公開日:2023年11月13日

成相肇インタビュー「美術館は特権的ではないはずだし、”大きい公民館”でもいい」。単著『芸術のわるさ コピー、パロディ、キッチュ、悪』が示す、新たな芸術・文化論

『芸術のわるさ コピー、パロディ、キッチュ、悪』(かたばみ書房)を刊行した、成相肇(東京国⽴近代美術館主任研究員)にインタビュー

成相肇 撮影:編集部

今年、かたばみ書房より初の単著『芸術のわるさ コピー、パロディ、キッチュ、悪』を出版した成相肇。これまで「不幸なる芸術」(switch point、2011)、「石子順造的世界」(府中市美術館、2011〜12)、「ディスカバー、ディスカバー・ジャパン」(東京ステーションギャラリー、2014)、「パロディ、二重の声」(同、2017)といった展覧会を企画し、一般的に美術館では取り上げられることのないものやことを独自の視点から研究、展示してきた。こうした展覧会などを通した10年の仕事をまとめた本書は、副題からもわかるとおり芸術における「複製」を主なテーマに、石子順造や赤瀬川原平、岡本太郎、いわさきちひろなどの仕事から、マンガと美術のすれちがい、「食人」の教えといったことまでを論じる。

現在は東京国⽴近代美術館主任研究員として勤務する成相に、本書の内容から、これからの美術館と展覧会の在り方、そしていまの時代をどう見ているかまでを聞いた。【Tokyo Art Beat】

「わるさ」が意味するもの

──はじめに本書のテーマについてお伺いします。本書で掲げられる4つのテーマ「コピー」「パロディ」「キッチュ」「悪」はどのように生まれてきたのでしょう?

この本は僕が学芸員をやってきた10年分ぐらいの仕事の主要なところをまとめたものです。僕のなかで軸になっているものを探したときに、まず「コピー」「パロディ」「キッチュ」の3本柱が立ってきた。これらはすべて「複製」にまつわるテーマなので、そのまま「複製芸術論」に仕立てることもできたんですが、それでは的を絞れていない気がして。そこで、全体の底に流れる観点として「悪」が加わっていきました。

成相肇『芸術のわるさ コピー、パロディ、キッチュ、悪』 かたばみ書房 3200円+税 2023年6月10日刊行

──それが書名『芸術のわるさ』の「わるさ」につながっていったわけですね。その「悪」は芸術分野ではあまり見慣れないテーマかと思いますが、これにはどのような思いが込められているのでしょうか。

本書の冒頭には、柳田國男が書いた『不幸なる芸術』に触発されて書いた、switch point(東京・国分寺)での2011年の展覧会に寄せた同題のステートメントを収録しています。これを後々見返してみると、僕がやってきたことの一種のプロットみたいで、これをスタートに置いて全体を象徴するものにしようと思ったんです。その意味ではずっと、「悪」がなんとなく自分の中心にはあったんです。

『芸術のわるさ』というタイトルを見たときに、多くの人がデカダンっぽい内容を想像するんじゃないかと思います。この「わるさ」は多義的に使っているのですが、この本は正面から「悪」について書かれたものではなく、善悪の倫理に関わるような話は出てきません。僕はこれまで頻繁に、複製芸術、複製文化といったいわば二次生産物を展覧会で扱ってきました。生産過程が二次的だと往々にしてその価値までもが二次的で、取るにたらないものだと思われやすい。それをあえて僕が扱っている、そういう意味での「わるさ」も含ませたかったんです。それから、アヴァンギャルドが自覚的にルールを破ろうとする「いたずら」のような「わるさ」も含みたかった。芸術言説において必ずしも「良いもの」とは思われていないものや、芸術自体がもっている反抗的な面も扱うものとして、このタイトルにしたんです。

──英訳タイトルをつけるとしたら、どんなものでしょう?

『芸術のわるさ』になる前に考えていた候補が「コピーアンドテイスト」だったんです。ダジャレですが、「コピペ」じゃなくて「コピテ」。つまり複製(コピー)と趣味判断(テイスト)ですね。ただ編集のかたばみ書房の小尾章子さんとも相談してボツにしました。何の本なのかわからないですしね。「わるさ」は直訳しにくい多義性をもたせたつもりなので、英語タイトルをつけるなら、原題と邦題が異なる映画みたいに、『Copy and Taste』かな。

石子順造は「”カルスタ”の祖」

──本書では岡本太郎、赤瀬川原平、植田正治やディスカバー・ジャパンなど、1950年代から80年代頃までの日本の様々な芸術、あるいは「芸術」の範疇で語られてこなかったものを取り扱っておられます。なかでも印象的なのは、2011年の府中市美術館での展覧会「石子順造的世界 美術発・マンガ経由・キッチュ行」でも扱った石子順造の存在です。本書では、評論家である石子はもちろんですが、作家論でさえも、一貫して「みる」ことに着目して問うていると思いました。

