公開日:2009年3月13日

期待と不安を胸に世界を拓く:五十崎社中

Japan Brandとのコラボレーションによる、日本のクラフト&デザインについての連載第10弾

愛媛県の南部に位置する内子町五十崎地区は、美しい土地だ。山々に抱かれるような地形に流れているのは、清流小田川である。明治から大正にかけて、この小田川に沿って幾多も出現したのが、手漉き和紙工場だった。当時、ここで和紙づくりに携わっていた人の数は約500人。しかし、現在では、この和紙産業を支える組織は、わずか2軒となってしまっている。嘆きを越えてあきらめにも近い状況の中、同地で新しい地平を開拓しようと、ひとりの青年が手を挙げた。JAPANブランド事業を通じて、この地に五十崎社中という会社を設立した青年は、一体どんな想いを抱いているのだろう。その人物、五十崎社中代表の齋藤宏之氏に話を聞いた。

取材:鈴木隆文

Q.齋藤さんはJAPANブランドがきっかけでこの地に会社を設立したそうですね。

A:はい。2008年8月にこの土地に移り住んで起業をしました。はじめて話を聞いたとき、人生に3度しか訪れない人生の転機のひとつだと、直感的に感じまして、来ることにしたんです(笑)。

Q:こちらに来るまでは何をされていて、その勇断のきっかけとなったものは何だったのでしょう?

A:私は神奈川県海老名というところで生まれ育っていて、実はここ五十崎の出身ではないのです。大学は理数系で卒業後はNTTインターネットという会社でシステムエンジニアとしてずっと勤めてきました。現在、37才です。

Q:まったく畑の違うところから、見知らぬ土地に来たということになるのですか?

A:畑はまったく違うのですが、私の妻がここ、五十崎の出身でその縁に導かれて、ここにやってきたのかもしれません。最初は、亀岡酒造という酒蔵を営む、彼女の父親にJAPANブランドという事業の話を聞いたんです。話を聞いているうちに、段々、興味が沸いてきて、「じゃあ、それ僕がやりましょうか」という感じだったと思います(笑)。私の妻の父親という人はちょっと風変わりな人で、「ああしろ、こうしろ」ということを言う人ではありません。それでも、何故か人をその気にさせてしまう不思議な力を備えているんです。

Q:なるほど、でも会社をつくってしまうというのは凄いですね。

A:毎日、期待と不安の間で、エキサイティングな日々を送らせていただいています(笑)。でも私は、元々、起業には興味があったんです。20代の頃はバックパッカーなどでインドやベトナムなどのアジアをまわったという経験もあって、いつかは日本の文化を世界に伝える仕事がやりたいと思っていました。そういう意味では、思い描いていたイメージが実現しているのかもしれませんね。

Q:2008年夏から現在(2009年2月)まで、あまり時間はなかったと思いますが、これまでのところでは、どんなことをやってきたのでしょう?

A:まず最初のステップとしては、和紙づくりというもの自体を自分が体感、体得しなければいけないと思っていました。丁度、その折にフランス人和紙デザイナー、ガボー・ウルヴィツキさんが招聘されて、日本に4ヶ月ほど滞在することになっていたんです。ですから、そのタイミングに合わせる形で事業を起ち上げて、朝は8時半から夕方5時半までつきっきりで、和紙デザインについてを学ばせてもらいました。また、学んだのはデザインのことだけでなく、天神産紙さんで紙を漉く技術なども一緒に教わることができました。

Q:中間報告としての自己評価はどうでしょう?

A:最初の一歩としては、まずまずなのではないかと思っています。職人の匠の技は、一朝一夕にできるものではなく、長い歳月をかけてマスターしていくものだと思うのですが、集中的に学んだおかげか、全体を俯瞰するという意味では、一通りのことは修得できたと思っています。


天神産紙工場の工房の様子。斉藤氏はガボー氏とともにこの工房で技術を学んだ
Q:ガボーさんという方はどんな方なのでしょうか?

A:彼は和紙デザインの専門家で、彼が営む会社はフランスの国定審議会が与える国家遺産企業に認定されているような凄い人物です。今はフランス国籍ですが、元々はハンガリーの出身で、異国でデザイナーとしての地位を確立した人です。ですから、そのハングリー精神やアクティブさには、驚かされるものがありました。例えば、ある和紙のデザインをしたいと思いつくと、彼は図面を描いて町の鉄工所に掛け合いにいく。そうすると、最初はわけがわからないと怪訝そうな顔をしていた鉄工所も、1週間後には、機械を仕上げているという具合です。そういう力強さみたいなものは、日本人として、見習わないといけないと感じました。

Q:彼とのコミュニケーションなどは英語で行っていたのでしょうか?外国人とのコラボレーションというのはなかなか簡単ではないと思うのですが、その辺りはどうでしたか?

