フェスティバル/トーキョー(F/T12)が今年も開幕しました。11月25日まで国内外から招聘、公募などで集まった全23演目が、今秋リニューアルオープンした東京芸術劇場がある池袋を中心に、にしすがも創造舎ほかで開催されています。その他、批評家らを招いて公演に関するディスカッションを行う「F/Tダイアローグ」や本記事でも紹介する「F/Tモブ」など7つの企画も予定されています。世田谷パブリックシアターなど都内各所で開催される8つのプログラムとも連携し、都内は舞台芸術の祭典でにぎわっています。
今回は、オープニングを飾った『たった一人の中庭』(ジャン・ミシェル・ブリュイエール/LFKs [フランス])を取り上げます。元中学校だった「にしすがも創造舎」の建物から校庭までを使ったサイトスペシフィックな本作品は、一日6時間に渡る上演を好きな時間に訪れ、校舎内を歩き回る展覧会形式の作品です。こちらの上演はすでに終了しましたが、本記事の後半ではこれから観ることができる作品をピックアップして紹介します。
(執筆:前田愛実 [ゲストライター])
Review:『たった一人の中庭』ジャン・ミシェル・ブリュイエール/LFKs [フランス]
本作品は、不法滞在者やロマ族といわれるジプシーが暮らす移民キャンプをテーマに扱った展覧会形式の演劇である。入国を許されない移民が収容されるキャンプは、こちらでもあちらでもない境界線上にある。そのことが、虚構でも現実でもない境界を漂うことができる演劇という事象にも繋がる気がしてとても興味深い。会場となった元中学校のにしすがも創造舎をめいっぱい使ってのインスタレーションなのだが、鑑賞者は大通りに面した正門ではなく、また裏門でもなく、さらに奥の通用門からこそこそと入場する。裏階段を降りて校舎に入ると、授業で生徒たちが使用していた備品が残る各教室で“展示”が始まった。
最初の部屋(「ダンスフロア」)には白い布がはりめぐらされていた。そこには真っ白なムック(国民的着ぐるみ、ガチャピンの相方)に似たモンスターとでもいおうか、シュレッダーにかけられた紙くずでできたような衣装を頭からかぶった異形の人々が何人もいて、クラブっぽい音楽でノリノリに踊っている。白ばかり広がる空間に、肌色の皮膚に毛が生えた大きな肉片のような立体作品(何の身体部位でもない)が置かれ、壁面には赤黒い血を思わせる液体で描かれたアクションペインティング風の絵画が飾られている。だいぶ怖い。隣室に作られたミニシアターでは、アメリカのCBSで放映されていた著名なホームドラマ『The Young and the Restless』をリメイクしたビデオが上映されている。出演者は、先ほどの白い衣装を着た彼らだ。ある研究所に勤めるカップルが、子供を養子にするだのと言いあっているようで、人種が違うという比喩だろうか、腕に抱かれた赤ん坊は兎の剥製だ。でも登場するのが皆“ムック”なのだから、鑑賞者は固体識別ができない、ために話が見えない。誰が誰やら見分けがつかないとは、こんなにも文脈の理解を阻害するものなのか……。
理科実験室(「入浴する人々の部屋」)では、頭のない大勢の白い少年の彫像が、実習用のテーブルに設置された蛇口のついたシンクに腰をかけている。室内には電話がいくつも設置されていて、時折、電話が突然鳴り始め、あちこちの蛇口から勢いよく水が飛び出て、シンクの底を叩き、変拍子の音楽を奏でた。教卓に置かれる電話には兎の耳がついている。窓の外には小さな白いパンツがたくさん干されている。かわいいといえばかわいいモチーフにあふれた部屋なのだが、「考える」ということがない(なんせ頭がないのだから)空間にただよう無邪気さは量的な圧力も加わって、恐ろしさに転じると感じる。
家庭科室(「教唆する部屋」)には、もくもくとスモークがたちこめる。食器棚には無数の卵が整然と並べられ、それぞれの実習台に置かれた大鍋には卵がたくさん茹だっている。卵に刻印された数字は、生き物にナンバリングする残酷さを思わせて不穏だ。教室の奥では、女性がフランス国境警察が作成し、内部に留められていたという機密書類『異例の事態における外国人送還に関する指令』を読み上げているのだが、低く変換された女性の声が権威的かつ威圧的だ。
