ベトナム戦争が直接的に反映された『美術手帖』の表紙といえば、1972年10月号であろう。「誌面開放計画」と題されて表紙を明け渡された原口典之(1946〜2020)は、『世界の傑作機』1972年5月号に掲載された写真をもとに、2機の戦闘機を描いている。A-7「コルセア II」──1967年からベトナム戦争に投入されたアメリカ軍の戦闘機である。
『美術手帖』という美術の専門誌の表紙に、米軍の戦闘機があけすけに描かれていること自体が奇異に感じられるが、それ以上に奇異なのが作家自身による解説文である。機体に内蔵されているコンピュータの性能について前述の『世界の傑作機』からかなりの分量を引用したうえで、原口は次のように書いている。
「この機がヴェトナム海域のヤンキー・ステーションに入ると空母の艦板上ではにわかにあわただしくなり、まっ青な海上ではモダン・ジャズが流れ、メカと人間とが共存し作業をたんたんと続ける。青いぬけるような空と広大な海、無表情に動く人間、それらは私にとってあまりにも自然として写り、リアルな日常のなかの当たり前の風景となっているのである。ただただ自然なのである。恐ろしいほどに。」(*1)
原口は、ヤンキー・ステーション(米海軍が南シナ海に設定した拠点)での戦闘機の着陸をめぐる一幕を「あまりにも自然」で「リアルな日常のなかの当たり前の風景」だと書いている(念のため書くが彼はパイロットでもなければベトナム沖に行ったこともない)。廃油を用いた《オイルプール》によって、(本人は否定しつつも)「もの派」のひとりとして国際的にも評価を獲得していく原口にとって、ここでの「自然」や「当たり前」とは、いったいどのような感覚なのだろうか。今回はここから考えてみたい。
原口の手がけた『美術手帖』の表紙は、『美術手帖』としては奇妙ではあるが、雑誌の表紙に戦闘機が掲載されるという点では、そこまで特別ではない。前回、反戦野外展を紹介する際、「イザナギと呼ばれた時代」には反戦絵本・児童書が数多く出版されていたという点に触れたが、この頃、子供たちの周りにはまた別の戦争があふれてもいた。「兵器」の表象である。
1968年、児童文学評論家の菅忠道は、プラモデルの流行の理由を「兵器のメカニズムの美しさや模型製作の機能と、戦争のカッコよさとが結びついて、この圧倒的な人気の高まりを生み出している」と分析したうえで、「ここで大きな役割を果たしているのが少年週刊誌の兵器解説なのである」と指摘する(*2)。
『週刊少年サンデー』には「特集 ベトナム戦争」が「おそ松くん」や「オバケのQ太郎」と並び、「ウルトラマンの戦争とヴェトナム戦争は、『少年マガジン』では完全に等価なものとして扱われていた」(*3)。そしてその表紙に大写しになっているのはキャラクターの顔ではなく、戦闘機であった。当時(に限らないが)、学校や家庭での「反戦」「非暴力」「友好」のイメージや言説、あるいは大人たちの「説き伏せ方」に不信感をもつ子供たちは少なくなかったであろうし、そのなかから、兵器の知識や情報を「教養」として提供してくれる媒体を求める読者たちが現れたことも想像に難くない(*4)。
原口は、9歳の頃(1955年頃)に青森の軍港・大湊に住んでいたことがあり、その際に見た光景を自身の「原風景」として言及している(*5)。それは、当時珍しかったアメリカ製の戦闘機のプラモデルが、床屋の出窓に置かれている様子である。原口は初めて見たプラスティック製の戦闘機に、そしてその光景に釘付けとなった。以来、原口は自身でも大量のプラモデルを制作するようになり、市販の組み立てキットだけではなく、紙や合板を用いた「手作り」で米軍の軍艦や潜水艦を制作している。
手作りの模型は「模造品というよりも観察の結果」であり、「「原風景」を再現して再生産する行為こそが、彼の創作の出発点であった」ことをうかがわせる(*6)。とはいえ、プラモデル制作や、専門誌の購読だけで、冒頭の「解説文」を書いたと考えたのではあまりに矮小化がすぎる。1972年の原口をして、米軍の戦闘機の空母への着陸は「リアルな日常のなかの当たり前の風景」だと言い切れるだけの何かがほかにあった。
