公開日:2025年1月24日

山峰潤也の訃報に寄せて

美術業界の重要なプレーヤーであり、信頼すべき友人であった山峰潤也の突然の死を悼む

山峰潤也(右)と筆者、2024年ソウルにて

もう目を開くことない山峰潤也の顔を見て送り、1週間が経った。最初にいつ出会ったのか、お互いに記憶になかった。15年は経つのだろう。

この業界での貴重な同い年のプレーヤーでもあり、時に本気で諌めることのできる相手だった。

山峰とは去年も3月の香港、9月のソウル・光州でも、あえて待ち合わせをするまでもなくほぼ一緒に行動をしていた。美術館やフェア会場を巡り、パーティーのはしご、友人・知人を紹介し合い、深夜まで酒を酌み交わした。

思えば去年の山峰の誕生日も、取り立てて理由もなく2人で荒木町の小料理屋でともに膳を囲んだ。年末の忘年会では3時過ぎまで長居して、すでに階下の住人に騒音を咎められていたから小声での「健康診断行きなよ、よいお年を」が最後の言葉になった。

誰しも等しく迎える「死」であるとはいえ、こんな突然の別れを、友人・知人のみな誰も未だに受け入れられていない。共通の友人でもあった編集者・キュレーターの塚田有那が亡くなったのがほぼ1年前だったのだから、なおのこと周囲のショックも大きい。かく言う自分もそうだ。呆然とした胸の痛みだけが残り、1週間経ったいまも涙の一滴すら流れてこない。

Tokyo Art Beatがこの数年で成長してきたのも見てくれていた。酩酊してTABの編集者に「しんくんが幸せなら嬉しい」と絡んでいた、といつだか聞いていた。

みな悲嘆に暮れる葬儀のあいだ、なぜか直接山峰と関係のないことが頭に去来した。数年前に私がある大学の公開講座に呼ばれて登壇したあと参加者のフィードバックで、「アートだからと言って、そんなに特別な世界ではなく他の仕事でも一緒ですよ」と、嗜められたことがあった。どこかアートに携わることにおいて特権意識を抱いて仕事をしてきたのかもしれない、そしてその意識がはびこることがこの業界の発展を、かえって阻害しているのではないか――ここ数年そんな意識を持つようになった。今となってはあの饒舌さを勝手に想像して言うほかないが、山峰もそこに非常に自覚的だったように思う。

2024年香港にて

東京都写真美術館金沢21世紀美術館水戸芸術館現代美術ギャラリー。それぞれ性質の異なる美術館の学芸員を歴任し、ANB Tokyo、そしてNYAW inc.の設立。パブリックからプライベート、美術館からオルタナティブ・スペースまでキュレーターという立場で携わってきた。近年のアートが社会に「浸透」しつつある状況、マーケットの活況、そしてアート×ビジネスの盛り上がりにいたるまで、ここまで対応できるキュレーターは日本にはほかに見当たらなかった。そうはっきり言える。NYAWとしても取り組む「New Soil(新しい土壌づくり)」はまさに日の目を見ようとしていた。山峰自身からも、インディペンデントである、ほかの誰にもできないことをしている、という矜持を傍からひしひしと感じていた。

アートヒストリー、マーケット、労働環境にいたるまで、2人だけでなくアーティストやギャラリスト、キュレーターとも議論を重ねた。TABの急激な成長も業界関係者やコアなアートファンに限らない、幅広く受け入れられる「土壌」を長年培ってきたことにある、そう考えると首肯できる。そしてNYAWとTABもよりパートナーシップを深めていこう――その流れがぷつりと途切れてしまった。

山峰亡き2025年、そしてこれからの数十年。

いつも遠くから見つめられていると思いながら、残された「土壌」に芽吹く小さな目をはぐくむ、その使命を果たしていこう。

Xin Tahara

Xin Tahara

Tokyo Art Beat Brand Director。 アートフェアの事務局やギャラリースタッフなどを経て、2009年からTokyo Art Beatに参画。2020年から株式会社アートビート取締役。
Loading.................................................