『石子順造的世界 美術発・マンガ経由・キッチュ行』展覧会図録 美術出版社 2011年刊行

作品の造形や教育についての評論なども書いてきましたが、この本には収録せずに傾向を絞ったので、文化史や社会学に近い内容になりましたね。

この本でいちばん重要な人物が石子順造です。石子は作品そのものについて語るのではなく、作品を見る人に関心があったというのが面白い。彼のスタンスは一貫して受容論です。「キッチュ」という言葉を日本に広めた石子は、そういう「いかがわしいもの」「まがいもの」あるいは「大衆的なもの」を観察して、マンガ評論や美術評論をまとめあげようとしていた。キッチュなものを扱うから「サブカルの祖」なんて評されることもあるんですが、それはちょっと違う気がします。

石子は、正統な文化、あるいは高級、高尚な芸術へのカウンターとしての──それこそ「サブ」と付けられるような──文化を対象としていたというより、文化を受容する──むしろ「メイン」ないし「トータル」な人々──を論じようとしたんです。語る対象を拓いたこと、増やしたこと自体は素晴らしいことですが、対象ばかり見ていると石子の仕事の意義が不明になるでしょう。マンガを美術評論のボキャブラリーで論じること自体に価値があるわけではなく、マンガを論じるアプローチの開発こそが重要で、石子はそこに注力していたんですね。

たとえば、石子は仲間たちと「漫画主義」という日本初の漫画評論集団をつくって、そこでまさに受容論を展開しました。彼の時代に「劇画」と言われる、子供向けやユーモアなマンガとは異なる、シリアスな画風でダークな主題を描くマンガがたくさん出てきます。しかし、石子は、このコマの展開がすごいだとか、この線がいいんだ、というようなことは書かない。そうではなく、劇画ムーブメントの裏にいる読者を見る。「漫画主義」はそれを「非学生ハイティーン」と呼びました。すなわち、ドロップアウトしたり、義務教育を終えてすぐ働き出したような、裕福とは言えない労働環境下の人たちです。かれらの恨みや日々の辛さを吸収し、受け止める媒体としてこそ劇画があるんだ、そうした描き手と受け手の応答のなかで劇画というジャンルが膨らんでいったんだ、と論じるわけです。

──なるほど。たんにひとつのジャンルを論じることではなく、その論の展開そのものが石子独自の、言わば「わるさ」であり、新しいアプローチの開発だったと。

それがとても面白いところです。「カルチュラル・スタディーズ」が注目されるようになるのは石子の没後ですが、石子を「”カルスタ”の祖」と呼ぶともう少し正確かもしれません。

今回の本は、そうした石子という主役に引っ張られたところもあって、作品のフレーム内で何かを審美的に論じることより、誰がこれを見て、どう受容されていって、それがどう作者に返ってきているか、その応答関係に僕が関心を寄せたテキストが詰まっていると思います。

成相肇 撮影:編集部

新型コロナウイルス感染症にSNS、いまの時代と通じるもの

──成相さんの石子への理解と関心が存分に表れた一冊だと思います。いっぽう、「あとがき」のなかで、成相さんは「マージナルでインフォーマルな領域で勇躍する存在」としての前衛美術への憧れがある、とも書かれていたと思います。本書で言うところの岡本太郎や赤瀬川原平、篠原有司男のような作家や、彼らと活動を共にした評論家たちの存在は、成相さんにとってヒーローのようなものなのでしょうか?

この本には岡本太郎もよく登場しますね。僕は卒業論文や修士論文でも岡本太郎を扱ったので、「岡本太郎のどこが好きなんですか?」と聞かれることもあるんですが、僕は岡本太郎はぜんぜん好きじゃないんです(笑)。研究するきっかけは好きかどうかに関係なくて、関心にあるはずでしょう。岡本太郎がある影響力を持っていて、彼がいたから起こったこと、彼の活動の前後で何かが変わったりする、そのことに関心があるわけです。調べていくうちに情が移るということはあるかもしれませんが……たとえば石子は、もちろん僕が生まれる前に亡くなっているので会えないけれど、彼の文章をほぼすべて読んで、非常に愛らしい人物だということがわかる。書いていることに同化していくところがあると思いますよ。ヒーローというか、いわば僕がかれらの分身になる感覚ですね。