1968年8月のある夜、原口は米軍の戦闘機が搬送されていくのを目撃し、その存在感に圧倒される(*7)。戦闘機は胴体後部の尾翼部分のみであり、ホロがかかったトレーラーに載せられ、複数台の車両に誘導されていた。
「商店街の色つき照明にきらきら輝いて戴冠式の行列の遅さでゆっくりと / ぶった切られた尾翼だけのスカイホーク / 不能にされた殺戮兵器 / ベトナムではナパーム弾がジャングルを焼き尽くし / テレビには殺される人びとの写真が毎日流されていた頃 / 衝撃を受けた」(*8)
後年、対談相手の木幡和枝(1946〜2019)に対して、原口は次のように回想する。
「厚木か相模原の方面に搬送されていくんだと思うのだけど、不思議な感覚に陥ってタクシーで10分くらい追っかけたんです。帰る方向とは違っていましたが。後ろから観た時に、創造することとはもしかしたら多分これだろうな、と自分の中で思ったんですね。」(*9)
それはたんに「かっこいい」というだけのものでもないし、「反戦」というだけのものでもない。「不能にされた殺戮兵器」である「ぶった切られた尾翼だけのスカイホーク」は、とにもかくにもまずは自分の手で作ってみなければいけないものであった。
もの派の代表的作家である関根伸夫(1942〜2019)は、かつて「何でもない、現実に転がっているものとの新鮮な出合い──それは一瞬であり、自分自身だけのものでしかない──その時、この出合いの充実さをわれわれは持続させ、普遍化せしめようとする。ここにわれわれは、”創って観たい”欲望を感じ、自分をも通過するものを肉体化した」(*10)と書いたが、ここで説明される「制作への衝動」はとても理解できる。当時の原口においては、木、石、紙、ガラス、鉄、そしてプラモデルなどの「何でもない、現実に転がっている」自然物や工業製品のなかに、「輸送される米軍機」が侵入してきていた(*11)。かくして、原口はスカイホークの尾翼部分──エンジンなどの中身もない外郭構造だけを、木材を使って原寸大で制作する(《A-4E Skyhawk》、以後《スカイホーク》とする)。
原寸大の《スカイホーク》は、尾翼だけとはいえ巨大である。制作の場所に選ばれたのは、原口が在学していた日本大学芸術学部(日藝)内の木造プレハブ校舎であった。原口は美術学科1階の絵画科の教室を占有し、住居兼アトリエとした。
1968年の夏の暮れから翌1969年の2月にかけて《スカイホーク》の制作は続けられたが、これはちょうど日大闘争の終焉までと重なっている。原口は、バリケードのなかで──機動隊に催涙ガスが打ち込まれたり、女子学生が針金で縛られたり、右翼学生が角材を持って夜襲を仕掛けてくるなかで──《スカイホーク》を制作をしていたことになる(*13)。
全共闘に所属していたわけではない原口は、1969年2月9日の「バリケード解除」の日もアトリエ内で眠っており、機動隊投入による爆音によって飛び起きたという。機動隊から退去を命じられ、原口はキャンパスを後にするが、秋山画廊の三人展で《スカイホーク》が発表されたのはその翌月、1969年3月24日から29日のことであった。秋山画廊は天井高が4m近くあったのだが、《スカイホーク》はそれでも足りず、部分的に持ち上げて斜めに設置することでなんとか展示することができた(*14)。
三人展は、同じ高校の美術部出身である高木敏行(1943〜2015)、眞板雅文(1944〜2009)、原口典之によって企画された。やや余談めくが、三人は、原口が見つけてきた空軍のフライト・スーツとヘルメットを宇宙服風に改良したものを着込んで、横須賀市立中央図書館の階段から、あたかも「月面から帰還したかのように」(*15)観衆に手を振って答えているかのようなポスターを制作したという(*16)。
