インドというと、現在尻すぼみの世界経済だが、その中でも依然経済大国としての可能性を秘めた国である。さらに、この国は「ゼロ」の概念発祥の地。つまり、根源的なものと時代を牽引する要素を共に秘めているといえるかもしれない。それは、時空という枠では計り知れない様相を呈している。だから我々には、「混沌とした」形で見えてくる。
今回の展示「チャロー!インディア:インド美術の新時代」展は、まさにそのインドのコンテンポラリー・アートを紹介する展示である。かつて国際国流基金が1998年に「神話を紡ぐ作家たち」展を開催したことがあった。しかし、近年彼らの作品をまとめて観る機会はあまりなかった。そうした点から、今回の展示は足を運ぶ価値はある。
暗い照明に晒された、入り口すぐのホールには中央に横たわる象《その皮膚はおのれの言語ではない言葉を語る》(バールティ・ケール作)に目を奪われる。だが、次へと続く通路に設置された作品は金屏風を彷彿とさせ、どことなく明るい気分で迎えられる。次の部屋正面には、インドの都市を写したパノラマ写真と作風の切り替わりが早い。この切り替わりの速さがインドのアート・シーンそのものを表現しているのかどうか、それとも単に一国の文化紹介だからなのか。この時点では見極め難い。
しかし、N・S・ハルシャの作品《守られた知識》とジティッシュ・カッラトの作品《格差の死》、さらに自らを主張しないように壁に組み込まれたA・バラスブラマニアムの作品《物体としての貝殻》を見ると前者の感が強まろう。
MAMCプログラムの一環で、館長南條史生氏による鑑賞ツアー、インドの民族楽器シタールのライヴを記者は聞く機会を得た。この楽器の演奏はある小節から構成されているようだが、楽器の音が小節を跨ぐため、新しく弾かれる音と幾十にも重なりあう。そのため、小節間の区切り自体に意味を感じなくなる。この幾重にも編みこまれた音から成る楽曲-この点にこそ、今回の展示内容の特徴、つまりインド現代美術の特徴を見たような気がした。
それは曼荼羅のように一見、明快な世界像を映し出しているかのように見えて、全体像が変容し続ける。そう思うのは、記者の固定観念が根底にある。「ガンジス川の沐浴」のように有為変転が同時刻、同場所で生じているというイメージだ。これは記者の強いオブセッションである可能性が高く、この点に関しては、各々の鑑賞者に判断してもらいたい。
今回の企画はこの雑多さ-ある国の文化を紹介するには適した形式-が取られているというのが記者の感想である。それは、もしかしたら、ゼロという概念へと収束する傾向と共に我々が抱くイメージから逸脱する難しさを踏まえているのかもしれない。