この展覧会タイトルを見た時にまっさきに思い浮かぶのが谷崎潤一郎の『陰翳礼賛』、陰影を褒め称えた随筆。谷崎は薄暗い空間にある陰をまとった物質の、そのはっきりと輪郭を出さないあわいが醸し出す美しさを、私たちに教えてくれます。目に見えている空間と物質の間の認識を越えた体験こそが美、まるでジェームズ・タレル《オープン・フィールド》を昔の私たちは日常の中のそこここで作り上げていたようです。
今回の展覧会ではタレルの作品は展示されていませんが、クシシュトフ・ヴォディチコ《もし不審なものを見かけたら……》は、擦りガラスごしに歓談している人々の姿を捉えた作品で、何を言っているのか、誰(どんな属性の人々)なのかが、わかるようで、わからない不思議な作品です。
作品体験は、映像がプロジェクションされていることはわかっているのだけど、本当に擦りガラスがあって、その向こうに人々がいるような気分。人々はタイトルにあるような“不審な”現れはしていません。徹底的な“公共の場で出会う他人”の様を呈しているだけ。普段、私たちは絶対的な他人と直面した時、目をそらします。儀礼的無関心が身に付いた私たちは、作品という他者を直視する時にどのような態度になるのでしょう。無関心の先には何が見えるのでしょう。
闇を直視しても何も見えませんし、太陽と同じように、直視してはいけないと私たちの直感は知っています。それらは感じたり、その周りを体験することで、その意味を知っていきます。しかし同時に、畏敬の念を抱きつつも、直視したいという欲望も頭をもたげます。直視するということは、その対象と関係を持ってしまうことです。私たちは闇や光と関係を持つことを、禁忌と感じながら欲望しています。
『陰影礼賛-国立美術館コレクションによる』展は、独立行政法人国立美術館(東京国立近代美術館、京都国立近代美術館、国立西洋美術館、国立国際美術館、国立新美術館)の、各美術館が所蔵する時代・地域・ジャンルを横断する多彩な作品で構成されています。よって会場構成は、広く見やすく、洋画、日本画、版画、写真、現代美術と続き、美術に造詣の浅い私たちでも楽しめる内容となっています。
榎倉康二《予兆”床・手(P.W.-No.51)》は、私的な印象を受ける写真作品。生活風景を切り取っているのではありません。床すれすれに尾翼のように伸ばされた手。それだけです。その手は床から離れたのか、これから床に着くのか、水平にずれるだけなのか、運動を拒んでいるのか、写真からはその行方をうかがい知るヒントは見つけられません。
一方、藤森静雄『月映』_より《こころのかげ》は、人間のようなそれに似た得体の知らない生物のようなものの苦悩を表した木版画。イラストレーションのように簡素化された図ですが、そこには作家の混沌とした内面の運動が彫りだされています。
私たちは陰影の中に、己の身体を溶かしたり、内面をひっそりと浮き上がらせたりしています。『陰影』を題材にする今回の展覧会は、私たちの視覚やその境界線を改めて見直すこととなるでしょう。
yumisong
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