4mにも及ぶ原寸大のスカイホークを制作するにあたっては、実際に図面におこしていく過程で、プラモデル専門誌に掲載される機体の情報が不可欠であっただろう。《スカイホーク》は、しばしばそれが尾翼のみであり、空洞であり、飛行能力も殺傷能力もない点が、言い換えればその「不能」性が強調されるが、もとよりプラモデルに「機能」は備わっていない。むしろ、ラジコンとは異なりプラモデルは「動かない」がゆえに、内部構造への知識や細部へのこだわりが求められていったと言える。
冒頭に紹介した『美術手帖』において、原口は「ヴェトナム海域」での情景を「あまりにも自然」で「リアルな日常のなかの当たり前の風景」であると書いていた。しかし、その元になっているであろう──改めて書くが、原口の戦闘機表象には専門誌からの写真や図面、解説による情報の調達が不可欠である──に写っているのは、ベトナムではなく、イタリア・シシリー島なのである(背景はシシリー島の名所・エトナ火山のクレーターであるから、この写真自体かなり「観光」的な、狙ったものである)。撮影場所を含む詳細な情報が写真には付記されているため、原口は撮影場所をわかったうえで、2機のコルセアⅡが「ヴェトナム海域を飛んでいる」と想像しながら描き写したことになる。
その行為自体を批判したいわけではない。指摘したいのは、原口の実践には、同じ座標に位置しながらも、無関心である部分と執着する部分との間に明確な「距離」があることだ。「闘争が続くバリケード内にいながら、戦闘機を制作すること」、「その戦闘機を発表する展示の告知のために、中央図書館で月面探索宇宙服姿になること」、「シシリー島の戦闘機からべトナム沖をリアルに想像すること」──これらをアメリカや運動に対する両義的な態度の表れなのだと解釈すること自体は間違ってはいない。「座標を重ね合わせながら距離をとること」は、まさにパロディやポップがやってきたことではある。ただ、原口はここで、もっとあられもなく、自身がまさに「作業をたんたんと続ける」「無表情の人間」のひとりとして、ベトナム沖空母の喧騒を「自然」で「当たり前」と言い切るのである。
原口がバリケード封鎖された日藝キャンパスで《スカイホーク》を制作していた頃、九州大学箱崎キャンパスでは、ある米軍機の処遇をめぐる激論が繰り広げられていた。1968年6月2日、九州大学電算センターに墜落した米軍機ファントムは、パイロットも含め幸いにも死者がでなかったものの、墜落現場のそばにはコバルト60(放射性同位体)を保管する倉庫があり、放射能汚染の可能性さえあった。当時「大学のなかに戦闘機があった」のは日大だけではなかったのである。学生、教職員、地元住民たちは米軍への抗議の声をあげ、機体回収阻止を含む様々な闘争が繰り広げられてきたが、驚くべきことに、墜落機の一部は大阪まで運ばれ、「展示」されている。
1969年8月、大阪城公園で「反戦のための万国博」(通称「ハンパク」)が開催され、墜落したファントムの尾翼が展示された(*18)。機体の一部が持ち出されただけではなく、展示までされていると知った大学側は、急遽「〔機体を〕管理する責任は大学にない。だから、持出されても法的には責任はない」という見解を示し、ハンパク主催者も表向きは「経緯不明」であるとして詳細を語ることはなかった(*19)。
しかし実際には、ハンパク事務局(の中心にあった「関西ベ平連」)と「福岡ベ平連」のあいだで、「万が一問題となった場合には関西べ平連が法廷闘争を受けもち、法の前で日米安保条約そのものを問おうとの言葉が交わされ」ていた(*20)。墜落したファントムは米軍の所有物であり、大阪まで輸送して展示するなどということは「違法」であるかもしれないが(*21)、米軍機墜落の責任の所在や、ひいては安保条約のもとでのベトナム戦争それ自体が「違法」ではないかと問うために、彼らは「展示」という手段を用いている。
