2024年3月12日から5月12日にかけ、国立西洋美術館では初となる現代美術の展覧会「ここは未来のアーティストたちが眠る部屋となりえてきたか?―国立西洋美術館65年目の自問|現代美術家たちへの問いかけ」が行われる。
参加作家は飯山由貴、梅津庸一、遠藤麻衣、小沢剛、小田原のどか、坂本夏子、杉戸洋、鷹野隆大、竹村京、田中功起、辰野登恵子、エレナ・トゥタッチコワ、内藤礼、中林忠良、長島有里枝、パープルーム(梅津庸一+安藤裕美+續橋仁子+星川あさこ+わきもとさき)、布施琳太郎、松浦寿夫、ミヤギフトシ、ユアサエボシ、弓指寛治。日本の現代アートに興味があれば、少なからず耳にしたり作品を見たりしたことがあるアーティストたちが並んでいる。
しかし、いまなぜ西洋美術館で現代美術展なのか。1月22日の記者会見では、国立西洋美術館館長の田中正之と、本展を担当する主任研究員の新藤淳からその理由が語られた。後半では、本展参加アーティストの梅津庸一、小田原のどか、鷹野隆大を迎えたトークセッションの様子もお届けする。
企画展開催を発表してから、批判も含めて大きな反響があったと話すのは、田中正之。「これから話すことは記者発表にはそぐわない内容な気がする」という前置きで、本展の開催意義を次のように語った。
「近年、オルセー美術館、ナショナルギャラリーといった近代以前の作品を専門とする美術館で、現代作家の作品展示を盛んに行っています。それは現代の作品と所蔵作品を併置することでコレクション理解の地平を広げたり、現代美術を好きな層にも興味を持ってもらうことが目標で、ある意味今回の西洋美術館の企画も同じ文脈でとらえられるかもしれません。しかし、今回の企画展は副題にある通り、西洋美術を専門とする国立美術館が日本に存在する意味を、日本の現代美術との関わりのうえでとらえ直すことが目的です」。
また、哲学者テオドール・アドルノの言葉「美術館というものは代々の美術作品の墓所のようなものだ」を引き合いに出した田中。「国立西洋美術館が芸術作品の墓場とならないよう活動するのが重要であり、本展はそれに関わるということ。そして、大きな自問とは、同館やコレクションが現代の表現とどのように関係を結び、いまの時代の作品の登場や意味生成にどのような役割を果たしうるかという問い」であり、現代のアーティストが同館に向けて発した複数の声に耳を傾けることが重要だと強調した。
さらに田中は、美術史家ダグラス・クリンプのテキスト「美術館の廃墟に」の内容に触れ、「美術館とは、何かを覆い隠しつつ耳に心地いいストーリーを語ろうとする場であるが、その“覆い”がなんなのか、今回参加する作家はそれぞれの声で問題提起している」として、今回の参加作家は従来の美術館の在り方に揺さぶりをかける存在であると言い表した。
続いて、今回の企画を担当する国立西洋美術館主任学芸員の新藤淳は、同館の母体となっている松方コレクションは今後を担うアーティストのために築かれてきたことに触れ、ドイツの作家ノヴァーリスの以下のテキストを引用。
展示室は未来の世界が眠る部屋である。──未来の世界の歴史家、哲学者、そして芸術家はここに生まれ育ち──ここで自己形成し、この世界のために生きる。
新藤は「この言葉はアドルノの言葉と正反対の言葉に感じられるが、美術史では引かれてこなかった(参照・引用されなかった)。この言葉は“美術館は未来の世界が眠る部屋”だと読み替えられ、美術館で未来の芸術家が育っていくといような意味を持つ。死や過去ではなく未来について考えることは重要だと思います」と、墓場の対極にあるポジティブなイメージを打ち出した。
