有川滋男、山本麻紀子、渡辺篤(アイムヒア プロジェクト)、武田力、中島伽耶子の5人のアーティストが参加する展覧会「あ、共感とかじゃなくて。」が11月5日まで東京都現代美術館で開催中だ。本展は、SNSや日常のコミュニケーションに共感があふれる現在、あえて共感を避けることで新たな視点を得て、対話を促そうとするもの。ライターで、主に10〜20代に人気のクイズメディア「QuizKnock」の編集者を務める志賀玲太が本展を通して考え、思い出したことを綴った。【Tokyo Art Beat】
高校生だった頃の私は心のどこかに漠然と孤独を抱え、ほかの誰かに「理解してほしい」「共感してほしい」ということばかり考えていたような気がする。学校と家との往復に明け暮れるだけの日々で、母子家庭の柱として働き続けるしかない母にも、テストで赤点を取り続ける「劣等生」としての私を知るだけの先生も、私の話を聞いてくれるようには到底信じられなかった。自分のことをわかってくれる人なんて、誰もいないんじゃないか。良き友人に囲まれているはずなのに、それでも、そのみんなもどこか隣の世界の住人のようにも思えた。
そんな高校生活の折、人伝に、一緒の部活だった友人が親を亡くしたことを聞いた。喪失の苦しみこそ私にはわからなかったが、離別を経験し「普通」に比べて何かが欠けている家庭のことは、少なからず知っているつもりだった。私にはその友人の苦しみをわかってあげられる、そう思ういっぽうで「大変だったね」の声も「一緒に頑張ろうね」の励ましも、結局、在学中ついぞかけることはできなかった。なんだか、その友人に共感を抱くのはいけないようなことな気がした。
私の中の「わかる」は、友人の抱えるものに近いようで異なるものであったことは明らかだったし、考えるほどに何か力になれるとは到底思えなくなってしまっていた。「わかってほしい」私が確かにいるいっぽうで、人のことをわかろうとする、共感することの暴力性や難しさを初めて知ったのは、そのときだったと思う。そして、なら私は私自身の思いをどう抱えればいいのか、ということも。
東京都現代美術館で、「あ、共感とかじゃなくて。」という展覧会を見た。ここでテーマとなっているのは、人とのコミュニケーションにおいて安易な共感だけでなく、「共感を避ける」選択肢の提案だ。
このコンセプトを聞いたとき、これはもしかするとずいぶんとハードルの高い話かもしれないと、正直思った。他者への理解もままならないようなこの社会で、“あえて”共感を避けることは余計に難しいことだ。ただ同時に、そんな難しさを置いておいても、人との関係をとらえ直すにはこれ以上ないテーマのようにも思えた。鑑賞はつまりは、自身にない何かを持つ「わからない」他者との衝突だ。「見知らぬ誰かのことを想像する展覧会」のステートメントの意味を、私は作品を通じて知ることになる。
「あ、共感とかじゃなくて。」は、有川滋男、山本麻紀子、 渡辺篤(アイムヒア プロジェクト)、武田力、中島伽耶子という5人のアーティストによって作られる展覧会だ。会場に入り、壁に貼られたテキストを越えるとまず目に飛び込んでくるのは、企業の展示イベントにでもありそうなカラフルないくつかのブース。有川滋男の作品は、そんなブースで紹介されている「架空の仕事」たちだ。それぞれのブースにあるモニターでは、奇妙な「仕事」に従事する人々の姿が映し出されている。たとえば《ラージ・アイランド》では望遠鏡を覗き込み、「何か」をカウントする人の姿が描かれるが、それが果たして何を数えているのか、そもそも何のための仕事なのかすらわからない(挙句、続けて映像を見ていると出演者はもっと突飛な行動に出る)。ブースに並んだ「仕事道具」に惑わされたまま、私たちは「理解」と「不可解」の間に置いていかれるような感覚になる。設定のようなものこそ制作するときには作られているとのことだが、それは意図的に伝わらないようにしているらしい。
ずれた次元の会社説明会にでも迷い込んでしまった気分になりながら、でもこういうことってあるなと、そう思っていた。人の仕事はおろか、人がどこで何をして生きているかなんて、私たちはふわふわとしか知らないままなんだ。
たとえば、私の職業は複雑だ。YouTuber、インフルエンサー、ウェブライター……。ここ十数年で生まれたばかりのような肩書きをがちゃがちゃと組み合わせて、私の仕事は成り立っている(まさかこんなことになるなんて思いもよらなかった。画家とか名乗りたかった)。
つい先日同窓会に出席した際には、どうせ伝わらないだろうと「YouTuberになっちゃったよ」とだけ言って数時間の宴席を乗り切ったりもしたし、逆にYouTuberという存在に馴染みがないであろう相手には「広告のお仕事です!」とだけ説明してみたりもする。私ははっきりと実在する仕事に就いているはずなのに、人によっては私のしていることは「得体の知れない何かを数えている」のと、そんなに大差ないことなのかもしれない。でも多くの場合、人は「人がよくわからないことをしている」ことにさえ気付かないものだ。有川の作品に登場するのは、ときに見えないことにすらされる人々だ。知らないままで、見えないままでも人はあちこちで動き続けている。そんな他者の存在が、そのままに私の前に現れたような感覚があった。
