公開日:2013年10月22日

梅沢和木「エクストリームAR画像コア」インタビュー

「アナログとデジタルの狭間を探る」

展覧会風景
展覧会風景

■簡単にこれまでの活動について教えて下さい。

プロフィールではよく「ネット上の画像を集め再構築し、アナログとデジタル、現実と虚構の境目を探る作品を制作、発表している。」と書いています。基本的にはその通りで、美大を卒業した後に、主に現代美術の場で作品の発表を続けてきました。

■問題になることもありましたが、梅沢さんは必ず「カオス*ラウンジ所属」とプロフィールに書かれています。カオス*ラウンジとしての活動と個人としての活動についてどのように意識されていますか?

改めて問うまでもなく、自分が何に所属しているかを記すことは当たり前のことです。そして、CASHIとカオス*ラウンジに所属しているということは自分にとってとても重要です。
カオス*ラウンジの活動では自分ひとりではできない作品がどんどん作れます。個人の活動では梅沢和木という人間の脳を通した作品がある程度のまとまりをもった画像として作れますが、カオス*ラウンジの活動では自分の枠を越えた作品づくりや空間へのアプローチができる感触があります。

■一般的にあまりアニメなどに関心がないような方も、梅沢さんの作品をじっくり見られていく、ということを聞きました。この点について何か意識されていることはありますか?

あるジャンルについて知らない人にでもその魅力が伝わる、というのが作品の力を示す一つの指標だと考えています。
とあるキャラクターの画像があるとして、そこには様々な情報が背後に潜んでいます。そのキャラクターが登場している物語がどういう話なのか、髪の毛の色が何色なのか、その色が何に由来しているのか、そのキャラクターを好きな人ほど詳しく情報を追えます。しかし逆に言うと、キャラクターに限らずともその対象について知っているということは、知らないという状態で見ることができないことでもあります。特に、作者である自分は配置している色や形、輪郭などパーツも含めて情報を把握しきっているため、情報量という意味では一番深く認識できるのですが、それらの情報をまったく知らないまっさらな状態で作品を見ることはできません。それはむしろ今回の個展で僕のことまったく知らないでふらっと立ち寄った方にしか体験できない視点です。初めて見てくれる人に対して有用な要素が単純な色のきれいさであったり、見た目のインパクトだったりが重要なのかははっきりとはわかりませんが、自分が見れない視点で絵を見れる人の視点を想像しつつ、強度を維持できるようには意識して制作しています。

■今回の展示のコンセプトについて伺わせて下さい。

大きくは、今までの自分の作品をブラッシュアップしつつ、新しい技術を用いた自分の作品も見せるというコンセプトです。今までの自分の作品はネット上のカオスな、膨大なイメージを自分の中で分解、再構成し、絵画に落としこむというものが多かったです。絵画に落とし込まず、再構成したデジタルのイメージのまま見せることもいくつか試みたことはありますが、自分ができることは絵画のほうが多く、その力をまだ信じているのだと思います。
再構成したイメージを再びリアルの展示空間でデジタルに返す、そのひとつの答えとして今回のAR作品があります。印刷されたイメージにタブレットをかざすことで表示される映像は、解体と再構築を何度か繰り返します。その流れは、作品の構成するレイヤーがいくつかの種類に分類できることや、そもそもレイヤーによってイメージが構成されているそのこと自体を明らかにしてくれます。これらの構造は、すべて自分が作品を作る時に脳内で行っていることです。ネットで見る画像たちを収集し再構成し風景を作り、それをまた分解したり組み立てたり、その繰り返しで作品は出来ていきます。
絵画として提示するとその過程は見えなくなります。そのかわり、絵として、物としての強度が生まれます。絵画では出来ないことがAR作品では表現できる。当たり前のことですが、それは重要なことです。今回の個展では、新しい技術を用いたAR作品の強度と、今までの自分のやってきたような絵画作品の強度の、両方を見せるのが目的としてあります。

■今回は梅沢さんがご自身で撮影された震災のイメージを多用されています。特に震災で被害を受けた地域の写真の上に、梅沢さん特有のコラージュがほどこされている作品に感銘をうけました。さて、被害を受けた地域の写真はあらゆるものが津波で流されてしまったあとの荒廃した風景になっています。そこでは、ずっと向こうまで見渡せるようなパースペクティブが通ります。すると、梅沢さんが利用されている二次元の画像とは相いれない部分が生まれてくるのではないかと思うのですが、その点はどのように調停されているのでしょうか?