また新藤は、国立西洋美術館の収蔵品の核でもある松方コレクションは、じつは平和条約によって一時期はフランス政府の国有財産になり、8年をかけて寄贈返還されるまでの道のりには財界に加え、アーティストを中心とした民間の力があったことを主張。「そのことを美術館が強調してこなかったことは問題ではないか」と発言し、1955年に西洋画家だけではなく日本画家や工芸家、版画家ら600名が集まって開催されたチャリティ企画展「松方コレクション:国立美術館建設協賛展」について触れた。
今回開催される展覧会の冒頭「アーティストのために建った美術館?」の章では、上記のことに触れ、国立西洋美術館は「未来のアーティストたち」の制作活動に資するべく建ったのではなかったかということを、松方幸次郎や安井曾太郎の言葉を想起しつつ問いかける。当時の資料とともに、本展のために制作される杉戸洋のタイル作品《easel》を展示する。
各章は、次のような構成になる。
1章「ここはいかなる記憶の磁場となってきたか?」では、様々な時代や地域に生きた/生きるアーティストらの記憶群が同居し、それぞれの力学を交錯させあう磁場としての美術館の姿に着目。中林忠良、内藤礼、松浦寿夫らの作品を展示する。
2章「日本に『西洋美術館』があることをどう考えるか?」では、原則として「西洋美術」のみを蒐集・保存・展示せざるをえない機関である国立西洋美術館の在り方に揺さぶりをかけるべく、同館が所蔵する藤田嗣治の作品と小沢剛が2015年に制作した《帰ってきたペインターF》(森美術館所蔵)を併置。小田原のどかによる新作インスタレーションでは、地震が絶えない日本に建つ美術館に固有の課題がロダンの彫刻を横倒しにして展示することなどによって示され、さらにその「転倒」の様態に「水平社宣言」の起草者として知られる西光万吉の「転向」が重ねられることで、複雑な問題提起がなされるという。
3章「この美術館の可視/不可視のフレームはなにか?」では、ル・コルビュジエが基本設計した本館建築に多大な関心を寄せた布施琳太郎による新作を発表。田中功起は、常設展の絵画を車椅子や子供の目線に下げて展示すること、乳幼児向けの託児室を臨時で設けることなど様々な「提案」を行い、美術館が暗黙のうちに前提としている「鑑賞者」の取捨選択を批判的に浮き彫りにする。なお実際に、提案を受け入れるかたちで3月12日から5月12日までの期間において、企画展または常設展来場者を対象とした託児サービスが実施される。
4章「ここは多種の生/性の場となりうるか?」では、白人男性アーティストによる作品がほとんどを占める同館のコレクションを前提に、ミヤギフトシが新作映像作品を発表する。鷹野隆大はコレクションと自身の写真作品を“現代の平均的な居室”に併置し、長島有里枝は、2023年に名古屋で行った「ケアの学校」の展示を改変しつつ当館へと持ち込む。さらに飯山由貴は、松方コレクションの成りたちを読み解き、松方幸次郎が想定した「アーティスト」とはどういうものかを批判的に問う。そして、弓指寛治は膨大な絵画を通して、路上生活者をはじめ同館がこれまで見つめてこなかった上野公園がはらむ問題を多角的に照らす。
5章「ここは作品たちが生きる場か?」では、竹村京が、クロード・モネ《睡蓮、柳の反映》の欠損部分を絹糸で想像的に補完する作品を制作。エレナ・トゥタッチコワは、国立西洋美術館の展示室を迷い歩いた経験をもとにした映像作品などを発表。
6章「あなたたちはなぜ、過去の記憶を生き直そうとするのか?」では、梅津庸一が自身の身体像をラファエル・コランの《フロレアル(花月)》のなかに投入した一連の自画像を出品。また、梅津が主宰するアーティスト・コレクティヴ「パープルーム」からも、安藤裕美らメンバーの一員が参加。また、遠藤麻衣は、同館所蔵するエドヴァルド・ムンクのリトグラフ連作の世界観にインスピレーションを得たパフォーマンス映像を発表し、ユアサエボシは、当館の収蔵作家でもあるサム・フランシスの活動を1950・60年代に知っていたという「設定」のもと、自身の抽象画を併置する。
