水引とは和紙を撚(よ)って糸にして結び、金封や結納などに使用するもの。古くは飛鳥時代にさかのぼる。一方、今回紹介する飯田水引の歴史は江戸期元禄に始まる。桜井文七なる人物が髷(まげ)を結う時に使う元結(もとゆい)と呼ばれる紐の改良に成功し、その名を全国に知らしめた。このように日本人の精神を受け継ぐと同時に、生活に身近な存在である水引。その文化を現代に伝えるために奮闘する、創業明治21年(1888年)の老舗、喜久優の渡邊嘉伸社長を訪ねた。
取材:山本玲子
Q: 飯田の水引は約400年という長い歴史があるそうですね。
A: 飯田市は南アルプスと中央アルプスにはさまれており、水と紙の材料であるコウゾに恵まれ、もともとは紙の産業が発展してきたと言われています。歴史的には江戸期元禄年間に、桜井文七が丈夫で光沢のある高品質な元結を開発したことがきっかけで、飯田元結の名が全国的に知られるようになりました。その後、明治の文明開化、断髪令によってみんなが髷を切ったため元結の市場は縮小したのですが、それに代わるように水引の文化が市民の生活に浸透してきたのです。現在、飯田水引は全国シェアの7割を担うと言われており、当市の大きな産業となっています。
Q: 様々な結びがありますが、どのくらいの種類があるのですか。
A: 松竹梅や亀など、基本的に昔からある平面的な表現の結びが20種類くらいあり、それらを組み合わせて様々なタイプの水引を作ります。もともと水引は、祝儀袋や結納袋などにかける平面的なものだったのですが、それが徐々に派手で賑やかなものが好まれるようになり、立体的なものへと展開していったようです。
Q: ところで、喜久優さんは平成16年度からのJAPANブランド事業にも参加されています。どのような取り組みを行ってきたのですか。
A: ロサンゼルスやパリの展示会に出展するなど、海外に向けて水引という日本独特の文化を伝えることを中心に取り組みました。1年だけでは何も残らないので継続していこうと、有志の参加企業で毎年色々と模索しながらやってきました。
Q: 海外ではどのような反応だったのでしょう。
A: ロサンゼルス(平成16年)は大規模なギフトショーだったこともあり、大勢の人が来て、マジックショーのような感覚で実演を眺めていました。現場の反響はすごかったのですが、最終的に本格的なビジネスに結びついたわけではなく、アメリカのような広い国でモノを流通させることの大変さを教えられました。パリ(平成18年)では思った以上に厳しい見方をされました。兜や結びなど、日本の伝統的なものを出展したのですが、現地の担当者に「伝統工芸もよいが、それを購入する人は少ない。もっとアート的な、感性豊かなものを作らなければダメだ」と言われて。従来作ってきたモノや考え方から脱皮しなければいけない、と痛感しました。それがきっかけとなって、翌年の取り組みにつながるのですが。
Q: デザイナー・アリタ・マサフミさんとのコラボレーションですね。
A: はい。パリの展示会で、基本的な水引の結びをアートにしたようなものの評判がよかったので、こういったシンプルでベーシックな結びをなんとか商品として売れるようなものにしたいと考えていました。そんな時にアリタさんと出会い、彼も日本古来のものに興味をもっていたので意気投合し「一緒にやってみよう」と開発したのが水引のグリーティングカードだったのです。その頃からでしょうか、今まで海外に目を向けていたのですが、これからはもっと日本国内の若い世代に向けて水引のよさや文化を伝えていく必要があるのではないか、と考えるようになりました。そこでアリタ・マサフミさんはじめとするデザイナーにかかわってもらい、2008年2月に、世田谷ものづくり学校で水引の展示会とワークショップを行いました。参加者は現役のデザイナーの方が多く、皆さん真剣に聞いて、取り組んでくれて嬉しかったです。その後も、「引き続きやってほしい」「今度はこういうところでやってもらいたい」といった話はけっこうありました。
Q: 国内での道がひらけてきたわけですね。
A: 確かに、ワークショップで結びの技を教えると、参加者に喜んでもらえるし、我々もそれを見て満足します。しかし、次のビジネス展開となると、「水引の材料がほしい」で終わってしまうことが多く、果たしてそれでよいのかということは今後考えていく必要があります。我々の本音としてはやはり、一生懸命作ったものが売れて欲しいですから。
Q: ここ数年の取り組みで一番学んだことは何だったのでしょうか。
A: JAPANブランド事業でここ何年か海外に行き、多くの人と出会うチャンスを得たことで、「従来の我々の見方は狭かった」と気づかされたと同時に、「我々の先人達のよい部分を残す、ということをあまり考えてこなかった」と反省しました。それまでは、常に何か新しいモノを作らなければといけない、という風になりがちでした。