ハンパク協会会長・山田宗睦(1925〜2024)はハンパクのオープニングで、「演壇に九州から持ち込んだファントムの残ガイを引っ張り出し」(*22)、「このファントムの残がいは国家権力がつくったきたない作品です。そして七〇年万博もまた、ファントムに似たようなものである」と述べたという(*23)。
福岡の箱崎から大阪城公園まで徹夜で下道を走り輸送された1m四方ほどのファントムの尾翼は「手書きの「ファントムの位牌」とともに展示され、焼けてボロボロになった機体は来場者たちによってむしり取られていった」(*24)。ハンパクは5日間開催されたが、無線の傍受によって(!)警察の介入計画を知った一同は、4日目の夜にファントムを会場の外へと持ち出した。その後、8月の終わり頃に、残骸は木箱に入れて九州大学へと郵送される(*25)。
九州大学のファントムは、反対する学生たちを機動隊員が制圧するなか、1969年10月に回収され、板付飛行場(福岡空港)へと搬送された。原口の制作した《スカイホーク》は秋山画廊の展示後、再び大学に戻され、その後廃棄されている。そして警視庁警備局は、イベント後はおろか万博会期中も「ハンパク」グループを監視し続けた(*26)。
「イザナギと呼ばれた時代」には、不能の戦闘機が「目撃」され、「制作」され、「展示」されてきた。だが改めて強調したいのは、飛行機が実際に「不能」になるという点である。それはしばしば飛行中に故障し、墜落する。機能を失い、たんなる物質となり、重力に従って落下する。肝心なのは、本来の殺傷能力を失うことで、機体が人間を殺傷しているという事実である。墜落するのは米軍機に限らないが(日航機も、自衛隊機(*27)も墜落している)、たとえばウィキペディアの「日本におけるアメリカ軍機事故の一覧」のページを開くと、想像を超えた夥しい数の事故が目に飛び込んでくる(*28)。
絵本作家の田島征三をはじめとした「ベトナムの子どもを支援する会」が、1964年9月8日の大和市米軍機墜落事件の被害者遺族を継続的に支援していたことは前回触れたが、同年4月5日にはその北に位置する町田市にも米軍機が墜落し、4人が亡くなっている。前者は厚木基地を離陸したあと、後者は沖縄の嘉手納基地から厚木基地へ向かう途中に市街地に墜落した。
町田の米軍機墜落事故関係者たちは寄付を募り、地元で長く中学校教師を務めた彫刻家・日比野知三(1936〜)に平和像の制作を依頼している(*29)。2017年には町田市長に対して平和像の寄贈を申し入れたが拒絶され、現在に至るまで平和像は墜落現場近くのマンションの駐輪場に「仮置き」されたままである(*30)。
映画監督の土屋トカチ(1971〜)はブロンズ像の鋳造に立ち会った際、「注ぎこまれる1200度の金属は、亡くなった四人の方の思いを凝縮したものではないか」という感情と、金属が「墜落で生じた、炎のような温度」であることの二重性に直面したという(*31)。平和像の母子は、瓦礫のようなものの上に立っているが、これは墜落した米軍機の一部を再現したものだ。尾翼は、ここでは新たにブロンズで鋳造され直しているのである(*32)。
少年誌やプラモデル、実寸大や実物、ミニコミ誌からブロンズへの鋳直しまで、戦闘機はさまざまに制作・表象・展示されてきた。そこでは「不能さ」(実弾を発射せず、飛行もできない)がひとつの免罪符となり、アメリカとの複雑な距離の置き方の一手段となり、自分たちの似姿にさえなっていたが、いっぽうで、現実においては「不能」となった戦闘機によって家や工場、畑を焼かれ、家族や自身の命が奪われた者たちがいた。「不能さ」はここで分裂している。最後に、水没した戦闘機について書く。
1965年12月5日、ベトナムから横須賀に向かう米軍巡洋艦タイコンデロガ号は、鹿児島県喜界島近くの海で水素爆弾を搭載した戦闘機スカイホークの海中転落事故を起こす。この事故は1989年まで秘匿され(*33)、タイコンデロガ号は事故の2日後も平然と横須賀港に入港している。