──岡本太郎や石子順造は、本書の表現で言うところの芸術の「わるさ」を実践していた人たちと言えます。書き下ろしのテキスト「神農の教え」では、異物を積極的に飲み込む「アントロポファジー」の概念を論じておられますが、「あとがき」でご自身でも触れられているように、成相さんは「美術館学芸員でありながら、いわゆる美術館の美術ではないもの」に関心を持たれ、アントロポファジー的に「わるさ」を飲み込んできたと言えるでしょうか。

そうですね。とくに岡本太郎に関してはそう言えます。作品が良いとは思えないのに、なぜこうも大衆的な関心を集めるのかとか、なぜこうも語られ方が一辺倒なのかといった気持ちがあって、飲み込んだわけです。飲み下せたかはわからないけれど。面白くないなら相手にしなくてもいいし、嫌なものは嫌でもいいはずじゃないですか。それでも、嫌だけどちょっと飲んでみよう、というのが僕にとっての岡本太郎だったわけです。だからまあ、要するに嫌いですよ。この本での言い方にならえば「異物」いや「悪」ですね(笑)。

──本書は戦後から1980年代頃までを扱っていますが、そうした「わるさを飲む」ことには、コロナ禍や、何もかも漂白して加速度的に潔癖になっていく現代を考えるうえで、何か重要な示唆があるようにも感じました。

「神農の教え」はこの本の最後に位置付けて、全体を代替するようなテキストになっています。アントロポファジー/アントロポエミーという、他人の肉を食べるか/吐き出すか、あるいはその間を行くのかという話です。似たような議論は、たとえば毒でも薬でもある「ファルマコン」や、「イムニタス(免疫)」と「コムニタス(共同体)」などの概念で思想哲学で語られてきたことでもあります。周縁領域で排除されやすい負の表徴が果たす両義的な役割。本の冒頭テキストで「火を使わねば火事が起こらぬわけでも無し」と書きましたが、危険だからと火を扱わせないことを徹底すると、火の消し方さえ忘却されて、よりひどいことになる、そういう話が本書のライトモチーフになっているんです。それはコロナなどの感染症ともまさに通じるものがありますね。

これからは展覧会のつくり方が変わる

──ほかにも、画像やSNS文化、生成AIなど、本書では取り上げられていないトピックを考えるうえでも、本書で語られる「芸術のわるさ」は非常に示唆的で、これらを読者が現代文化に照射しながら読んでもらっても面白いんじゃないかと感じました。

ところで、本書はある意味、石子が開発したアプローチによって切り拓いた可能性を、成相さんが石子の仕事を引き継ぐかたちで、さらに推し広げたとも言えます。成相さんはここにどんな可能性を見ていますか?

大きい質問ですね。その可能性こそを本の形で読者に託したつもりではありますが、ひとつ具体的なお話をすれば、展覧会のつくり方が変わると思います。

美術館で見る展覧会に美術ではないものがある──これはもう珍しくないですよね。僕が美術史を学び始めたころはまだ「ニュー・アート・ヒストリー」の波のなかにあって、ひとつの絵画を見るにしても同時代文化や社会状況、具体的にはポストコロニアリズムやジェンダー研究も含めてとらえる手法が次々に開発されつつありました。僕はなんというかちょっと露悪的に、負の記号を帯びやすいもの、印刷や放送メディアなどを引き込んできたんですが、それも石子の仕事の延長線上にあると言えます。これは別に僕だけがやってきたわけではないです。そうするとおのずと美術館は、図書館とか、かつての博物館の起こり、「Wunderkammer=珍奇陳列室」のような空間に変わっていくでしょう。美術館が拓かれていく大きい流れのなかに僕の仕事がある気がします。

美術館も図書館も社会教育施設という括りでは同じ施設ですし、美術館も博物館も同じ「ミュージアム」です。「博物館」と聞くと恐竜の骨だったり標本だったりを思い浮かべますが、そういう場所と見分けがつかなくなるくらいのほうが、少なくとも僕は面白いかな。僕はそうして広く、伸(延)ばすような仕事をしてきたつもりで、それが結局は石子の文脈拡大のアプローチの可能性と言えるかもしれませんね。

止まれる場所が美術館。デモが通路をふさいだり、路上でお酒を飲むみたいに

──昨今のアートシーンを見ていると、コロナ禍のアートバブルと言われる現象もあってか、アートマーケットの社会におけるインパクトが高まったように思います。それは多くの人々にアートの鑑賞とコミットメントの機会を、アーティストに活躍の機会をもたらすものですが、いっぽうでマーケット基準のヒエラルキーにドライブされて、いかにも絵画らしい芸術ばかりがもてはやされている傾向も見受けられます。そうしたとき、これは仮説としての見方ですが、マーケットの基準に囚われずに、芸術の枠組みを自ら規定することなく、その定義も価値も更新し続けられる、ある意味自由な開拓前線としての美術館の場になりえないでしょうか? マーケットドリブンでなく、かつ美術館が旧来的な枠組みから解放されたとき、美術館はいちばん新しい場所になっている可能性がある......

