現代ほど“つながり”が簡易化した時代はない。SNSを介せば見ず知らずの人にも簡単にコンタクトが取れるし、長らく会っていない友人の近況だって逐一チェックできる。人と人が交わるために、わざわざ時間と手間を割いて直接会う必然性はなくなってきているのだ。
しかし、「人と人が会う面倒さを本当に捨てられるのか」と、長島確は立ち止まって考える。長島は、まだ日本では馴染みが薄い「ドラマトゥルク」というポジションから舞台芸術に携わり続けてきた人物であり、今年4月からフェスティバル/トーキョーの新ディレクターに就任が決まった。
多様なメディアが誕生し、世界中で政治の「劇場化」が叫ばれる今、舞台芸術の存在意義はどこにあるのだろうか。国内最大級の国際舞台芸術祭、フェスティバル/トーキョーが10周年を迎える今年、その意義を問い直してみたい。
ーー長島さんは「ドラマトゥルク」を名乗っていますが、まだドラマトゥルクを知らない人も多いと思います。ドラマトゥルクとはどのような職業なのか、教えていただけますか。
役割が多様で一言では言えないのですが、簡単に言えば演出家や振付家と組んで、一緒に作品をつくるパートナーです。演出家はいろいろな最終判断を行わなければいけないのですが、それゆえに孤独なポジションでもあります。そこで、ドラマトゥルクのように別のレンズから物事を見ている人間がいると、考えられる幅が大きく広がります。そのためにドラマトゥルクは演出家に付き添っているわけです。
ーー具体的にはどのように作品に関わるのですか。
いろいろなパターンがあるのですが、まず演出家やプロデューサーと一緒に作品を選んだり、コンセプトを決めるところからスタートするパターンがあります。とにかく対話を続けて、作品が決まるとリサーチをして、場合によっては稽古にもずっとつきっきりということもあります。経済効率は完全に無視した仕事ですね(笑)。
ーー長島さんは翻訳家からドラマトゥルクになったと伺っています。ドラマトゥルクになったきっかけを教えていただけますか。
大学院の頃にたまたま舞台字幕オペレーターのアルバイトをして、演劇と出会いました。実は、それまで演劇は苦手だったのですが、そのときに観たピーター・ブルックの作品が本当にすごくて、苦手だと思っていた演劇とは全然違い驚きました。
そして衝撃を受けると同時に、「出版されている翻訳ではこの演出はできない」とも痛感しました。つまり、翻訳の段階で演出的な判断や制限が含まれてしまっている。例えば、英語の「I」を「私」と訳すか「俺」と訳すかによって、キャスティングやイメージも変わってしまいます。
そこで僕は突然、現場の権利意識にめざめるわけです(笑)。演出家や俳優の自由はどこにあるんだ、と。台本の翻訳の仕方から考え直さなければいけないと思い、現場に入ってじっと稽古を見ていると、自分が訳した日本語が立ち上がってくる様子が見えてきて、自分が思っていなかった意味を俳優が発見する場面も目の当たりにしました。
翻訳者はそんな化学反応をもっとアシストできるはずだと思い、事前の翻訳から本番までずっと張り付いていたら、すごく大変で。「これは本当に翻訳者の仕事なのか?」と考えていると、ドイツから帰ってきた現代演劇の研究者の人とたまたま知り合う機会があり、「それはドラマトゥルクという仕事だ」と教えてもらったんです。
ーー今年2月、長島さんがフェスティバル/トーキョーの新ディレクターに就任することが発表されました。長島さんとフェスティバル/トーキョーとの関わりを教えていただけますか。
フェスティバル/トーキョーは、東京国際芸術祭(TIF)を前身としています。TIFはインディペンデントな芸術祭として始まり、それが2009年に東京都と組んで規模の大きなフェスティバルに変わりました。僕は2004年から当時の事務局長・市村作知雄さんと付き合いがあり、日本にドラマトゥルクを導入するためのシンポジウムにも参加しました。
