公開日:2024年10月1日

「ハニワと土偶の近代」(東京国立近代美術館)開幕レポート。戦前から現代まで、出土遺物への視線はなぜ、どのように変化した?

その時々の社会情勢と絡み合い、埴輪や土器、土偶に向けられる視線は移り変わってきた。美術を中心に出土モチーフの系譜から、「埴輪・土偶ブーム」の裏側を探る展覧会。会期は10月1日〜12月22日

展示風景より、都路華香《埴輪》 1916 京都国立近代美術館

考古資料のなかでもとくに身近な存在として親しまれてきた埴輪や土偶。その独特の存在感に惹きつけられた芸術家も多く、出土遺物は美術に限らず、工芸や建築、写真、映画、演劇、文学、さらにはマンガやテレビ番組など、幅広い文化領域で扱われてきた。

作家たちはなぜ太古の遺物に着目したのか? その時々の社会的・文化的背景とともに、明治時代から現代にかけての文化史における「出土モチーフ」の系譜を追う展覧会「ハニワと土偶の近代」が10月1日から東京国立近代美術館でスタートした。企画担当は同館主任研究員の花井久穂と成相肇。主に花井が埴輪、成相が土偶を担当した。開幕に先駆けて行われた内覧会の様子をレポートする。

本物の埴輪や土偶を中心とする展覧会ではない

本展は埴輪や土偶をテーマにした展覧会ではあるが、「この展覧会は本物の埴輪と土偶を中心とする展覧会ではございません」と花井研究員。本物の埴輪は2体のみ、土偶の展示はなく、埴輪や土偶を描いた、もしくはモチーフにした絵画や工芸、デザイン、造形物など、埴輪や土偶の「イメージ」を扱う展覧会となる。

ここでフォーカスされるのは、埴輪や土偶が注目を集めた一時期に、なぜそのブームが起きたのかということ。埴輪は戦前は戦意高揚にも使われ、戦後は平和国家としての復興と結びつくなど、出土遺物が注目を集め、表象される際にはいつも様々な背景があった。本展ではその変遷を明治から現代までの豊富な作品や資料とともに読み解いていく。

10月16日から東京国立博物館で埴輪の展覧会「挂甲の武人 国宝指定50周年記念 特別展『はにわ』」が行われるが、花井は「東博が表舞台であれば、裏舞台を掘り起こすのがこちらの展覧会」と説明する。

「好古」と「考古」が重なり合う、出土遺物を描いた作品

展示は序章に加え、時系列に沿って戦前、戦後、現代を辿る全4章で構成。

古物を愛好する「好古」と、「考古」、そして美術が重なり合う場で描かれた出土遺物を紹介する序章「好古と考古——愛好か、学問か?」は、会場である東京国立近代美術館の歴史を出発点とする。

展示風景より、蓑虫山人《埴輪群像図》 1877–86頃 弘前大学 北日本考古学研究センター

1979年から1980年にかけて同館の地下収蔵庫新設に伴う発掘調査の際に出土した縄文時代、弥生時代の土器や、1954年の開館2年目に行われた出土品や古美術に当時の目を向けた展覧会「現代の眼:日本美術史から」のポスターが展示されている。

ガラスケースに並ぶ掛け軸の作品は、幕末から明治にかけて、遺物を発掘、蒐集していた放浪の絵師・蓑虫山人の《陸奥全国古陶之図》(1882-87頃)。茶道具や植物とともに、作家自身が収集した土偶や土器が中国文人画風に描かれている。

展示風景より、蓑虫山人《陸奥全国古陶之図》 1882–87頃 弘前大学 北日本考古学研究センター

さらに、河鍋暁斎が土師部の始祖とされる野見宿禰が埴輪作りをしているところを描いた想像図《野見宿禰》(1831-89)や、明治の洋画家・五姓田義松による埴輪の精巧なスケッチなども展示される。

展示風景より、五姓田義松《埴輪スケッチ(『丹青雑集』より)》 1878 個人蔵(團伊能旧蔵コレクション)

「万世一系」の歴史の象徴となった埴輪

昭和戦前期の埴輪ブームを追う第1章「『日本』を堀りおこす——神話と戦争と」は、いかにして埴輪が国粋主義と結びつき、戦意高揚や軍国教育などにも使用されていったかがわかる興味深いセクションだ。

この章の冒頭に展示されているのは、埴輪作りに勤しむ人々の姿を描いた都路華香《埴輪》(1916頃)。当時、埴輪作りが主題となった背景には、近代に入って初めての復古的大事業としてこの時期に行われた、明治天皇伏見桃山陵の造営がある。陵墓に置くために1000年以上ぶりに埴輪作りが復活したことから社会的に大きな関心事となっていた。