今回の展覧会で、一際目を引いたのは渡辺篤(アイムヒア プロジェクト)による作品が並ぶ展示室だった。
渡辺篤は、「ひきこもり」の当事者だった経験を背景に、当事者と一緒に作り上げるプロジェクトを発表しているアーティストだ。薄暗がりの展示室に足を踏み入れると、青白く光る月が真っ先に目に入る。美術館の中で出会う、月。しばらく眺めていると、満ち欠け以上にその月が多様な表情を見せることがわかる。
《月はまた昇る》と名付けられたこの作品は、アーティスト当人だけによって作られたものではない。各地でこのプロジェクトへの参加者が同じ月を見上げ、そこで撮られた月の写真によって構成されたものだ。コロナ禍における緊急事態宣言を受けて始まったこのプロジェクトは、自粛期間によって多くの人が孤独を感じがちだった頃に「離れていても同じ月を見ることができる」とのコンセプトが込められているとのことだった。
これを見て、私はタイの芸術家であるリクリット・ティラヴァーニャの作品に度々登場するフレーズを思い出していた。「DO WE DREAM UNDER THE SAME SKY(僕らは同じ空の下で夢をみるのだろうか)」。
これらのメッセージの根底にきっとあるのは、「あなたはひとりじゃない」という連帯であり、願いだ。「同じ空の下」なんてフレーズ自体は、よく聞くものではあるかもしれない。それでも私たちにとってどこまでも大きな共通項は、確かな力をくれもする。それにこの作品で輝く月は、どれもが同じ月ではあるはずなのに、写真を撮ったそれぞれの声に呼応するかのように違う顔を見せていた。ここにいるのはたくさんの人で、同時に「共感」だけではつながることのできない、確かな一人ひとりだった。
展示室には、彼のこれまでの作品も並んでいた。どれも、傷の痕跡が色濃く見えるような作品だ。普段は絵巻物などを飾るガラスケース(ここ現代美術館ではあまり使われる機会もないそうだ)にはカーテンが引かれ、まるで窓を覗き込むようにその向こう側では「部屋」の写真が並んでいる。ここに並ぶのは「アイムヒア プロジェクト」の一環で、引きこもりの当事者たちが撮影した自室の写真だ。
なんだか、今日はやけに昔のことを考えている。数年前、あるとき大学に行けなくなり、そのまま部屋から出られなくなっていた日々が私にはあった。朝が来て夜が来て、また朝が来ても扉は重く、閉じたままだった。殻となった都内のワンルームで、そこにぽっかりと開いた窓はどこまでも怖い存在だった。これは、私の知っている窓で、それでも知らない他人の窓だと思った。
渡辺篤は、足かけ3年の引きこもり生活をしていたという。私が殻の内にいたのは1年ばかりだったから、それは途方もない時間のように感じる。それとも、あっという間だったのだろうか? 人の声に触れ続ける以上、わかることもわからないことも、同様に増え続ける。
個人の強固な物語を、地域や社会に丁寧に接続しようと試みる山本麻紀子に、世代を越えた文化やそこにいる個人の差異、そして繋がりを志向する武田力。展示室を分断するほどの大きな「壁」で、空間的な立ち位置を人と人との関係に展開するような中島伽耶子。
ここでは多くを紹介できなかったが、「あ、共感とかじゃなくて。」で目に留まったのは、参加されているアーティストのバランスだった。使う表現の形にしろ作品への表れ方にしろ、今回の参加アーティストのカラーは様々だ。ただ、私はそれぞれが見せてくれる他者への目線のようなものに、どこか通じるものを感じたことも確かだった。
自分は仕事柄、美術館や博物館といった場所に馴染みのない人たちと話すことも多い。「美術館の何がいいの」と尋ねられることもしばしばあって、そのときにはおどけて「よくわからないものが色々あって楽しいんだよ」と言ってみせたりする。この展覧会はそういう点では、「色々ある」ことが何よりの意味になっているような企画かもしれない。
訪れる前、今回の展覧会には他人との関係における「してはいけないこと」を警告するアラートのような側面もあるのかなと思い込んでいたその実で、そこにあったのは「共感」に遮られないように個人の声に寄り添うような、どこまでも優しい面だった。これが、私は何より嬉しかった。
作品を通じて傷が癒えるだとか、明日の人間関係が良くなるだとか、そういう短絡的なことは言いたくない。それでも、もしもこれを読んでいるあなたが人との理解の間で押しつぶされそうになっているのであれば、明日への手がかりはきっと見つかりそうだ。少なくとも、私は以前より、ちょっとだけ自分の声を信じてやれそうな気がしている。
志賀玲太
志賀玲太