その裏には、90年代から公共劇場が増え、プロデュース制が広がっていた、という背景があります。それまでは劇団単位でメンバーが集まって作品をつくっていたものが、公共劇場が企画ごとに人を集めて作品をつくるようになった。それによって交流が生まれ、おもしろいものが生まれる可能性もできたのですが、価値観が違う人たちを集めて短期間で形にするためには、誰かが大きな決定権を持たねばなりません。すると、演出家に決定権が集中することになります。それは必ずしも本人が望まないトップダウンで、演出家によっては疲弊していたはずです。
そのまま行くと、手堅いところで作品を形にするようになり、作品が小さくなってしまう。市村さんは、そんな危機感から創作体制を変えようと考え、ドラマトゥルクに注目したわけです。
ーーそこでなぜ、ドラマトゥルクに注目したのでしょうか。
当時、ドイツはベルリンの壁の崩壊後という社会情勢もあり、おもしろい現代演劇が次々と生まれていました。そして、その裏にはドラマトゥルクというポジションがあり、市村さんは日本にもドラマトゥルクが必要だと考えたのです。シンポジウム以降、僕はフェスティバルにもドラマトゥルクとして参加するようになりました。
ーーフェスティバル/トーキョーの意義についてはどのように捉えていましたか。
東京国際芸術祭の頃から市村さんが掲げていた理念に、「芸術は、政治とは別のドアを開けておかねばならない」というものがあります。例えば、911のテロの後、アラブ系のイメージが非常に悪くなってしまいました。そういうムードが出てきたときに、別のドアを開けておこうと、中東系の作品の特集を組んだのです。
一方、アメリカがイラク戦争を始めると、今度はアメリカのアーティストの肩身が狭くなってしまった。そこで、911以降に書かれたアメリカの戯曲の特集をやったこともあります。それが、政治とは別のドアを用意するということ。フェスティバル/トーキョーになって、相馬千秋さん(初代プログラム・ディレクター)の体制になっても、その理念は引き継がれてきました。そんな理念のもとに国際芸術祭を行うことに、僕自身もとても共感しているんです。
ーーそんな国際芸術祭のディレクターを自分自身が務めることについては、どのように受け取りましたか。
自分がディレクターになるというのは、また話が別ですよね。特にドラマトゥルクは、最終決定権を持ってはいけない存在です。最終決定の前に、いろいろな意見を言うけれど、最後に決定するのは演出家の大事な仕事。「もっともっと」と言い続けて、最後に責任を持ってOKを出すのが演出家です。
映画でも同じで、黒沢清さんも「監督の仕事はOKを出すことだけだ」と言っています。ドラマトゥルクは、演出家との間のその一線は絶対に尊重しなければなりません。最後のシュートは絶対に打たないポジションです。ですがディレクターとなると、決定権を持たないといけない。
ーードラマトゥルクである自分がフェスティバルのディレクターをやってよいのか、と。
逡巡はありました。ですが、ドラマトゥルクだからできるかもしれない、という考えもありました。これから一緒にやっていく共同ディレクターの河合千佳さんもそうですが、僕たちはアーティストではない。そして、アーティストでないことには、意味があると思います。これはとてもポジティブな意味で言うのですが、アーティストというのは基本的に一つのことしかできない人。その徹底した狭さ、尖り方こそが強みであり、ジェネラリストになっては意味がないわけです。
それに対して、アーティストではない自分たちであれば、それとはまた違うフェスティバルづくりができるはずだと思っています。
ーー長島さんは、演劇は「面倒なメディア」だと仰っています。その面倒さとは、どのようなことなのでしょうか。
演劇は作り手も観客もその場にいないと成立しません。モノではなく、出来事なので、毎日起こさないといけません。さらに言うと、つくるプロセスも同様で、みんなが集まって稽古する必要もあります。
効率化という観点からは明らかに時代に逆行しているメディアです。しかし、だからこそ起こる化学反応がある。それを今、捨ててしまっていいのか。効率から溢れてしまうけれども、何かが起こるというメディアをどうキープすればいいのか。人と人が直接出会う面倒臭さを、捨てられるのか、という話ともつながっています。
