8/19より六本木・国立新美術館にて開催されているのが、現代日本美術界を代表する女性作家、松本陽子氏と野口里佳氏による『光』である。本展は二人展ではあるが、二作家の作品を二つの独立した個展として紹介するというフォーマットを取っており、どちらの作家の展示から先に鑑賞するかは見る側の判断に委ねられている。そして、美術館学芸課長の南雄介氏によれば、本展は「光」をテーマにした作品ばかりを集めて構成されているわけではなく、あくまで「光」を一つのきっかけとして、二作家の作品をそれぞれ紹介しようという試みであるという。
私はまず、写真家野口里佳氏の展示から拝見することにした。30代と若手ながら、早くから国内外で注目を集めてきた彼女は、これまで「光」のみに縛られることなく数々のテーマを取り上げ、その都度異なる手法・アプローチで作品制作に臨んできた。
本展でまず最初に展開するのが《フジヤマ》シリーズ(1997~)。フジヤマと聞くと、どっしりと構える富士山の荘厳な姿をつい思い浮かべてしまうが、野口氏がここで捉えたのは部分的な像ばかりである。木一本生えていないゴツゴツとした岩肌、どこまでも続く急な傾斜、バックパックを背負い前進する登山者たち。それらのイメージは、時にくっきりとした輪郭を持って、また時に被写体が靄の中を透過する光の中にぼうっと浮かび上がるような形で映し出される。一見ランダムに切り取られた場面のように見えるが、その一枚一枚から共通して感じ取ったもの、それは超俗性である。
富士山という誰にとっても馴染み深い対象でありながら、フジヤマというタイトルなしではそこがどこなのか、何なのか判断がつかない、そんな不思議な感覚を引き起こす作品である。走って遠ざかっていく霧の中の人物や登山者たちは、かなり遠方から撮影されているためにディテイルや個性が取り除かれ抽象化されている。彼らは富士山の山肌にしっかりと足を着けているにも拘らず、時代も場所も特定出来ない、未知の領域に存在するかのように見えてくる。
《フジヤマ》シリーズが「光」を直接的にその主題とはしていないのに対し、《太陽》はこれ以上ないぐらいの直接性を持って「光」と対峙した作品群である。ピンホール・カメラで撮影された太陽のポートレート。空に浮かび地面を照らす太陽。木々の間に顔を出す太陽。そこから発散される光線の一本一本までもが映り込んでいる。そして、光に照らされる周りの景色は、その白く強い輝きに圧倒され、飲み込まれ、輪郭を失い、抽象化されていく。普通のカメラで撮ることが非常に難しい太陽も、極小の穴から少量の光をゆっくりと取り込むピンホール・カメラでは撮影が可能となる。この手法を採用することにより、野口氏は太陽そのもの、あるいは光そのものをイメージとして捉え、写真作品として成立させることに成功したといえる。
通常写真家は、光を利用しその量を調節することで、それが反射して見えてくる像を撮影する。つまり光はあくまで、像を的確に捉えるための要素であるはずなのだが、野口氏の手によってそれは被写体となった。こういったアプローチを通して、野口氏は写真というメディアを根本から見つめ直そうとしているのだろうか。私にはそれが、写真が、写真として(写真家が、写真家として)成り立つための必須要素である「光」に対する愛着や感謝の意を含んだ、作家と光との対話であるようにも思えた。
光が物体に当たりそれが反射される際、その物体の性質に応じた特定の波長のみが反射され、それ以外は吸収される。ここでどの波長が反射されるかによって物体の「色」が見える。この光と色の関係に注目し、光の動きや質感の変化をビジュアル化しようと努めた印象派の画家たち。そんな印象派の影響を少なからず感じさせる松本陽子氏の画面に広がるのは、完全なる抽象の世界である。松本氏の代表作であるピンクの絵画は、1960年代から1990年代までという長い年月をかけて描き続けられたシリーズである。
