すべてを見た、ような気はした。それもきっと気のせいだろう。
現在、竹橋の東京国立近代美術館で開催されている「ゲルハルト・リヒター展」は、多くの美術ファンにとって待望の展覧会だったはずだ。今年(2022年)には90歳を迎え、いまなお「現代アートの巨匠」として高い評価を得る画家、ゲルハルト・リヒター。そのリヒターの日本では16年ぶり、東京での開催は初となる大規模個展なのだから当然だ。
ゲルハルト・リヒターは1932年にドイツのドレスデンで生まれ、ドレスデン芸術アカデミーで社会主義リアリズムを学んだ後、壁画製作からその画家としてのキャリアを出発させた。西側の自由な芸術に影響を受けたことを契機に61年に西ドイツに移り住んでからは、既存の写真を精緻にキャンバスに描き写し、その絵肌をぼかした「フォト・ペインティング」シリーズで高い評価を得る。その後も「アブストラクト・ペインティング」「オイル・オン・フォト」といった、絵画の在り方へと果敢に挑むようなシリーズを次々に打ち出し、芸術家としてその世界的な名声を確立させるに至った。
今回の「ゲルハルト・リヒター展」は、リヒターという作家の(日本における可能な限りの)総覧とも言えるような展覧会であり、同時に彼のこれまでの画業を象徴するような──有り体に言ってしまえば、膨大な作品から選り抜き美味しいところを詰め込んだ──内容となっている。
その展示室の構成にはリヒター自身も携わっており、鑑賞の仕方において特徴的な点もうかがえる。展示室内は順路に沿って一つひとつ作品を追っていくような形式ではなく、鑑賞者は、大まかには放射状に配置され、それぞれのシリーズごとに作品がまとめられた小部屋を何度も行き来しながら作品を見ることになる。その展示室の中央、必然的に鑑賞者が複数回出入りすることになる空間には《8枚のガラス》(2012)を中心に、それを取り囲むように「アブストラクト・ペインティング」シリーズの作品が置かれている。
「アブストラクト・ペインティング」は、キャンバスに乗せられた絵具をスキージ(へら)を用いて引き伸ばし、さらには一部をキッチンナイフでこそげ取るなどしながらそのプロセスを繰り返して制作する、リヒターの代表作とされるシリーズだ。
展示室に入ってすぐの真正面、訪れた鑑賞者が《8枚のガラス》越しにまず目にするのは、このアブストラクト・ペインティングの内の1枚となる。この《アブストラクト・ペインティング(CR 952-4)》(2017)を以てリヒターは「油絵は今後制作しない」ことを公言しており、彼の画業にとって明らかな転換点となった作品であることは想像に難くない。これが展示空間の起点ともなるような位置に鎮座し、私たちを迎え入れるわけだ。
区画ごとに整然と並ぶそれぞれのシリーズと、彼の人生のマイルストーンかのようにそびえる《アブストラクト・ペインティング》をはじめとした傑作の数々。そして画家として、ひいてはひとりのドイツ人として、絵画を通してその歴史認識と向き合ったひとつの帰着点とも言うべき《ビルケナウ》(2014)。たしかにその在り方は日本で行われる回顧展として、これ以上ない姿だろう。いっぽうでその整頓された作品群から、総体として浮かび上がるリヒター像をはっきりと掴むことは、難しい。私たちはこの展覧会で何を見るのだろう?
