1982年に制作された映画『ワイルド・スタイル』が3月21日から日本で劇場公開される。舞台はアメリカのニューヨーク州サウス・ブロンクス。ヒップホップ・グラフィティ・ブレイクダンスという黒人文化が生活に根付いている様が描かれている。脚本のある、いわゆる虚構の世界を描いている映画だ。けれどキャストの属性がそのまま役になっている所は、ドキュメンタリーより踏み込んだ現実を描く効果にもなっている。
パブリック・エネミーはやっぱり良いし、日本のさんぴんCAMPとかLBNationにまでヒップホップ文化は受け継がれてるなと再確認しましたが、どんなにイケてるライムとグラフィティとダンスが相互作用で映画を彩ってるかとか、アンダーグラウンドカルチャーの源流がぎゅっと詰まってるの!!!等の説明は、他の記事でされると思うので、今回は違った視点を書く。
ヒップホップを扱うクラブのマネージャ、フェイドに「ヒップホップや(グラフィティ)ライターはもうそろそろ宣伝されてもいい時期だ」と言わせているように1980年代はグラフィティやヒップホップがメインストリームへと吸収(搾取?)される過渡期。
アメリカ映画ではあるが、白人は金と社会的地位を運ぶ、俺たちとは違う“別のモノ”として効果的に出てくるのみで、スパニッシュやアフリカンなどの黒人世界が中心。東洋人は出てこない。白人は彼らをアートシーンに紹介する役割りで、アートシーンは「カネになる」し「社会的地位が得られる」場。そこは別の世界として描かれているので敵対する場として描かれていない(人種の対立が無いという意味ではない)。2002年に制作されたエミネム主演の映画『エイト・マイル』で描かれる世界が、差別ではなく、地続きの果ての“別のもの”を消そうとし、歪みながら平坦になっていくさまと比べると、1982年の状況は興味深い。
白人の編集者バージニアは、“新しい文化”をアートシーンに紹介するために、黒人が住むブロンクスへ乗り込む。白人の珍しいダウンタウンで殺されそうになった事を「気に入った」り、“新しい文化”を白人社会へ持ち込む方法は、文字通りスペクタクルを楽しんでいる。バージニアは、主人公で伝説のグラフィックライターのゾロたちを美術関係者のパーティーに誘う。会場は富裕層が住む摩天楼を見渡す高層アパート。部屋は壁が見えないほどの抽象表現主義の巨大な絵画が埋め尽くされている。その壁が、グラフィティに変わることを予期させているかのように。
映画ではゾロに対立する“ユニオン(組合)”と名乗るグラフィティ・グループが存在する。彼らは下絵を持って、チームで作業する。「地域のためになる」し「それで自分たちが生活できたら嬉しい」から、有償で町や商店の壁画を請け負ったりしている。その発言だけを取り出せば、現在の若手芸術家のよう。
何が言いたいかと言うと、彼らは階級とは別な、何かが存在していることを知っている。差別は今よりあからさまな時代。しかしこの映画の中では、“別のモノ”が存在している、つまり区別することができている。別のモノが存在しているから、“新しい文化”(既にあるのに未開のものを自分たちが発見した開拓時代のような差別的な感覚だとしても)を紹介できる。世界の人たちはみんな同じように理解し合え、価値観も共有できると(そしてその価値観もできれば自分の方に歩み寄って欲しいと)信じて、信じていることすら気が付かずに、それが世界だと認識しつつあるのが現在だとすると、別なものは理解の名のもとに存在が許されず、その消失点にあるものは、正してあげるべき対象、つまり文化ではなく悪と名付けられてしまう。
そうなると、同じ世界に理解の向こう側も、“新しい文化”も無くなり、すべてが知っていること、つまり時間の中に取り込まれ、私たちは老いの中に存在しているように感じてしまう。もう今は新しい文化は生まれづらく、全ては何かの焼き増しばかり。アメリカもヒップホップも、日本も世界も、何もかも逆らえない時間の中での再生産ばかり。地面や海の向こう側には知らないものはなく、超えられないという意味で、時間の向こうの“あの頃”に知らなかった事(つまり源流)があって、今は何かの源流を展開してばかり。その感覚が錯覚だったとしても、あの頃は若かった。今は老いつつある。そんな感覚を再認識してしまう映画。
まだ若い“あの頃”がぎゅっと詰まった1983年公開の『ワイルド・スタイル』がやってくる。私たちは、どんな風に文化を作ったのかを俯瞰的に見ることで、“新しい文化”をつくる準備をしたい。
■映画「ワイルド・スタイル」公式ウェブサイト
http://www.uplink.co.jp/wildstyle/
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