今から約1世紀前のパリ、セーヌ川沿いの歩道にて撮影された一枚の写真(左)。まるでパステル画のような風合いで、風景が印画紙に滲んでいる。同じ方向を見すえて会話を交わす三人の婦人と紳士。何を話し込んでいるのだろう。向こう側にはセーヌが流れている。つぶらな瞳の白馬が、手綱を持った主人を待っているのか、行儀よく立っている姿が愛らしい。さりげなく誘惑的で、ロマンチックな一枚。撮影者は若かりし日の福原信三である。
福原信三は、この写真撮影の数年後、化粧品メーカー、資生堂の初代社長となった人物、さらに言えば、資生堂という企業イメージの発明者、仕掛け人である。そして、戦前の日本を代表する写真家としても知られる。
世田谷美術館で開催の「福原信三と美術と資生堂展」は、いわば“資生堂誕生物語展”と言い換えることもできるだろう。福原信三の写真作品や資生堂誕生に纏わる美術品、当時から現在までの商品パッケージや広告が時系列で展示されている。物語の主人公はむろん福原信三だ。
信三は18世紀末、東京・銀座で日本初の西洋調剤薬局として創業した資生堂薬局の三男に生まれた。幼い頃から画家に絵画を習うほど芸術に興味深く、20代の頃父の勧めで薬学の勉強のため欧米へ留学。留学先では薬学の傍ら、修行中の画家・川島理一郎や藤田嗣治らと交流し、自身は写真による表現を模索した。
帰国後の1915年、父から薬局を引き継いだ信三は、事業の中核を化粧品事業へと移す。翌年には“意匠部”という新部門を設立。ポスタ-や新聞、雑誌広告の制作、パッケ-ジデザイン、店舗設計を扱う専門部門だ。デザイナーに川島理一郎ら友人の若手作家を迎え、当時のパリの流行アール・ヌーボーを基調とするデザインを採用した。これは後に「資生堂調」と呼ばれるデザインへ発展するが、信三はこうして意匠部を伴い、独自の美的センスによって資生堂の基盤を作り上げたのだった。
わざわざ意匠部が作られた理由、そこには信三の経営者としての狙いがあったからに他ならない。留学時代から企業におけるデザインの重要性を認識していた信三は、意匠部が手掛けるデザインによって、資生堂の企業イメージを世にアピールしようと試みたのである。信三が打ち出した資生堂のイメージ、それは“リッチでスマートでモダンで”というものだった。
こうした資生堂誕生物語を目の当たりにしながら、私も自分の中に自ずと抱いてきた資生堂のイメージを思い返してみる。資生堂のイメージ、それは・・・思わずハッとさせられるほどの美女が登場するCMや広告のイメージ、ハイセンスな商品パッケージのイメージ、フルーツパーラー、ギャラリー、花椿・・・。色々と浮かんでくるが、実は其処此処に信三のセンスが散りばめられていたように感じられてくる。現在と、信三の生きた時代との点と点が線で結ばれ、信三の美意識が、およそ100年経った今もまったく古めかしさを匂わせずに斬新に映る。
今再び、留学時代に信三が撮ったあの一枚の写真、その“さりげなく誘惑的でロマンチックな”感じがずべての前触れだったことを想像すると、余計にわくわくさせられてこないだろうか。