リヒターは、どこまでも「親切な」画家であるように思う。具象と抽象を自在に行き来し、それらの表現を高い技術を以って長きに渡り提示し続ける様は、端的に言ってわかりやすい。リヒターが美術業界の内にとどまらないような、多くの人からの人気を得るに至ったのも納得のできることだ。
そして、(その真意をぼかすことさえすれど)彼は手の内を明かすことを厭わない。私たちが向かい合うすべての作品は、彼が写真を描き映したと言えば完璧に描き写された形で、絵具の層を削り取ったと言えばキャンバス上にわかりやすく絵具の層の断面が見える形で表れる。作品は「彼の語り、意図した通りの形で」寸分違わずそこにあるようにすら感じる。それぞれのシリーズを以て狙い澄ましたように、絵画領域において次々に新たな達成を見せつけてきたその成果は、いまさら疑いようのないものだろう。
しかし同時に、鑑賞において彼の作品は非常に淡白なものにも感じられる。
キャンバスという画面上でなされる振る舞いというよりも、そこに到るための操作に作品の重きが置かれているような姿勢は、良くも悪くもコンポジションやモチーフへの興味を削ぎ、ディテールに目を向けさせることを阻む。作品上で、彼が語る以上のスペクタクルが起き得るようには、ときに思えないことがあるのだ。
私は、リヒターの作品が好きだ。「フォト・ペインティング」の擦られた刷毛の痕跡や、「アブストラクト・ペインティング」のキャンバスの端、濁った絵具溜まりに到るまで、絵画における原初の悦びを伝えてくれるようにすら思う。高校時代に出会ったそれは、現代美術という当時知りもしなかった領域の存在を知らしめてくれたことはおろか、絵画の可能性は未だ未知数であるのだとある種の輝きを与えてくれたような気さえした。
ただ、そんな自分でもリヒターの作品を実際にこの目で見る際にはどこか、あらかじめ用意されたチェックシートの項目に一つひとつ丸をつけて確認するような、彼の操作が私の想定と相違ないかを探る点検じみた鑑賞を強いられることがある。
今回の展覧会でも同様に、第一に目についたのは、彼の操作の確かさと、強固さだった。
リヒターはまるで舞台を支配する照明家のように、絵画においてなすことのできる操作のスイッチを巧みに切り替える。私たちがはっきりと見ることができるのは、そのスイッチが「オン」であるか「オフ」であるかという単純な事実であり、それ以外の要素を見出すことはときに困難となる。
リヒターの作品が絵画表現においてこちらの期待を上回ることがない、といったことを言いたいわけではない。私たちが作品と相対するときに見ているのは、間違いなく彼が見せたかったすべてだろうし、それは感動に足り得るものだ。それ以上をそこに見出したいのなら、より深く彼を理解する必要がある。
《ビルケナウ》は、260×200cmという大型サイズのキャンバス4点からなる、「アブストラクト・ペインティング」の手法を用いて制作された抽象絵画作品だ。題として冠されたアウシュビッツ=ビルケナウ強制収容所の惨状を物語るかのように、黒と白を基調とした画面には赤や緑が侵食しながら入り混じり、暗く、痛烈な印象を与える。
リヒター作品の鑑賞はときに確認作業に陥ると書いたが、それは往々にして表層をなぞる行為に留まりかねない。《ビルケナウ》のような作品を相手取る際は、その最たる例になるだろう。
リヒターがその画業においてつねにひとりのドイツ人として、絵画の中で自国の歴史と向き合う方法を模索し続けてきたことは、広く知られている事実だ。この作品についても、ドイツの負の歴史そのものである単語が直接的に付けられたタイトルが雄弁に語るように、彼の作品について、そして彼自身について言及する際にドイツ史から切り離すことは叶わない。
《ビルケナウ》のその奥には、ゾンダーコマンド(収容所で死体処理に従事した特別労務員)のひとりによって撮影された、死体焼却場の写真を元にした下絵が描かれている。だが、ドイツ史における最重要事項とも言えるホロコーストと真正面から向き合う覚悟をしてなお、それをそのままに図像として表すことは、ついにはなされなかった。結果、リヒターは多層の絵具でその図像を覆い隠し、作品としては痕跡すら目に映らないように仕上げてしまったわけである。彼はその絵画に容易な補助線を引くことを選ばなかったのだ。
《ビルケナウ》が飾られている展示室の区画には、参照された写真そのものも(《ビルケナウ》との対応を示すよう4点が並んで)配置されており、それをある種のガイドラインとして作品を見ることは前提として共有されている。それでもあくまでそれは「ほのめかし」程度に機能するものであって、タイトルが意味するもの以上のことは、作品の表面から読み取ることができないということを、何より考えなくてはならない。
もちろん、作家の行いたかった意図そのままに作品を受け取れだとか、あるがままを鑑賞しろだとか、そういったことではまったくない。ただ、彼が絵画において何をして、そして何をしなかったか。それだけは忘れないでいたいとも思う。芸術において「見ること」をとらえ続けようとした画家の、その所業である。彼が絵画において行わなかったことも、彼のなしたすべての内のひとつだ。
さて、本展覧会のラスト、縦長の展示室のその奥に飾られているのは、2021年に制作されたまさに近作と言える一連のドローイング作品だ。油彩画を描かなくなって以降の作品でもあるそれは、グラファイトによる特有の濃淡表現や紙の上を自在に駆け巡る線描から、「アブストラクト・ペインティング」や「フォト・ペインティング」などでははっきりと表出しなかったような、もっと「純な」絵画的な欲求をも感じ取ることができる。
「オン」と「オフ」とが明瞭には存在しないそのドローイングの画面上には、操作のスイッチを巧みに切り替え、絵画史を照らす照明家としてのリヒターはなりを潜めているようにも見える。「現在の」リヒターがいるのは、ひょっとするとまた別の場所であるのかもしれない。それでも、彼のこれまでの60年がそうであったように、絵画の果たすべき役割、そして何より「見ること」への飽くなき探求は、最後まできっと変わることがないのだろうとも思う。彼のすべてを真に受け取ることができたかは、定かではない。それでも私たちは彼以後の、明日の絵画を夢想しなくてはならない。
志賀玲太
志賀玲太