2022年2月に構想から約40年の時を経て開館した大阪中之島美術館。そして2004年に現在の場所に移転して以降、国内外の現代美術を数多く紹介してきた国立国際美術館。隣接するこの2館が共同で「すべて未知の世界へ ―GUTAI 分化と統合」を開催している。会期は10⽉22⽇〜2023年1⽉9⽇。企画担当は、國井綾(大阪中之島美術館主任学芸員) と福元崇志(国立国際美術館主任研究員)。
本展は具体美術協会(具体)の解散50年という節目に開催される大回顧展だ。具体は1954年に兵庫県の芦屋で結成された美術家集団。戦前から活動していた画家であり、吉原製油社長でもあった吉原治良(1905-72)を中心に、1972年の解散まで多くの作家が集い、独創的な芸術実践を繰り広げた。主なメンバーは田中敦子、白髪一雄、元永定正、山崎つる子、村上三郎などで、具体解散後に大規模な個展が開催され高い評価を獲得している作家も多い。
具体は近年、神話化されていると言えるほど、戦後美術史における重要な存在として国際的に評価を高めている。ミン・ティアンポによる著作『GUTAI:周縁からの挑戦』をもとに、2013年にはニューヨークのグッゲンハイム美術館で「GUTAI」展が開催され、マーケットにおいても白髪一雄らの作品が急激に値上がりして人気を博すなど、その注目は多方面に及ぶ。しかし具体をめぐる評価は決して安定していたわけではなく、ダイナミックな変化を辿ってきた。活動当時、東京中心の美術界・美術批評からは等閑視と言っていい扱いを受けていたことはよく知られている。また、抽象絵画を中心とする美術運動「アンフォルメル」の推進者であるフランスの評論家ミシェル・タピエと深い交流を持ったことが、その評価をいっそう複雑にしてきた。大きな転機としては1980年代、千葉成夫『現代美術逸脱史』が刊行され、戦後40年の日本美術の流れの原点として具体が位置づけられた。しかしその評価はもっぱら活動前期のみに注がれ、アンフォルメルの影響を受けた以降は独創性を失ったとして切り捨てられた。
その後も具体はグループとして、また個々の作家として、国内外の研究者やキュレーターらによって研究が進められ、国際的な評価がかつてなく盤石になりつつある。そんないま、拠点であった関西で大回顧展が開かれるとあれば、期待せずにはおれない。ここ中之島には1962〜70年、吉原が開設した具体の私設美術館・展示施設である「グタイピナコテカ」があったので、歴史的なゆかりも深い。前置きが長くなったが、まさに本展は両館の歴史という点でも、具体をめぐる評価の歴史という点でも、満を持しての開催となる。だからこそ、どのような新たな「具体」像を現代の鑑賞者に提示することができるのかが、当然問われてくるだろう。
キーワードになるのは、本展タイトルにもなっている「分化」と「統合」。吉原治良が1956年の「具体美術宣言」で記した「分化と統合のすばらしい効果」から採られた言葉だ。2館共同開催だが、展示はひと続きの流れになっているのではなく、各館がそれぞれ異なるアプローチでキュレーションしている。大まかな印象を先に述べると、大阪中之島美術館は代表的な作品からあまり知られていない作品までを整理したベスト盤的な構成。いっぽう国立国際美術館は、具体が当初「画家」たちの集団であったという出発点を軸に絵画制作に焦点を当て、より批評的な態度を示す展示を展開していた。
絵画をはじめとする多様な造形実践をとおして、「われわれの精神が自由であるという証を具体的に提示」しようとした具体。「分化と統合のすばらしい効果」とは、同じく吉原が語った「人間精神と物質とが対立したまま、握手」している状態と重ねることができる。
大阪中之島美術館での展示の特徴について、主任学芸員の國井は以下のように説明する。
①「分化」の視点:具体に参加した作家たち個々に着目。また具体の「オリジナリティ」を浮かび上がらせる
②4つのキーワードによる検証:空間、物質、コンセプト、場所
まず「第1章 空間」は、具体の空間へのアプローチを考えるもの。たとえば、田中敦子の代表作《電気服》は周囲を染める鮮烈な光を放つもので、《ベル》は会場内に設置されたベルが、スイッチを押すと手前から奥に向けて順々に鳴っていく音響効果を狙った作品。
具体の作品はその大きさに特徴があるとも言える。既に失われた作品も多いが、たとえば本展でも注目すべき作品が出品されている名坂有子は、「大作への執念」を吉原治良に指摘されている。吉原治良の次男、吉原通雄の紙テープで作られた《作品》も、展示室入ってすぐのところで鑑賞者を出迎え、その色と大きさで圧倒する。
國井は図録(p.33)で、1960年代に生まれた「環境芸術」との比較として、「具体の作品は、作品の内と外という明確な境界線を保持しながら、空間をのみこむー空間の侵食とも言えるものである」と論じる。