Q: 焦りのようなものもあったのでしょうか。
A: そうですね、あったかもしれません。でも焦っても、何も出てこない(笑)。一方で、基本がしっかりあるものは、新しいモノではなくても、何かこう、着実に動きがあるのです。例えば、水引の基本的な赤と白に対するこだわり。私は、父が昔から「水引の赤は生きるために大切な血液の色、白は赤ちゃんが生まれた時に大切な母乳の色。だから人間の身体と同じで、赤と白の水引はとても大事なんだよ」と話すのをずっと聞いていました。聞いていたのだけれど、どこかですっぽり抜けてしまっていた。今、それを強く思い出します。 実は、単純なものほど奥行きが深い。そこから何か面白いものが生まれるのではないか。アリタさんともそういう話をして、「きれい、すごい」だけで終わってはいけない、と。単に結びの技術の高度さや、きらびやかな装飾性ということだけでなく、水引の原点やストーリーもきちんと伝えていかなければならないと改めて考えています。
Q: 確かにこの水引の赤はとても鮮やかで美しいですね。どのようなこだわりがあるのですか。
A: 赤色の濃さは職人によって若干異なりますが、だいたい色は決まっています。この水引の糸は、赤い部分を職人さんが手で染めています。この赤い部分と白い部分の中心にある色ムラには、手染めならではの味わいや面白さがあります。昔の感覚だと、色ムラの部分をテープなどで隠したくなるところですが、私はあえてその部分を出してこそ、水引の表情がより豊かになると思っています。人間は赤と白を見ると本能的に生き生きし、安心すると言われています。部屋に赤いモノを置いておくと雰囲気が明るくなりますし、赤が嫌いだという人はあまりいないと思うのです。水引の基本的なものとして、赤と白による表現にはこだわっていきたいです。
Q: 今後の展開や課題についてお考えをお聞かせください。
A: 海外に出展し、国内でワークショップも行い、デザイナーとコラボレーションもした。次に、継続してビジネスにつなげながら、どのようにして「結ぶ」という大事な日本文化を次世代に伝えていくか、というのが今後の課題です。なにも新しい習慣を作ろうということではなく、水引をもっと日常的に使うきっかけを作っていくことが大事ではないかと思います。今は「水引=特別なもの」という感覚でとらえられ、日常生活から遠ざかってしまっているので、お正月などの年中行事で当たり前に使ってもらえるくらい身近なものとして浸透できたらと思います。何かやるたびに新しい悩みが生まれます(笑)。でも何もしなかったら悩むことはないでしょうが、新しいモノも生まれないでしょう。
喜久優 長野県飯田市宮の前4480
同プロジェクトの各地参加者の生の声
飯田市鼎商工会では、2004年(平成16年)より「飯田結び(Iida Musubi)」と題したJAPANブランド事業を展開しています。4年目となる2008年度は国の補助を受けていませんが、自力で継続しています。これまでにアメリカ・ロサンゼルスやフランス・パリなど海外での展示会をはじめ、国内でも様々なワークショップや展覧会に出展し、飯田の水引の伝統と文化を多くの人に伝える努力を重ねてきました。 初年度は飯田市内の水引企業20社あまりで参加しました。1年で事業を完結して、ある程度の成果を報告する必要があったため、試作品作りや海外出展に忙しく、落ち着いて何かに打ち込める状況ではありませんでした。特に海外への出展に際しては、表現や説明の仕方をどうするか、日本的な水引かそれとも洋風なものを作った方がよいのかなど、はじめは本当に戸惑いました。しかし、一度は海外に出たことで、水引が世界でどんな評価を得ているかを肌で感じ、それが大変貴重な経験になりました。そこで次年度からは、本気で海外展開しようというチャレンジ精神の特に強い5社に集まってもらって事業を継続することになりました。今回登場した喜久優の渡邊嘉伸社長は、家業としてだけでなく飯田の産業として水引の将来を考え、情報をどんどん外に出していかなければいけないと奮闘している一人です。パリの展示会では、フランス人デザイナーに「水引はすばらしいが、もっと世界に強く発信し伝える力が必要だ」と言われ、反省すると同時に大きな方向性となりました。とはいえ、なかなかその伝え方が分からずにいた時に、アリタマサフミ(有田昌史)さんのように伝統的なことに関心を持っているデザイナーと出会えたのは幸運なことです。今後は、デザイナーとのコラボレーションも行いながら、ビジネスに展開できる方法を模索していきたいと考えています。