事件発覚後すぐさま、『タイコンデロンガのいる海』という名の絵本とオリジナルアニメーションが制作された(紛らわしいがこちらはタイコン「デロンガ」である)。絵本とアニメには若干の相違があり、アニメではエンドロールでこれまでに発生した核兵器事故の一覧が流される。冒頭では、悪天候の海上でタイコンデロガ号と思しき軍艦から一機の戦闘機が滑り落ちて海中に沈むシーンが挿入されている(*34)。アニメの背景美術を手掛けたのは山本二三(1953〜2023)であり、「二三雲」と呼ばれる彼の特徴的な雲はもとより、「沖縄の島と海」(*35)の描写も、米軍の水爆搭載戦闘機の水没事故とその海洋汚染の危険性を告発するために発揮されることとなった。
タイコンデロガ号は、事故のあった年に横須賀だけでなく神戸港(第六突堤)にも入港していることがわかっている(*36)。第六突堤は戦後長らくアメリカ軍によって基地使用されており、1974年に返還されるまで、朝鮮戦争、ベトナム戦争を支えてきた「軍港」であった(*37)。
「イザナギと呼ばれた時代」の神戸は、「軍港」であることを拒絶する「神戸港返還運動」と、世界一の「商港」へと生まれ変わろうとする「ポートアイランド建設」が重なり合っていた。1968年、世界最大の人工島を建設すべく山から海へとベルトコンベアが敷設されたそのすぐそばで、「日本戦後美術」を代表する展覧会が開催される。神戸須磨離宮公園現代彫刻展──関根伸夫の《位相-大地》はここで誕生する。
(つづく)
*1──『美術手帖』1972年10月号、ノンブルなし
*2──菅忠道『児童文化の現代史』大月書店、1968年、p.190。なお、「週刊少年マガジン」における兵器特集については、高橋由典「一九六〇年代少年週刊誌における「戦争」──「少年マガジン」の事例」(『戦後日本のなかの「戦争」』中久郎編、世界思想社、2004年、pp.181-212)も参照。
*3──福嶋亮大『ウルトラマンと戦後サブカルチャーの風景』PLANETS/第二次惑星開発委員会、2018年、p.238
*4──佐藤彰宣は、戦記雑誌『丸』がそうした読者の受け皿として成長していったことを論じながら、次のように指摘する。
「一九六〇年代、〔…〕『丸』は戦記のみならず、兵器のメカニズムや模型解説などを掲載するようになっていく。少年たちが『丸』を手に取る根底には、大人の説く「反戦平和」や戦後民主主義への違和感があった。〔…〕ただし当時の『丸』は、少年読者に迎合して兵器のメカニズムに耽溺していったわけではなかった。むしろ戦後民主主義への違和感を梃子にして「軍事総合誌」としてあらゆる「戦争」を収集するようになっていく。」(佐藤彰宣『趣味としての戦争 戦記雑誌『丸』の文化史』創元社、2021年、p.125)
*5──『market by market #12 特集スカイホーク』MARKET、1997年、p.52
*6──阮文軍「原口典之と「原風景」の構築ー1963年から2020年までの造形よりー」『基礎造形032 日本基礎造形学会論文集2023』日本基礎造形学会、2023年、p.62
*7──小林晴夫(1968〜)が遭遇場所及び戦闘機の搬送ルートを検証しており興味深い(横浜駅の少し南、平沼橋あたりではないかと推測されている)。( 『market by market #12 特集スカイホーク』MARKET、1997年、p.69)
*8──『NORIYUKI HARAGUCHI Society and Matter』BankART編集、BankART1929、2009年、pp.248-249
*9──同上、p.232
*10──関根伸夫「”もの”との出会い」p.49
*11──関根伸夫は、たびたび「ほこりを払う」という表現を行っている。「日本戦後美術」が「物質」や「もの」に執着するとき、そこで「払われている」のは一体何か、ということを考えてみたい(例えばそれは兵器であり、輸送用コンテナであり、胎児である)。