「第2章 物質」は、具体にとって極めて重要な「物質」にフォーカス。具体は、たとえタブローであっても絵具以外の素材を持ち込んだり、その物質が持つ特性を前面に押し出した作品を次々と生み出したことで知られる。そこには、工業用製品をはじめとする戦後に普及した新たな素材を使ってみようという実験精神、また日常の事物を作品に持ち込むといった意図などが感じられる。何よりもまず、吉原治良の「人のまねをするな、今までにないものをつくれ」という言葉が、メンバーの作家たちを大いに奮起させた結果だと言えるだろう。
「第3章 コンセプト」では、コンセプトが制作の中心になった作品を取り上げる。たとえば金山明は、ラジコンの自動車に絵筆やペンを取り付けて走らせることで絵を描いた。当時大きな影響力を誇ったジャクソン・ポロックの「アクション・ペインティング」を彷彿とさせるが、「僕はアクションというもんができませんしね、構成的な頭なので」と語る金山は、ラジコン自動車を用いることで身体的な激情を伴わない、無機的な線による絵を生み出した。
村上三郎のガラスの立方体《空気》には、人を試すようなユーモアを感じてしまう。ちなみに各面のガラス板どうしを張り合わせているのは、なんとセロハンテープ。「えっ?」と意外に思うが、いまでこそ家庭や職場でおなじみのセロハンテープは、戦後にGHQが持ち込み、その後日本でも製造販売されるようになった、当時としては新しい素材だったのだ。ここでも、具体の素材・物質に対する同時代的な反応が見えて興味深い。
もうひとつ、村上の通称「剥落する絵画」を紹介したい。これは黒い塗料が塗り重ねられた膠層が乾燥し収縮することで剥がれ落ちるという絵画。「時間」というものに大いなる関心を持っていた作家が生み出した、経過変化を積極的に受け入れることで成立する作品だ。
白髪一雄の代名詞「フット・ペインティング」はそのアクション的要素に注目が行きがちだが、その方法自体が強力なコンセプトであると本展は主張する。フット・ペインティングとは白髪が1954年頃より開始した絵画制作の方法で、天井から吊したロープにぶら下がり、床に広げたキャンバスに足で滑走して描くというもの。木材による立体作品も、白髪の創作への一貫した哲学的態度から生み出されている。
山崎つる子にとっては、「色」そのものが大きな探求のフィールドであった。その実験はタブローに限らず、ブリキなどの素材を使った作品などにも広がっていく。本展でも屈指の色鮮やかで美しい作品群に、見ている目が大喜び。
また記号を扱う作品を多数発表してきた向井修二は、本館5階のトイレ全体を埋め尽くす新作インスタレーション《記号化されたトイレ》を発表。こちらも見逃せない。
「第4章 場所」では、具体の屋外や舞台での展示を紹介。1960年に高島屋屋上で開催された「インターナショナル スカイ フェスティバル」は、絵をアドバルーンに吊って展示する空中展覧会だ。具体の会員だけでなく、海外の作家も下絵を日本に送るというかたちで参加し、それを具体の作家たちが拡大して描いたことで、インターナショナルな展示が実現した。
大阪中之島美術館では、この「インターナショナル スカイ フェスティバル」の再現が11月15日〜 20日に行われる予定だ。
また、会場には今井祝雄、向井修二、松谷武判のインタビュー映像がある。具体の活動期間の後半に若手メンバーとして加わった3人の視点から、具体の創造性や吉原の人となりについて語られていて、とても面白い。「今までにないもの」を求める吉原治良は、作家たちが持ち込む作品の審査に「ええなー」か「あかん」と答えるばかりで、その判断理由について細かい説明はなかったという。松谷武判は作品を吉原に見せた際、「とれとれのいわしこや」とその新鮮さを誉められた……という思い出を語っており、その生き生きとした発語に思わず笑った。
さて、国立国際美術館に移ろう。エレベーターを降りて展示室に向かうと、イントロダクションとして配置された元永や白髪の作品が見えてくる。
本展は具体の活動のなかでも特に「絵画」を軸に、その独自性や新規性を探る。まず、ステートメントがその目指すべきところを示しているので引用したい。
「具体は、少なくともその出発点においては、「画家」集団でした。時代が下るにつれ多様化していく造形実践の数々も、もとをたどれば、絵画という規範からの自由をめざした結果と言えます。問題は、絵画らしさをいかに解体し再構築したか、です。絵画「らしさ」をどう捉えているのか、また、それを解体してなお絵を描こうとするのか否かで、導き出される新しさはおのずと変わってくるでしょう」
「必ずしも一枚岩でないこの集団の、内なる差異をあぶりだし、そのうえで「統合」してみせることが主な目的です」
「第1章 握手の仕方」は、吉原治良が語る「人間精神と物質とが対立したまま、握手」している状態とはどういうことか、という問いから始まる。企画を担当した主任研究員の福元は、「画家という「主体」、それに働きかけられる素材・物質という「客体」。この支配ー被支配の関係性を、吉原や具体の作家たちは突き崩そうとした」と語る。