三階では、ミニチュアの白いキャンピングテントがたくさん並べられ、活動家によるラジオ演説が流れている。この階には更衣室があり、そこでは前出のモンスターの衣装を試着できる。「政治オフィス」と名付けられた部屋では、顔面を覆う未来的なデザインをした白いマスクと作業着に身をつつんだ人物らがインターネットを使って何かを毎日調査している。博士らしき人物はテレビ電話を使って、翻訳家と調査データの日本語訳を熟考していた。ある日には、元日本赤軍の最高指導者重信房子の顔写真と事件に関する走り書きが黒板に書かれていたそうだ。同じ部屋内には、ペインターもいて、毎日の調査情報を一日一枚、大きなバナーに手描きで書き起している。革命的スローガンのような、しかし散文的でもありそれほど直球でもないテキストが描かれたバナーは校庭の野球ネットに随時掲示されていく。廊下を歩いていると窓からその校庭の様子が見渡せるのだが、グラウンドにはぽつりと一台、ジムの運動器具が据えられていて、そのまわりにはぐるりとロープが張られている。一定の時間になると白い服を着た男たちが収容中の移民とみられる人物を連れて現れ、彼らは収容者が運動する様子を監視しているようだ。
体育館へと移動すると、そこには大きなキャンピングテントが張られていた。広い内部には先ほど政治オフィスにいた人物たちと同じ白い衣装を着たSPや、医師、コック、デザイナー、清掃係などがおり、医療用ベッドには黒人の極めて細い初老の男性が横たわっている。壁面には彼の顔写真が大きく引き延ばして貼られており、名前、年齢、身長、体重、国籍などが刻印され、レントゲン写真もあり、まるで採取された生きる標本のようだ。ここには医療器具、調理台、掃除道具などが配置されており、黒人男性を強制送還するパフォーマンスが延々と行われているが、彼が暴力的に扱われるいうことはない。医療も施しているようだし、デザイナーは、彼のために拘束具や兎の着ぐるみ(兎は前出のとおり本作品に頻出するモチーフだ)、透明なビニール製の未来的なジャンプスーツなどをあつらえている。時折、グラハム・ナッシュ&デヴィッド・クロスビーの『イミグレーション・マン』がかかると、彼らはみな踊りだす。ここで移民を表象するセネガル人の彼以外は、全員覆面だと気づいた。最初の部屋にいたモンスターも、オフィスにいた博士も、みな顔が見えない匿名の存在だ。
キャンピングテントの外には十数台もの真っ白な空の電動ベッドが一列に並んでいて、ときおり順番に上下したり、リクライニングを倒したりして、無機質なダンスを踊る。しかしそこに寝るのは、たった一人しかいない移民ではないだろう。むしろ白衣の人々ではないだろうか。ベッドの隣には、予測不可能なストロークが生まれるよう設計されたバネじかけの巨大な絵筆が設置されている。スポンジ状の筆先には血液のような赤黒い液体がたっぷり浸されていて、キャンバスにオートマチックなアクションペインティングをほどこす。最初の部屋に飾られていた絵画はここで製作されていたのだ。——しかしこの絵画を描いたのは誰だと言えるだろうか。スイッチを入れた人物なのだろうか? 絞首刑の執行人が匿名性をおびるように(日本の絞首刑のスイッチは、死刑執行人が特定されないように複数設置されている)、血みどろの絵画に手を染めた者を特定することは難しい。多数派の側に立ち、匿名性を獲得することで責任のありかを担保される時、人は罪の意識に苦しむことはないだろう。ここにいる大勢の白い人々はあきらかに多数派だ。しかし、その白さに個は塗りこめられ、白の強さに、実は個が踏みにじられているのではないか。マスの立場に溺れるその時、彼、彼女は、自分自身をゆるやかに殺しているのではないか。
あからさまに尊厳を奪われている移民がそこにいる。白衣の人々には苦悩の様子は見えない。けれども私にはむしろ彼らの方に、より不吉な未来がたくさん待ち構えているような気がしてならなかった。最初の部屋にあった、なんの器官も表象しない肉塊、頭のない彫像、無数のナンバーが刻印された卵も彼らの仲間だ。顔の見えなさ、個体識別の不可能性、この不特定多数感が与える暴力性が向かう先には、“あの”電動ベッドで医療器具やら管やらにつながれ、人格ではなく、ただの生体になりさがる未来がある。だからあの絵画を描いた血は、自我を失い、ただの肉塊となったときに、ナンバーをふられて屠殺場に送られる、飼いならされた“家畜”の血だという気がした。
いろいろなことがまだまだここで起こりそう、と後ろ髪ひかれる思いだったが、適度にあきらめて会場を去る。全てを目撃することはできないのだから、私がそこに滞在したあいだに出くわした出来事の断片が、私だけにデザインされた“中庭”なのだろう。一人で会場をめぐるうち、思考に沈んでどんどんひとりぼっちになる心地がしたが、でもそれも悪くない。私は“まだ”マスではなく、ひとりだと思える。まだ間に合う、という機会を与えられたと思った。
『たった一人の中庭』ジャン・ミシェル・ブリュイエール/LFKs
