公開日:2024年11月14日

ベーコンはどのようにポートレイトに挑戦したのか?「フランシス・ベーコン:人間存在」(ナショナル・ポートレイト・ギャラリー、ロンドン)レポート(文:伊藤結希)

フランシス・ベーコンのポートレイトに着目した展示「人間存在(英:Francis Bacon: Human Presence)」が満を持してロンドンにある肖像画専門の美術館ナショナル・ポートレイト・ギャラリーにて開幕。2025年1月19日まで。

会場風景より、《自画像のための三習作》(1980)  撮影:筆者

みどころ

20世紀イギリス美術の代表的な画家であるフランシス・ベーコンにまつわるポートレイトに着目した回顧展「フランシス・ベーコン:人間存在(Francis Bacon: Human Presence)」がイギリス・ロンドンのナショナル・ポートレイト・ギャラリー(以下、NPG)にて始まった。会期は10月10日〜2025年1月19日

本展は、ベーコンが人物像を描き始めた1940年代後半からキャリア末期の80年代までをポートレイトというジャンルを切り口に概観することで、被写体への関心をどのように深め、そのアプローチをどのように変革していったかに焦点を当てるものである。初期に描かれた匿名性の高い人物像から、フィンセント・ファン・ゴッホディエゴ・ベラスケスなど巨匠が描いた肖像画のオマージュ、そして、ベーコンの友人や恋人たちの写真をもとに描かれた絵画へと、彼の画業を緩やかな時系列順に辿ってゆく。

中規模の展示室のスケールに対して、いささか野心的なテーマであることは否めない。しかしながら、とくに最終展示室に関して、ベーコンのポートレイトを人物別に展示を行うというのは、ありそうでなかったアイデアだ。人物別で見ることによって、どんなに歪められていても、描かれた人物それぞれに容姿の一貫性があること、個々人の唯一無二性を認めることができる点など、ベーコンの描く作品が持つ肖像画としての強度を再認識させられた。

また、従来の回顧展で光が当たることが少なかったベーコンの異性の友人(イザベル・ローソーン、ヘンリエッタ・モラエス、ミュリエル・ベルチャー)を「ポートレイト」というテーマの懐の広さによって大きく取り上げることを可能にしたのも白眉の功績だろう。

ポートレイトの出現

インテリアデザイナーとして頭角を表した後、オーストラリア人のアーティスト、ロイド・メーストルに師事しシュールレアリスティックな絵画を制作していたベーコンだが、1940年代後半から人物像を描くようになる。本展ではこの人物像の出現を、その後生涯続くポートレイト制作の出発点と位置付けている。

ベーコンと聞いたときに誰もがイメージする絵画、すなわち透明の檻に閉じ込められ、悲痛な叫び声を上げる人物は、ベーコンのキャリア初期を象徴する作品だ。

会場風景より、《肖像画のための習作》(1952) 撮影:筆者

外見を超えて

1950年代初頭からベーコンは、匿名性の高い人物像と並行して友人や恋人など、より身近な人物をモデルに肖像画を描くようになる。

会場風景 撮影:筆者

キャンバスの裏地を大胆に残した《風景の中の人物の習作》は、草が生い茂る広大な大地の中央で両膝を抱えて小さく座り込んでいる男性を描いている。この人物は当時のベーコンの恋人のピーター・レイシーがモデルになっていると言われているが、ここでは識別可能な顔を描くという肖像画の暗黙の了解を破り、外見だけでない何かをとらえようとするベーコンの試行錯誤が始まっていることが窺える。

会場風景より、《風景の中の人物の習作》(1952) 撮影:筆者

伝統的な肖像画は室内を背景に描かれるものも多いが、ベーコンは「家庭的な雰囲気」を嫌い、きまって曖昧な環境に孤立する人物を描いた。ベーコンのパトロンであったリサ・セインズベリーの肖像は、この時期の典型的なスタイルだといえるだろう。暗闇から浮かび上がるリサは亡霊のように描かれ、具体的な背景を持たない。耳や髪など一部のパーツは抽象的でありながら、顔つきや雰囲気などをうまく掴んでいる。

彼女はベーコンにとって初めての女性モデルであるが、1959年以降モデルを目の前に絵を描くことはほとんどなくなる。ベーコンは、スタジオでモデルに座ってもらう旧来的な方法に加え、写真を用いて知人の肖像画を制作する方法を模索していた。

会場風景より、《リサの肖像のためのスケッチ》(1955) 撮影:筆者

インスピレーションと模倣

続く、1950年代後半〜60年代前半のセクションでは、ディエゴ・ベラスケスやフィンセント・ファン・ゴッホなど、巨匠が残した肖像画の大型のオマージュ作品が並ぶ。

会場風景より、左は《肖像の習作(と二羽のふくろう)》(1963)、右は《教皇の習作Ⅰ》(1961) 撮影:筆者

ベーコンはベラスケスによる《教皇インノケンティウス10世の肖像》(1649〜50)に夢中になって繰り返し描き続けていたことで有名だが、驚くべきことにベーコンが参照していたのはモノクロの図版で、実物を見に行くことは一度もなかった。

会場風景より、ベーコンが実際に参照したベラスケスの図版 撮影:筆者

戦時中に消失したヴァン・ゴッホの《タラスコンへの道を行く画家》(1888)もまた、ベーコンが熱心に参照した絵画だ。青と黒で覆われた50年代から一変して、三原色を用いたカラフルな色彩と荒々しく絵具の物質性を強調した筆致は、明らかに技術的な過渡期を示している。