福元によれば、その方法のひとつは「物質の位置を高める」という方向性。画家たちはコントロールの及ばない素材、たとえば大量のマッチや小石といったものをタブローに持ち込んだ。逆の方向性として「高みにある(画家の)精神を低くしてやる」方法がある。こちらでは金山や白髪を例に挙げ、あえて手で描くのではない、不器用にならざるを得ない制作方法が採用されたと説明。
もうひとつは「反復」の手法で、たとえば手拍子をしている本人がそのリズム自体にいつの間にか乗せられて体が動いてしまう……といった、主客がなし崩しになるような状態を生み出している、という。
「第2章 空っぽの中身」は、具体の様々な実践に見られる「無意味」への志向を確認するパート。この「空っぽ」という言葉は、山崎つる子が書いた文章から来ている。具体の展示に際して、批評家からよく「内容がない」と言われた彼女は、「しかし「何もない」「空っぽ」と云う響きは如何にも愉しい」と好転させ、「空っぽの中にこそ既成のものと隔絶された新しい様々の問題、あらゆる可能性が提出されていて暗示と啓示にブヨブヨうなっているのに」 と独特の言葉で「空っぽ」のポテンシャルを語っている。
ここでは山崎や元永の作品を中心に、完全な抽象よりは「字と図」が現れているものの、明確な意味を伝えるわけではない作品群が並ぶ。
なかでも山崎の大きな蚊帳状の作品《赤》は、かつて野外具体美術展(1956)で展示されたことで有名な作品。まさに浮かび上がる「空っぽ」の構造物だが、その鮮烈な赤い色は展示室いっぱいに反射し、ほかの作品にも干渉しながら存在感を放っている。
田中敦子の巨大な《地獄門》をはじめ、名坂有子、今中クミ子など、サイケデリックでオプティカルな作品が並ぶ展示室。ここでも作品は、その意味やその解釈を飛び越え、感覚への直接的な刺激を全面化したものとして配置されている。
「第3章 絵画とは限らない」では、画家として出発した作家たちが、「画面」にとらわれない実験的な試みの数々を展開したことに言及。しかし重要なのは、そうしたアクション的・インスタレーション的な表現が、決して絵画と無関係なわけではなく、絵画の延長線上にとらえられていたことだという。前述した「剥落する絵画」の村上三郎の様々な実践は、こうした具体のあり方の好例だろう。
また、描かれたイメージが画面を飛び出していくような絵画も。吉原治良《作品C》は青地にヴィヴィッドな赤い点が映える。この赤いのは何かの漢字の一部を表していると考えられるそうで、画面の外にあるはずのかたちに鑑賞者の想像力を誘う。
大きな音を発しながら動き光るヨシダミノル《JUSTCURVE '67 Cosmoplastic》を経て、最後は”白”の展示室へ。田中や白髪、山崎らの作品に見られる強烈な「赤」が具体のイメージとして浸透しているが、グループにあとから加わった作家たちはそれまでの具体のイメージにとらわれない作品を制作。もっとも若い世代である今井祝雄にとって、白は「受け身の色であるのと同時に、あらゆるものを包み込む色」。「統合」をテーマにした本展の締めくくりにふさわしい展示ではないだろうか。
このように2館をまたぐ本展はボリュームたっぷり。ぜひ時間に余裕を持って両展示を回ってほしい。充実した展示から、新たな発見や刺激をたくさん得られるはずだ。
いっぽうで「今までにないものを作れ」という吉原の命題のもと、作家たちが驚くべきアイデアを捻り出し、互いに切磋琢磨したグループという運動体としての”熱気”や、アクション的、インスタレーション的な作品の面白さ(村上三郎の「紙破り」とか嶋本昭三の「大砲絵画」のべらぼうさ!)、また吉原が重要視した機関紙『具体』の刊行と国際交流の戦略といったいくつかの基本的かつ重要な側面は、本展からはなかなか伝わりづらいと感じた。資料展示がほぼないことも理由のひとつだろう。絵画中心の展示だが、アンフォルメルやタピエからの影響への言及も意図的に避けられていると感じるほど限られている。またこの中之島にかつてにあったことで本展の契機ともなったグタイピナコテカについては、もっと説明や紹介があってもよかったのではないか。
とはいえ、限りあるスペースであれもこれもと言うのは無理なはなしだろう。本展はこれまで提示されてきた具体の通史をバランスよく見せるという定石では満足せず、各館で異なる方向性のテーマを打ち出し、新たな具体展を試みたということだ。大阪中之島美術館には吉原治良のコレクションだけで800点もあるというし、膨大なアーカイヴも所蔵している。本展が具体の歴史における新たなマイルストーンとなれば、今回は出品されなかった作品や資料がまた違うかたちで披露されることもあるだろう。これからの具体をめぐる研究や、それが及ぼす多方面への影響が楽しみだ。
なお、グタイピナコテカの跡地は両館から徒歩3分ほど。現在は三井ガーデンホテル大阪プレミアが建っている。1階には小さいながら史跡の碑があるので、気になる人は訪れてみてはいかがだろうか。
福島夏子(編集部)
福島夏子(編集部)