「たとえばコップならコップというものの概念性とか名詞性というほこりをはらうということだな。そのとき、ものはものになるわけよね。そういうことによってのみ、見えないものが見えるようになるんですよ。あるいは、存在者を存在そのものの方向に解き明かすことでもある。」(「座談会 発言する新人たち」『美術手帖』1970年2月号)
*12──演出を担当した北村隆子が文章を寄せている(『戦後史の切断面 公害・若者たちの叛乱・大阪万博』丹羽美之・吉見俊哉編、東京大学出版会、2018年、pp.125-142)。なお、写真撮影は佐々木美智子が担当している。
*13──『増補 叛逆のバリケード 日大闘争の記録』日本大学文理学部闘争委員会書記局編、三一書房、1969年、p.427
*14──『market by market #12 特集スカイホーク』MARKET、1997年、p.63
*15──同上
*16──秋山画廊の展示は アポロ11号の月面着陸(1969年7月)よりも前に実施されている。したがって、原口の宇宙飛行士のイメージは宇宙飛行士一般か、あるいは先行するアポロ計画の報道に基づいていると考えられる。アポロ8号は1968年12月に有人飛行で初めて月を周回し、アポロ9号は1969年3月に月着陸船による初の有人飛行や、二度の船外活動など様々なテストを行ったことが報道されているので、直接的にはこれらが着想源になっているかもしれない。
*17──Ryan Holmberg, HARAGUCHI NORIYUKI ‘S MODEL PARTS, Noriyuki Haraguchi,Fergus McCaffrey, 2015, pp.38-39
*18──大阪市職員労働組合の支援があり大阪城公園の借用が可能となった。大阪城公園はもともと兵器工場があり、戦後長らく廃墟同然となっていた場所である。なお、「参加したのは、全国の二〇〇を越えるベ平連系の運動、そのなかには、各地域ベ平連、大学ベ平連以外に、家永教科書闘争を支援する会、任錫均氏を支持する会、ハンセン氏病患者のアフターケア組織を自発的に推進する「むすぶの家」など特定の問題と取組む運動もふくまれている」(『鶴見良行著作集2 ベ平連』みすず書房、2002年、p.323)。光田由里は「こうした万博反対の態度は、学生運動、ヴェトナム反戦運動、安保反対運動を掲げるグループにも共有されていたが、美術家たちのハンパク運動はそれと連動する部分は少なかったようだ」と書いているのだが、「少なかった」にせよゼロではないわけで、どのような活動ややりとりがなされたのかについてはもっと追っていきたい。(光田由里「第七章 日本「現代美術」の成立と展開ー一九四五年〜七〇年代前半」北澤憲昭、佐藤道信、森仁史編『美術の日本近現代史ー制度・言説・造型』東京美術、2014年、p.604)
*19──朝日新聞 1969年8月8日朝刊12版
*20──「「ハンパク 1969―反戦のための万国博―」 展示について」『立命館平和研究 21』2020年、p.89
*21──米軍の備品や兵器の一部を作品に転用した例は沖縄では珍しいものではない(し、県立博物館・美術館の収蔵品にもなっている)。一例を挙げれば、城間喜宏《亜熱帯の島から》(1968)がある。https://okimu.jp/art_museum/artists/1513596503/
*22──『日刊ハンパク』8月7日発行
*23──『サンデー毎日』1969年8月2日号 この辺りの山田の言い回しは、記録者によって揺れがある。美術批評家の針生一郎は、「このファントムの残骸と手製の蒸気機関車はどちらも鉄くずのようにみえるが、みごとに万国博とハンパクを象徴している。一方は巨大な国家権力がつくりだしたきたない武器であり、もう一方は無名の人の手づくりによるたのしい作品だ」と書いている(「反博 ――反戦運動の試行錯誤」『現代の眼』1969年10月号)。
*24──ハンパクプロジェクトメンバー「「ハンパク 1969―反戦のための万国博―」 展示について」『立命館平和研究 21』2020年、p.89
