やきものを魅力的なマチエールを持った表現素材としてとらえ、その概念を推し広げた作家・河本五郎。没後、東京での開催は初となる回顧展「河本五郎―反骨の陶芸」が、菊池寛実記念 智美術館で行われる。会期は4月22日から8月20日。
愛知県瀬戸市に生まれた河本は、1000年以上続く瀬戸の窯業に幼少より身を置きながら、伝統的な技術や価値観を客観的に捉え、個人の創意でそれらに対峙してきた。河本の創作の軌跡は大きく前半期の陶器と、後半期の磁器に分かれる。
戦後、1年余りの捕虜生活を経て27歳で復員した河本は、1950年、31歳の年に染付磁器で知られる河本礫亭(れきてい)の養嗣子(家督をつぐ養子)となった。初期は家業の染付磁器にデザインセンスを発揮した作品を発表するが、「やきものの造形美は土の性質を抽出し象徴することにある」と考え、家業の真逆を行くように陶器の制作に転向した。それらの作品では、当時の瀬戸において重要な技術であったロクロを用いることなく、土ならではの表情を強調した様々な方法で、素材感や物質感がダイレクトに造形化された。
やきもののマチエールに表現素材としての可能性を認識した河本は、「官能的で放縦な魅力にこと欠かない」陶器の仕事から一転し、再び「人を寄せ付けないような、ストイックな魅力」がある磁器に挑む。1971年に発表した《赤絵の壺》は、まさに陶器から磁器へ移行する過渡期の作品で、陶器で作った迫力ある方形の壺に白い土を吹き付けて軟らかい質感を実現。中国の明・清時代の磁器に見られる手法をアレンジし、強調している。
造形には、瀬戸で使われてきた軟らかい土の性質を強調して、板状の土を貼り合わせ、自由に歪み、たわむの動きを取り込んだ。抽出し、象徴された土の性質や質感。さらに染付や色絵では、龍や鳥、入り乱れる足元、女性の横顔や愛を求め乱舞する男女などが官能的・躍動的に描かれた。それらの文様と造形を一体化して作品の世界を立体的に表すことで、河本の独自の表現が結実していった。
「『伝統』なるものは、すべての陶芸が背負わざるをえない遺伝子みたいなもの」と言う河本は伝統や古典を分析して、自分の個性と併せて再構築し、新しい陶芸を創作した。「陶芸における革新と創造とはいかなるものか?」と問いかける河本五郎の作品に触れる絶好の機会だ。