青や紫がかったピンクが煙のようにあらゆる方向に広がり、キャンバスを覆い尽くす。そこに加えられた白が、ちょうど野口氏の《フジヤマ》で見たような、「靄の中を透過する光」のように見え隠れする。無造作に、即興的にペイントが塗り重ねられた淡い色面は、目の前で常に動き変化しているような錯覚を与える。印象派の光を彷彿とさせながら、アメリカ・抽象表現主義の存在感、躍動感をも持ち合わせる松本氏の作品。ちょうどマーク・ロスコの作品を見たときに感じた、目の前にすると釘付けになって動けなくなるような、見る側がキャンバスに描かれた世界に引き込まれていくような感覚を、今回も経験した。この独特のセンセーションは、色彩のみで構成される抽象世界の成せる技であり、また縦横それぞれ2メートルを超えようかというキャンバスのサイズにも起因しているだろう。
この「作品にどっぷりと浸かってしまうような感覚」を、松本氏自身もその制作過程で体験しているそうだ。水を多く含ませるアクリル絵具を使用するという点から、松本氏はキャンバスを床に直接置いて描くという方法を選ぶ。画面のあらゆる方向から筆を入れ、時にはキャンバスに足を踏み入れ、文字通り自分の体が作品の一部になるような状態で制作に没頭する。キャンバスの縁に垂れた絵具の跡が、この制作過程を証明している。
ここでのチャレンジは、屈んだ体勢で描き続けねばならないこと、そして、オイルペイントと異なり置いたそばからすぐに乾いていくアクリルとの時間の戦いである。これらの難関を乗り越えるため、松本氏は大型作品一つを一日で仕上げるというスピードを養うことになる。床に横たえたキャンバスに上から絵具を素早く、迷いなく重ねていく。それはジャクソン・ポロックのアクションペインティングの行程にも似ている。そして、完成した作品から伝わってくる躍動感や混沌としたムードは、スピードを強要された特殊な制作環境の産物ともいえよう。
無理な姿勢を続けたことにより自由が利かなくなった身体で、松本氏が自分に与えた次のチャレンジは、それまで毛嫌いしていたという油彩画である。アクリル画と違い、キャンバスは床と垂直に立てられ、ゆっくりと時間をかけ描かれていく。ずっと執着してきたピンクから一転し、新たに選んだ色は緑。黒を含んだ暗い緑である。緑というと自然を連想するが、松本氏が表現する緑は草花や木々等、我々を取り巻く具体的な事物を追い求めてはいない。では何を表現しているのか。なぜここに来てピンクから緑へのチェンジなのか。
ピンクの絵画シリーズでも印象的だったのだが、松本氏の作品タイトルには、《光は荒野のなかに拡散している》《降下する光》など、「光」という言葉が多く登場する。そしてそれらはどれも具体的なようで象徴的な意味も含んでいるような響きを持つ。
例えば作家が近年取り組んでいるこの緑の絵画シリーズでも、《夜明けの少し前》や《光は地平に輝いている》のように、光を直接・間接的に喚起させる作品が見られる。しかし作家がほぼ半世紀にも亘って表象を試みてきたのは、荒野や地平に光が反射するいわゆる風景画ではなく、作家自身、あるいは鑑賞者一人一人の精神世界と、そこに差し込む光といった、よりシンボリックなものなのではないか。また、無秩序にキャンバスを横切り渦巻くピンクや濃緑が、人の多さや時間の流れの速さに自分を見失いがちな混沌とした今という時代を表しているとすれば、そこにある光は我々にとっての道標である、という解釈も出来る。
私が受けたもう一つの印象は、松本氏が色そのものに執着する「色彩の画家(colorist)」である、というものだ。抽象世界から象徴的なメッセージを読み取る者もいれば、そこから風景のような具象を見て取ろうとする者もいるだろう。作品の解釈はあくまで見る側の主観に任されている。しかし実際のところ、作家自身はピンク・緑といった一つ一つの色と長い時間をかけてコンスタントに対話することで、絵画を絵画たらしめる色彩、そして色彩を生む光とは何かを理解しようとしているのかもしれない。
こうして二作家の作品を続けて見てみて、メディア・年齢・作風等の違いを認識する一方で、二人とも「光」というテーマに沿って作品を創造しようとするのではなく、むしろ写真であり絵画がそれぞれ成立するためにそこにいつも光があり、光と常に関わる中で必然的にそれ自体を追求するようになったというような、より根源的なレベルでの作家と光との関係性を感じた。最新シリーズ《飛ぶ夢を見た2》で、今まで多く見られた具象と抽象の間を行き来するような作品から一転し、完全なる抽象の世界へと踏み出したかに見える写真家、野口里佳。そして新しい色との出会いで新境地を開いた画家、松本陽子。今後の二人の作品展開が実に楽しみである。