ時間の厚みと、それを解体してゆく時間の厚みにあくまでも忠実であろうとする態度は決して揺らぐことはない。ある「もの」が存在し、姿を変えるというごくありふれた現象は、時間を介することによってはじめて可能なものとなる。平野の作品を見るという経験は、おそらく、そのようなごく単純な事実に立ち返ることなしにはありえない。