展示風景より、都路華香《埴輪》 1916 京都国立近代美術館

近代国家「日本」の形成過程において、埴輪は「万世一系」の歴史の象徴となり、特別な意味を持つようになっていく。日清・日露戦争後の国内開発に伴って埋蔵物の発見も増え、出土品は皇室財産として帝室博物館(現在の東京国立博物館)に選抜収集されるようになる。のどかな農村の風景に古墳が描かれている《圓形古墳図》(大正時代)は、二世五姓田芳柳によって、帝室博物館に展示する展示パネルの役割を果たす目的で描かれた作品。

展示風景より、二世 五姓田芳柳《圓形古墳図》 大正時代 東京国立博物館

考古遺物は近代の画家たちにとって日本神話イメージの創出を助ける考証の具となった。鮮やかな色彩で古代の人物を表現した杉山寿栄男の作品も、帝室博物館の所蔵品を再現して描いたものだ。

会場風景より、杉山寿栄男《上古時代男子図》《上古時代女子図》 1930頃 東京国立博物館

神武天皇の即位2600年を祝う皇紀2600年に際し、様々な国家イベントが計画されていた時期には、考古資料としてでなく、埴輪そのものの「美」が称揚されるようになる。スポーツ大会の記念メダルや、子供向けの絵本の付録、タバコのパッケージなどからは、戦争を背景にした国粋的な高揚のなかで、埴輪や建国神話の図像が大衆の生活に浸透していたことがわかる。

展示風景より

埴輪の「美」の称揚、抽象画家たちの実践

いっぽうでモダニズムの画家たちもこうした動きとは無縁ではなかった。ここでは、地中に眠る遺物と地上に浮かぶ女性の頭部が描かれた矢橋六郎の《発掘》(1937)、難波田龍起が連作で手がけた《埴輪ついて》(1943)、単純化されたテラコッタ色の人体と黄色い円で構成される小野里利信《はにわの人》(1939)など、抽象美術を志した自由美術家協会の作家たちの埴輪への関心も紹介される。埴輪の単純で抽象的な形態は、戦時期に厳しい統制下にあった抽象画家たちの隠れ蓑にもなっていたという。

展示風景より、左:難波田龍起《埴輪について》 1943 世田谷美術館、右:矢橋六郎《発掘》 1937 岐阜県美術館

また、埴輪の美の称揚には写真も大きな役割を果たした。雑誌「造形藝術」に掲載された埴輪のグラビア写真は、それまでの記録写真とは異なり、黒い背景に明暗を強調したライティングを加え、造形の美しさを演出している。本展では、この写真を撮影した写真家・藤本四八にも光を当てている。

展示風景より

1938年に国家総動員法が公布され、国を挙げて戦争に突入していくなかで、埴輪の顔は「日本人の理想」として軍国教育にも使われるようになる。高村光太郎は武人埴輪と南方戦線に赴く若い兵士の顔を重ねて称賛した。倒れた航空兵士を助ける人物が武人埴輪のような姿で描かれた蕗谷虹児《天兵神助》(1943)は、神話世界が古墳時代の風俗で描かれるという、古事記や日本書紀が聖典とされた戦時下の特徴を表している。

展示風景より、蕗谷虹児《天兵神助》 1943 新発田市
展示風景より、桑原喜八郎《埴輪の部屋》 1942 戦没画学生慰霊美術館 無言館。右の像が高村光太郎が称賛した武人埴輪

焼け野原からの復興と開発、「土」を掘り起こす

第2章「『伝統』を掘り起こす——『縄文』か『弥生』か」では戦後の動きを追う。

まず目に入るのは博物館のなかで土器を鑑賞する女性たちの姿を描いた野島青茲の《博物館》(1949)。終戦後、歴史の教科書には、古代の神々の物語に変わって、石器や土偶、埴輪といった出土遺物の写真が登場する。戦後の復興と開発のために発掘が盛んに行われ、皇国史観に基づく歴史記述からの脱却が重要な課題となった時代に、出土遺物も歴史の読み替えに作用した装置になったという。

展示風景より、野島青茲《博物館》 1949 静岡県立美術館

1947年には帝室博物館が国立博物館に改称し、展示品が皇室の財産から国民の財産となる。このセクションでは、そうした博物館の位置付けが変わっていった様子も当時の新聞記事などから知ることができる。壁一面に書かれているのは、谷川俊太郎が1950年に執筆した詩『埴輪』。かつて皇紀2600年の際に使役されるなど、埴輪が辿ってきた物語が示唆されている。

展示風景より
谷川俊太郎の詩「埴輪」 『詩集 二十億光年の孤獨』(1952)