最終章の7章「未知なる布置をもとめて」では、国立西洋美術館のコレクションがいまを生きるアーティストをどのように触発してきたか/しうるかではなく、いかに拮抗するのかを見る。杉戸洋、梅津庸一、坂本夏子、2014年に亡くなった辰野登恵子らの作品を、クロード・モネ、ポール・ シニャック、ジャクソン・ポロックらの絵画と同じ空間に並べるという。
こうして内容を列挙するだけでも、アーティストから国立西洋美術館に対する問い、あるいは初の試みがいくつもあることがわかるだろう。
会見の後半では、出品作家の梅津庸一、小田原のどか、鷹野隆大に新藤を交えたトークイベントが行われた。約30分におよぶトークの内容は大変濃いもので、その一部をお届けしたい。
まず梅津は、本展に東京藝術大学関係者が多いことを問題視するともに、本展では「新作を発表しない代わりにSNSや論考で問題提起を行いたい」と発言。また、出品作家はいわゆる“日本を代表する王道の現代アーティスト”ではなく、企画担当の新藤の個人史的な側面を反映して選ばれていることがわかるため、「そうしたパーソナルな部分を開陳してほしい」との投げかけもあった。
「物故作家の絵を上下反転にしたら批判が出ると思います。では、ロダンを転倒させたらどうかという挑発的な思いもあります」と話すのは小田原だ。1023年の関東大震災では多くの作家が被災したいっぽう、ロダンの彫刻《青銅時代》も損傷し、作家によって修復されたという歴史を持つ。今回の展示方法には、彫刻には様々な姿と変遷があることや、「地震が度々起こる日本における彫刻の在り方を見せたかった」と話す。また、これまでの歴史で何が不可視化されたかを注視し、国立西洋美術館では初となる掛け軸の展示も行うという。
鷹野は「現代美術を見ることは難しい」と前置きし、美術作品とどのように付き合っていけるか考えたうえで、“現代の平均的な居室”に美術作品を置くという今回の展示の構想に至ったと説明した。また、権威を否定することの危うさを懸念。美術館は過去の保管庫であり、それと現代の対話の積み重ねで新しい未来ができると強調した。これに対し新藤は、「過去というものは再解釈できることができるし、過去を裏切ることで重んじることができる。本展ではそういう在り方を多様に示していきたい」として、否定とは異なるニュアンスを打ち出した。
今回の参加作家には、作品制作に加えテキストを執筆する、いわゆる「論客系のアーティスト」が多い。それについて新藤は「率直に、西美についてどう思う?と聞いてみたかった」と明かす。また、2010年代は現代美術のシーンでオルタナティブな場が求められたが、近年はその傾向が薄れている状況に触れ、「今回の展覧会はオルタナティブな活動をしてきたアーティストを集めてきたと思っています。そういう意味では、今回の場は焼け野原になっている今日の状況で、言説の場と出来事が起こってほしい」として、西美が新たな言説の場、転換点となることへの期待をうかがわせた。
3月23日には梅津庸一、小田原のどか、布施琳太郎、松浦寿夫の公開座談会、4月20日には館長の田中による講演会、5月11日は研究員新藤による講演会などいくつかの関連イベントも行われる。
国立西洋美術館の存在を様々なアーティスト視点から問い直すと同時に、日本の現代美術シーンにおけるひとつの嚆矢となるであろう本展。ではそのとき、鑑賞者はどのように関わることができるのだろうか? Tokyo Art Beatでも長期にわたって読者の人気イベントにランクインしている本展には多くの期待が寄せられていることがわかるが、結節点で何が起きるのかを楽しみにしたい。
野路千晶(編集部)
野路千晶(編集部)