期間: 2012年10月27日(土)- 11月4日(日)
» http://www.tokyoartbeat.com/event/2012/F6E1
F/T後半戦には3.11に応答して描かれたイェリネク戯曲がいよいよ日本初上演
さて、F/Tは11月25日までまだまだ続く。オーストリア在住のノーベル賞作家、エルフリーデ・イェリネクは、2011年9月、東日本大震災と福島第一原発事故に応えて、自らのウェブサイトに戯曲『光のない。』を、そして一年と一日後の今年3月12日には、エピローグ化され忘却されつつある福島の状況に大きな疑問符を投げかけた『光のないⅡ』を書き下ろした。上演にあわせて白水社から出版された単行本を見てみると、彼女が渦中にあった日本人と同じく報道をつぶさに拾い、状況を追い続け、もくもくと、そして粘り強く思考し続けたことが分かる。今回、独特の手並みで言葉を吟味しつくす三浦基(地点)と、『個室都市』シリーズを始め、体験型インスタレーション作品で既存の演劇の枠組みを超える試みを展開してきた高山明(Port B)の2名がすさまじい強度をもったそのテキストを上演する。イェリネク作品は難解で有名なのだが、これらの作品は、あの時、日本にいた私たちだからこそ、共感できるところがあるのではないだろうか。
『光のないⅡ』Port B
期間: 2012年11月10日(土)~ 11月24日(土)
※11月11日(日)、11月20日(火)は休演
» http://www.tokyoartbeat.com/event/2012/442B『光のない。』
期間: 2012年11月16日(金)- 11月18日(日)
» http://www.tokyoartbeat.com/event/2012/FFFC
松田正隆率いるマレビトの会による『アンティゴネーへの旅の記録とその上演』は、ある劇団がギリシャ悲劇の『アンティゴネー』を福島で上演するというエピソードをもとに、SNSやブログといったインターネット上のメディアにあふれる虚構と現実から、いかに我々が実体に対峙し、現在を語ることができるかを問う作品だという。実際に、すでに夏から福島を始めとするツアーを開始しており、ウェブ上のブログやTwitterではその様子がうかがえるそうだ。F/Tで上演する本作はその再現というスタイルをとり、ウェブ上と劇場での二段構えの上演というユニークな形態を試みる。
『アンティゴネーへの旅の記録とその上演』マレビトの会
期間: 2012年11月15日(木)- 11月18日(日)
» http://www.tokyoartbeat.com/event/2012/E598
世界のダンスシーンを牽引する勅使川原三郎による『DAH-DAH-SKO-DAH-DAH』の再演も見逃せない。本作は、宮沢賢治の『春と修羅』に納められた「原体剣舞連」からインスピレーションをうけた作品だ。題材となった原体剣舞とは、岩手県江刺市の集落に伝わる稚児による剣舞であり、死者を迎え入れる意味あいがあるそうだ。初演の1991年から実に21年を経た今、勅使川原がこの作品をどう踊るのか期待したい。
『DAH-DAH-SKO-DAH-DAH』
2012年11月23日(金)- 11月25日(日)
» http://www.tokyoartbeat.com/event/2012/3D50
F/Tではメインの主催演目の他にも、若手の公募プログラムやシンポジウム、関連の映像上映、フリーペーパーの発行など多彩なプログラムが展開されている。また今年初の試みとして、「F/Tモブ」と称して、5人の人気振付家によるフラッシュモブが毎週末行われている。フラッシュモブとはウェブサイトやSNSなどインターネット上で仲間を集い、広場や空港など公共の空間で突然踊りだしたり、歌ったり、フリーズしたりするという、不特定多数を観客に想定した、全世界で行われているパフォーマンスだ。偶然に彼らに出くわすのが一番正しく面白い鑑賞方法だと思われるが、共犯側にまわるのも楽しいはずだ。F/Tでは事前に振付を練習しパフォーマンスに参加できるよう特設サイトで動画を公開しているので、ぜひ色々な側面から最先端をいく舞台芸術の今を堪能してみてほしい。
ゲストライター: 前田愛実 英国ランカスター大学演劇学科修士課程修了。早稲田大学演劇博物館助手を経て、現在はたまに踊る演劇ライターとして、小劇場などの現代演劇とコンテンポラリーダンスを中心に雑誌やwebなどに書かせてもらってます。
写真提供: フェスティバル/トーキョー事務局実行委員会事務局、吉岡理恵(Tokyo Art Beat)