ヴァン・ゴッホシリーズ6枚の連作のうち、以下の2枚が展示された。

会場風景より、《ヴァン・ゴッホの肖像のための習作IV》(1957) 撮影:筆者
会場風景より、《ヴァン・ゴッホの肖像のための習作VI》(1957) 撮影:筆者

フランシス・ベーコンのポートレイト写真

NPGのコレクションから、プロの写真家が撮影したベーコンのポートレイト写真が一堂に会する箸休めのセクションも。ベーコンが制作した肖像画のみならず、ベーコンが被写体となったポートレイトをもカバーできるのは、ポートレイトを専門とするこの美術館ならではといえよう。

会場風景 撮影:筆者

友人と恋人たちの肖像画

そして、本展最大のみどころは最終展示室にある。自画像、3人の恋人(ピーター・レイシー、ジョージ・ダイア、ジョン・エドワーズ)、4人の友人(ルシアン・フロイド、イザベル・ローソーン、ミュリエル・ベルチャー、ヘンリエッタ・モラエス)が人物別に所狭しと展示される。

60〜70年代の作品がメインでありながら、50年代後半以降の幅広い年代の作品が含まれており、ややトリッキーな構成になっている。

会場風景より、中央は《自画像》(1973) 撮影:筆者

ベーコンにしては珍しい横位置の作品《眠る人物》は、当時の恋人ピーター・レイシーとタンジールで過ごした夏の記憶から制作されたもの。淡くムラのある背景と絵の具の物質感が強く残る裸体に、穏やかな表情で眠る姿が特徴的だ。

会場風景より、《眠る人物》(1959) 撮影:筆者

1963年にソーホーのゲイバーで出会ったジョージ・ダイア。ベーコンは生前もダイアの死後も、彼の肖像画を執拗に描き続けた。

会場風景より、左は《ジョージ・ダイアの肖像の三習作》(1964)、右は《鏡の中のジョージダイアの肖像》(1968) 撮影:筆者

なかでも、1971年のパリでベーコンの回顧展が開かれる2日前、ダイアがホテルの浴室で酒とドラッグの過剰摂取により死亡した事件を題材に、ベーコンがダイアの死と向き合った《トリプティック5月-6月 1973年》(1973)は、本展示の目玉ともいえる傑作だ。

会場風景より、《トリプティック5月―6月 1973年》(1973) 撮影:筆者

ベーコンの晩年の恋人だったジョン・エドワーズ。キャリア後期に使い始めたエアゾールスプレーを用いた柔らかな肉体の表現と無機質で平坦な背景のコントラストは、ピーター・レイシーを描いた《眠る人物》と比較すれば、技術面での変化も一目瞭然である。

会場風景より、《ジョン・エドワーズの肖像》(1988) 撮影:筆者

画家でベーコンの友人だったルシアン・フロイド。フロイドもまた、ベーコンと並ぶ戦後イギリスを代表する具象画家であるが、そのアプローチの仕方は正反対だった。フロイドは生身のモデルの人間を元に制作を進めたが、この頃のベーコンはすでに写真から絵画を発展させる方法に完全に切り替えていた。

会場風景より、左は《ルシアン・フロイドの肖像の習作》(1964)、右は《ルシアン・フロイドの肖像の三習作》(1964) 撮影:筆者

ベーコンが実際の絵画制作で参照したモデルたちのポートレイト写真も合わせて展示されており、実際の肖像画と見比べることができる。

会場風景 撮影:筆者
会場風景 撮影:筆者

同じく、画家でベーコンの友人だったイザベル・ローソーン。数年前にまとまった研究書が初めて出版され、彼女の芸術家としての認知度も高まってきている。ここでは、ベーコンがしばしば用いたトリプティック形式ではなく、あえてひとつの画面に3人のローソーンを描かれたイレギュラーな肖像画を見ることができる。

会場風景より、左は《イザベル・ローソーンの三習作》(1964)、右は《イザベル・ローソーンの肖像》(1966) 撮影:筆者

ミュリエル・ベルチャーは、ベーコンを含む多くの芸術家が足繁く通っていたソーホーの会員制クラブのオーナー。同性愛が法的に禁止されていた当時のイギリスにおいて、レズビアンとしてクィアでボヘミアンな環境を提供した立役者でもある。

会場風景より、《ミュリエル・ベルチャーの三習作》(1966) 撮影:筆者

1940年代後半にソーホーで出会ったヘンリエッタ・モラエス。ベーコンは、プロの写真家に撮影してもらったベッドに横たわるモラエスのヌード写真をもとに、何枚もの作品を描いた。ヌードといえば男性ヌードが大半を占めるベーコンのキャリアにおいて、《ヘンリエッタ・モラエス》(1966)のように女性ヌードがポルノ的なポーズでエロティックに描かれていることは一考に値するだろう。

会場風景より、《ヘンリエッタ・モラエス》(1966) 撮影:筆者

ベーコンが足繁く通い、彼ら彼女らと実際に出会ったソーホーからほど近いNPGで世界中の美術館や個人蔵のコレクションから集められたベーコンの作品を見れるのは、なかなか粋な鑑賞体験であことは間違いない。

伊藤結希

いとう・ゆうき

伊藤結希

いとう・ゆうき

執筆/企画。東京都出身。多摩美術大学芸術学科卒業後、東京藝術大学大学院芸術学専攻美学研究分野修了。草間彌生美術館の学芸員を経て、現在はフリーランスで執筆や企画を行う。20世紀イギリス絵画を中心とした近現代美術を研究。