埴輪や土偶を「発見」した画家たち、前衛芸術家と考古遺物

またこの章では、欧米への見聞旅を経て埴輪や土偶を「発見」した画家たちや、縄文文化に着目した前衛芸術家たちの目線も紹介。埴輪とキュビズムが結びついた斎藤清の作品や、土偶を描いた油彩やデッサンを多く残した長谷川三郎の絵画、1951年に国立博物館で開催された「日本古代文化展」で埴輪の美に魅せられた猪熊弦一郎による《猫と住む人》(1952)などの作品が並ぶ。

展示風景より、左:斎藤清《土偶》 1959 福島県立美術館、右:斎藤清《ハニワ》 1953 福島県立美術館
展示風景より、長谷川三郎《無題—石器時代土偶による》 1948 学校法人甲南学園 長谷川三郎記念ギャラリー

自ら収集するほど埴輪にのめり込んでいたという猪熊は、出土の現場や、遺物が眠る土を掘り起こして開発を進める行動経済成長期の風景を感じさせる作品も残している。

展示風景より、猪熊弦一郎《猫と住む人》 1952 丸亀市猪熊弦一郎現代美術館
展示風景より、左:亀倉雄策《東京オリンピック》 1961 国立工芸館、右:猪熊弦一郎《驚く可き風景(B)》 1969 東京国立近代美術館

さらに展示室の中央では、出土遺物のイメージを受け継いだテラコッタや陶などの立体作品がインスタレーションのように展示されている。ここに並んでいるのは、武人埴輪の兜のようなイサム・ノグチの《かぶと》(1952)や、「縄文土器論」を残した岡本太郎の《犬の植木鉢》(1954)など。

展示風景より
展示風景より、岡本太郎《顔》 1952 川崎市岡本太郎美術館

壁一面に広がる芥川(間所)紗織のろうけつ染めの作品《古事記より》(1957)では、日本の古代や神話のイメージと、1950年代に多くの作家に影響を与えたメキシコ美術のイメージが重なる。古事記を主題に百鬼夜行絵巻のように描かれた超大作。本展の出品作のなかで最大となる横幅約13.5mの作品だ。

1950年代後半には素朴な古代のイメージよりも「原始」的な怪物のようなモチーフが登場し始め、同時代に活躍した前衛芸術家・桂ゆきの作品《人と魚》(1954)でも縄の鉢巻をしたインパクトのある顔が縄文時代の土器をもとに描かれている。

展示風景より、芥川(間所)紗織《古事記より》 1957 世田谷美術館
展示風景より、左:桂ゆき《人と魚》 1954 愛知県美術館、右:桂ゆき《抵抗》 1952 東京都現代美術館

キャラクターとして大衆文化に浸透していく

「ほりだしにもどる——となりの遺物」と題された最後の章では、埴輪や土偶が現代にかけてさらに大衆文化に浸透していく様が紹介される。とくに1970年代から80年代にかけては、SF・オカルトブームとも結びつき、特撮やマンガのなかで古代の遺物に着想を得たキャラクターが多数登場する。

1960年代につくられた大映の特撮映画『大魔神』三部作は、戦国時代を舞台にした物語だが、魔神のデザインは国宝の埴輪《挂甲の武人》がモデルとされている。60年代から90年代にかけての埴輪や土偶とサブカルチャーの関連を辿る「ハニワと土偶とサブカルチャー年表」を見ると、特撮やマンガ、アニメ、ビデオゲームなどにおいて、武人埴輪は勇ましい主人公、土偶は恐ろしい敵など、用いられるイメージに傾向があることもわかる。

展示風景より
展示風景より、タイガー立石《富士のDNA》 1992 アノマリー

さらに1983年〜89年にNHK教育テレビで放送された幼児向け番組『おーい!はに丸』の映像も紹介。会場外にははに丸と写真が撮れるフォトスポットも設置されているほか、本展の音声ガイドナビゲーターは、同番組ではに丸の声を演じ、『ONE PIECE』のルフィなど多くの人気作への出演で知られる声優の田中真弓が担当している。

『おーい!はに丸』のフォトスポット

そして最後に、埴輪や古墳、古代の文化に独自の視線を向ける現代作家の作品として、藤浩志、衣真一郎、田附勝の作品が紹介され、本展を締めくくる。

多くの人が子供の頃に教科書で習う身近な古代の存在である埴輪や土偶。過去の人々がどのようにそれらを見つめ、どんな時代の要請を受けてその受容が変化してきたのか。本展は知っていたつもりの埴輪や土偶を新たな視点で見つめ直すきっかけを与えてくれる。本物の埴輪が多数展示される、「挂甲の武人 国宝指定50周年記念 特別展『はにわ』」展(東京国立博物館、10月16日〜12月8日)とあわせて鑑賞したい。

後藤美波

後藤美波

「Tokyo Art Beat」編集部所属。ライター・編集者。