*25──番匠健一、大野光明「ファントム墜落からハンパク(反戦のための万国博)へ ―江藤俊一氏に聞く」『立命館平和研究22』2021年、pp.163-164
*26──「会場は甲子園球場の八三倍にも及んでおり、これらのグループはちよつとした間げきを狙つて、どんな行動に出るやも知れない。〔...〕これら参観者の人たちに危害や迷惑が及ばないためにも、またこの世紀の祭典を傷つけないためにも、これら「ハンパク・グループ」から目を離すことはできない。」( 警察庁警備局「ハンパク(反博)・グループ」の実態──その行動と背景」『警察時報』25(6)、1970年、p.60)
*27──1969年2月8日、航空自衛隊小松基地のF104戦闘機が金沢市の住宅地に墜落し、4名が死亡している。なお、金沢美術大学教授の小竹武夫が3月5日の「北陸中日新聞」に「高価な教訓生かせ 金沢の自衛隊機墜落事件に思う」と題した文章を寄稿しているのだが、全体の2/3が別のホテル火災事件についての言及となってしまっている。本新聞記事を入手してくれた中井輪さんに感謝申し上げる。
*28──Wikipedia-日本におけるアメリカ軍機事故の一覧 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AB%E3%81%8A%E3%81%91%E3%82%8B%E3%82%A2%E3%83%A1%E3%83%AA%E3%82%AB%E8%BB%8D%E6%A9%9F%E4%BA%8B%E6%95%85%E3%81%AE%E4%B8%80%E8%A6%A7
*29──賛同者の中には高畑勲(1935〜2018)の名前も見える。また逆にモニュメントを制作・設置することに反対の声も寄せられていた。(『町田の米軍機墜落事故から60年 1964〜2024』町田の米軍機墜落事故・平和像本設置実行委員会・「町田の米軍機墜落事故から60年」編集委員会、2024年)
*30──モニュメントの「仮設置」については、マグロ塚も参照のこと。https://bijutsutecho.com/magazine/review/20352
*31──『町田の米軍機墜落事故から60年 1964〜2024』町田の米軍機墜落事故・平和像本設置実行委員会・「町田の米軍機墜落事故から60年」編集委員会、2024年、p.36
*32──町田米軍機墜落事故・平和祈念像 鋳造風景 https://www.youtube.com/watch?v=4KUcc7JtZIc
*33──「米国防総省(ペンタゴン)が一九八一年、「ブロークン・アロー」(折れた矢)という暗号で知られる過去の重大な核兵器事故を公表した時、単に「太平洋上」となっていた。それを一九八九年五月に国際環境保護団体「グリーンピース」が海洋汚染を問う意味から追求し、タイコンデロガ号航海日誌から沖縄沖海上での事故と突きとめた。 (ドウス昌代『水爆搭載機水没事件 トップ・ガンの死』講談社文庫、1997年、pp.16-17)
*34──アニメの視聴に際して会場(VHSデッキ付)を提供いただいた福地リコさん、中谷駿吾さん、VHS入手のために奔走してくれた大和楓さんに感謝申し上げる。
*35──沖縄沖とされることが多いが、正確には喜界島近海である。
*36──タイコンデロガ号は神戸港に2度入港をしているが、2度目の入港をした1965年には、米国原子力潜水艦寄港反対神戸港大集会が開催され,2万人が参加している。(川口徹「1975年の非核神戸方式を巡る中央地方関係」『社学研論集 第16号』2010年、p.45)
*37──第五突堤は航空母艦が利用していた。「第1回神戸港平和のためのクリスマス闘争市民集会」(いわゆるクリスマス闘争)は1961年に開始され、1965年には港湾労働者たちが米軍荷役就労を拒否する構えをとるなどして、第六突堤返還運動が一層推し進めらた。入港する外国軍の艦船に「非核証明書」の提出を義務付けたいわゆる「非核神戸方式」は、こうした背景のなかで1975年に成立している。
長谷川新
長谷川新