ーーその面倒さゆえに、捨ててはならないメディアである、と。
はい、そして演劇は小さな社会のモデルです。複数の人間が集まって何かをつくる。そのプロセス次第では、いくらでもブラックな独裁体制になりえるし、だからこそ自治をどう確保するのか、という問題もあります。手間は死ぬほどかかるのだけど、いろいろな情報のツール・メディアが発達した時代だからこそ、試す意義はあります。
ーー政治が「劇場化」していると言われる現在において、あえて舞台芸術を行う意義とは何なのでしょうか。
その「劇場化」とはまったく別の文脈で、政治と演劇のことを考えています。ここしばらく、フランスのジャック・ランシエールという哲学者の本を一生懸命読んでいるのですが、その人が政治をこのように定義しています。政治とは、感覚で捉えられるものを分割し、分配すること。つまり五感で捉えられる世界に分割線を引いて、それを誰とどう分けるか、あるいは独占するのかを決める。政治は、そのようなことをやっているというのです。
それに対して、もうひとつ同じようなことをやっているものがあります。それが芸術です。芸術は、感覚で捉えられる世界に、政治とはまったく別の分割線を引き、別の仕方でシェアすることができる。また、線は分割するだけでなく、接続する線もあります。線をどこからどこにつなげるのか。これは、先ほどのドアの話ともつながってきますね。
とくに演劇は、フィクションを使って、まさにこのようなことをやっているんです。フィクションを通せば、一時的にありえない線を引き、配分や接続を一瞬でも変えることができる。分割と配分について作品内で問うこともできるし、お客さんと体験をシェアすることもできます。
これは今の社会だからこそ重要なことだと思っています。すぐに答えが出るわけではないのですが、“考える”ということ自体が重要。考えることを止めてしまうのが、今は一番まずいですよね。
ーー最後に、これからのフェスティバル/トーキョーの展望を聞かせていただけますか。
パフォーミングアーツの大きな国際芸術祭を行うという初期のミッションは、既に果たされました。今はまた状況が違ってきており、芸術祭が乱立する時代にあります。改めて、今なおフェスティバルをやる意味はどこにあるのか。フェスティバルの再定義が必要な時期が来ています。
なおかつ、一種の奇妙な「全国区」で「メタ日本」とも言える東京がどのような場所なのかも考えないといけません。東京の人口は今も増え続けているのですが、人口が今も増えていること自体、先進的だと言えるのか、むしろ遅れているのではないか。
ーー人口が増えるのは時代遅れ? どういうことなのでしょうか。
例えば、コミュニティデザインの山崎亮さんが書いていますが、島根県の隠岐の島にある海士町は過疎化が急激に進む中で、まちおこしに成功しました。島根県は高齢化が全国平均の10年先を行っていて、かつ海士町の高齢化は島根県平均のさらに15年先を行っていたそうです。そのことを日本の最先端と捉えて引き受けることから始めたわけです。いま改めて、日本の中で、アジアの中で、じゃあ東京はどういう状況なの、ということを考える時期に来ています。
ーー今後は芸術祭のあり方、そして東京のあり方を再定義していくということですね。
フェスティバル/トーキョーは東京国際芸術祭の時代から、オルタナティブなドアを開けることを考えてきたフェスティバルです。商業的ではなく、あえてメジャーとは違うものを拾い上げようというアイデンティティを持っています。今年は体制の移行期で、本格的に変わっていくのは来年以降になりますが、そのアイデンティティは変えることなく、何にフォーカスしていくのかを考えています。2021年以降に向けて、アーティストもスタッフも観客も含め、若い世代が潰れずに育っていく道筋をつける責任があると思っています。
(Text: 玉田光史郎 Koushiro Tamada、Photo/Edit: Xin Tahara)
ウェブサイト:フェスティバル/トーキョー
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