だといいんですけど(笑)。いや、下手をすると僕がいま話したようなことは、特権的な美術館の非特権化、と見られかねないんですが、これがとても微妙で、大事なところなんです。そもそも美術館は特権的ではないはずだし、「大きい公民館」でもいいと思うんです。特権的というならば、保管、管理するだけでなくそれをまとめて企画することまで独占している学芸員という存在は特権的かもしれない。それを崩すことも考えてしかるべきですが、美術館という場所に話を戻せば、そこが特権的な場所であるとするステレオタイプをまず問わなければならない。

誰が美術館を特権的だと言っているか。美術館らしさをなぜ保持しようとするのか。何が高い価値を持っていて高尚で、何が低い価値なのか。そして、それを当然視する集団的な価値観は何に基づいているか。それこそ石子が大切にした受容論ですが、価値は既存ではなく、自分と、自分に至るまでに連綿と形成されてきた物差しが決めている。それを問うということもまた、本書で繰り返し説いていることです。

──その問うということ自体のための余裕や隙間が、ひょっとすると現代社会のなかではなくなってきているのかもしれません。その意味で、美術館という場所が多様な見方を提供し、見るということを問い直し、自由に考え、発想できる場所、ある種の解放区として存在感を発揮できるのかもしれません。

ゆっくり見るとか、止まれる場所が美術館なんですよね。とにかくなんでも流通なので、流通を止めてみることが大事なんです。デモが通路をふさいだり、路上でお酒を飲むみたいに。

近代とは、そして現代とは?

──本書のなかで繰り返し取り上げられる「近代」についてもお伺いしたいです。石子順造や岡本太郎が見た未来の世界は、まさに現代そのものと思えます。成相さんにとって本書で言うところの近代とは何で、また現代をどうとらえていますか?

僕はいま東京国立近代美術館という名の美術館に勤めていますが、近代というのは最初と最後を線引きできるような時間的な概念ではもともとない。この本になぞらえて、僕なりに思い切って、近代とは「複製技術が大衆化・民主化される時代」だと言っておきましょう。複製技術が独占されず、専門的でなくなることが近代化。石子も、同時代の寺山修司もマーシャル・マクルーハンも、作者がいて見る人がいる、という一方向的な関係性は壊れるだろうと思っていたし、みんながコピーをして誰もが作者になるという、民主的な時代になった。ただ、現代は彼らが思いもよらなかったフェーズに入ってきてもいます。作り手か受け手かはもはやトピックとして乗り越えられて、人間か非人間か──気づけば人間も複製物であった、というポスト・ヒューマンをめぐる地平にいよいよ具体的に入りつつあります。

──それは成相さんのお仕事にも影響するのでしょうか。

美術評論や研究をフィールドにいる身としては、「変身」という主題について考えてみたいと以前から思っています。人間と非人間の間にある現象のひとつが「変身」なわけですが、日本のサブカルチャーのなかで異常発達したテーマのひとつもまた「変身」です。これは現在、より考えやすくなった社会的テーマだと思っています。むろんお化けになる、神になるとか、人間が「その先」に行ってしまうという概念はずっと昔からあったわけで、そこにかけてきた人間の想像力は、いま切実に響くところかなと思っています。今後、展覧会にするかもしれませんね。

成相肇(なりあい・はじめ)
東京国⽴近代美術館主任研究員。美術評論家。1979年島根県⽣まれ。一橋大学商学部在学中に現代美術作家に出会い、19歳で初めて美術館を訪ねる。⼀橋⼤学⼤学院⾔語社会研究科修了。「石子順造的世界 美術発・マンガ経由・キッチュ行」(府中市美術館、第24回倫雅美術奨励賞)、「ディスカバー、ディスカバー・ジャパン 「遠く」へ行きたい」(東京ステーションギャラリー)、「パロディ、二重の声 日本の1970年代前後左右」(同)など、美術と雑種的な複製文化を混交させる企画を手がけながら、府中市美術館、東京ステーションギャラリー学芸員を経て2021年より現職。2022〜23年「大竹伸朗展」(東京国⽴近代美術館)を担当。

深井厚志

深井厚志

編集者、コンサルタント。美術専門誌『月刊ギャラリー』、『美術手帖』編集部、公益財団法人現代芸術振興財団を経て、現在はアート関連のコンサルティングに従事。