A:片言の英語でコミュニケーションに不足を感じることはありませんでした。また協働という意味からも、上手く働けたとおもっています。彼は、日本についての造詣も深くて、逆に日本に関することも彼から沢山教わったんです。上手くいったのは、彼自身が日本という国のファンだったということと、この内子町五十崎地区という土地を気に入ってくれたことが大きかったと思っています。


透かし技法を用いた「SUKASHI」という名の壁紙
Q:なるほど。彼自身が同プロジェクトに取り組んだ感想というのも気になります。

A:まず、短期間の滞在で50種類ものコレクションが完成したことには、満足しているようでした。この滞在を通じて、彼が気づいたことは3つあったようです。五十崎には豊富な素材と技術があるということ、同じクオリティのものを何度もつくるのが難しいということ、そして何よりも最も難しい「売る」ということを考えないといけないということです。加えて、「伝統的なものづくりを国がサポートするという事業は、フランスだったらありえないことで、本当に素晴らしいことだ」と高く評価していましたよ。また、日本の田舎町に住むという長年の夢が叶ったことも嬉しいことだったようです。

Q:最後に、これからの課題とビジョンをお聞かせください。

A:とにかく販路を拡大して、代理店を探すことが何よりも大事なのではないでしょうか。製作の面でも、ガボーさんとの協働体制を続けて、なるべく品質を均一に保ちながら良質のものをつくっていけたらいいと思っています。大州和紙というものが、付加価値の高い商品として世界中で評価されたらいいですね。知行合一。坂本龍馬を仰ぐ者としては、言葉だけではなく行動を通じて、世界に打って出られたらと思っています。

五十崎社中
愛媛県喜多郡内子町五十崎甲1620-3


参加者の声
内子町商工会・副会長(JAPANブランド事業担当役員)
久保和 繁
商工会としては、以前より手漉き和紙についての調査、研究、創作には取り組んでいました。衰退していく地場産業を何とかしようという想いがあったためです。そんな想いが土台にありつつ、JAPANブランド事業に参加できたのはとても良い流れでした。
0年目は、フランスにターゲットを据えて、和紙で何を提案するか、和をどのように表現するか、流通・価格・展示会に出展できるか、など現地で感じたことをフィードバックして1年目の土台にしようと構想しました。その結果として、費用が高額になるメゾンには出展せず、ショップなどを利用して独自の路線を模索することになりました。また、委員会も、製作、流通、広報の担当を決め組織立って動ける体制を整えました。最初から製作と流通はプロジェクトの両輪として捉え、1年目には、キューブ、タペストリー、凧シェードを試作しました。また、展示や販売を行えるショップを探すため数回の渡仏もしています。加えて、PR活動にも取り組みました。その成果として挙げられるのは、地元(内子自治センター)での内覧会と記者会見の開催、フランスでの展示(パリの『イケバナデコ』)、漫画家の花村えいこ先生とのコラボレーション、メディアからの取材対応です。2年目では、事業を和紙の壁紙という一点に集中。フランスからは、壁紙デザイナーのガボー・ウルヴィツキを召還し、技術指導を仰ぐことに成功。(株)五十崎社中の起業、メディアからの注目と、実りの多い年となったと思います。
今後は、同事業を活用し、地域産業に人々を惹き付け、雇用を多く創出できるような形づくりができたらと考えています。大企業の工場が建つよりも、小さい工房が幾つもできる方が、地域としては力強い、と私たちは考え同事業に取り組んでいます。

Japan Brand

Japan Brand

Tokyo Art Beat・TABlogでは、「CasaBrutus(カーサブルータス)」とともに、JAPANブランドと恊働する公式メディアとして、各地のプロジェクトを紹介していきます。 日本各地の歴史や文化に育まれてきた素晴らしい素材や伝統的な技術を生かして、現代の生活や世界の市場で通用するブランドを確立しようとする取り組みです。中小企業庁、日本商工会議所、全国商工会連合会が中心に連携をとりながらも、地域の中小企業、職人、デザイナーなど数多くの専門家たちが同JAPANブランド(ジャパンブランド)プロジェクトに参加しています。