ありがとうございます。パースペクティブがあるから二次元の画像とは相容れないとは思いません。パースペクティブのある画像とパースペクティブのない画像が同時にたくさん溢れているのがネットではないでしょうか。絵画の上でそれらを同時に成立させることは、調停すると言うほど難しいことではないと思います。平面的な画像と立体的な画像、二次元的な画像と三次元的な画像、要素が相容れないからこそ組み合わせた時に違いが生まれます。それは、紫色と黄色を並べ配置してお互いを際立たせる補色の技法と同じくらい自明のことだと考えています。

iPadをかざして鑑賞する作品
iPadをかざして鑑賞する作品

■今回の展示での最大の関心事はAR3兄弟とのコラボレーションです。森美術館の『LOVE展』でもディスプレイを使った作品で参加されていました。紙などのリアルなメディアを使った作品との違いを、今回のコラボレーション作品の紹介も含めて聞かせて下さい。

乱暴に言ってしまうと、支持体が存在しないという点が紙など実在のメディアを使った作品との違いです。ディスプレイはデジタルの信号を反映してそのように発光している、それだけの危うい状態と言えます。タブレットにしろ、それは同じです。絵の具を乗せた紙やキャンバスは、それ自体が発光してイメージを伝えるディスプレイに比べて実在感があります。支持体に定着しているのですから当然です。デジタルのデータはそもそも消滅しやすい存在です。データとして消える、ということのみならずそれが記憶されているハードディスクもキャンバスに比べたら大変もろい、耐久年数の短い物です。そんな危うい存在だからこそむしろ人間の記憶の概念に似ている、とも考えられます。その考えが自分はけっこう好きで、今回AR三兄弟さんと一緒に作らせてもらった作品は、出来上がってみてみるとその感覚が表れているように思いました。
どういうことかと言うと、展示空間にはデジタルデータをプリントしたものが展示されているわけですが、それにiPadをかざすと画面の中で変化が起きる、この流れの中にも危うさがあります。例えばiPadを振り回したり、別の大きな絵柄を映したりしたら映像は流れません。システムの認識を邪魔することはいくらでもできる。そうやって動作のいたずらをしていると、iPadに表示されているAR作品のイメージが、斜めになったり表示が変になったりして、実在するプリントされている作品の感触からどんどんズレていくんですよね。それがむしろデジタルっぽかったりする。「画像」っぽいとも言えます。ARのジャギーがかかっているような質感や、その危うさも含めてすごく「画像」っぽい。画像度が高いと思います。「画像」は、そもそも「像」なので、実在がない。「存在」していないんです。この画像的質感の発見が、個人的には今回のコラボでの一番の発見で、今までの自分の制作でなかなか掴みたくて掴めなかった要素です。

iPad上で作品の「画像」が変化する
iPad上で作品の「画像」が変化する

■これまでのお答えの中で「画像」という言葉がたくさん出てきました。今回の展示のタイトルも含めて、梅沢さんは「画像」という言葉を多用されていますが、この言葉の意味についてもう少し詳しく説明して下さい。

最初の個展でも「画像」という言葉を使っていました。自分の中で意識して頻繁に使っています。英語で言うと単純に”image”なんですが、「画像」という日本語は”image”とも「イメージ」とも異なるニュアンスがあると思っています。インターネット上に大量に存在し増え続けているjpgやらgifやらpngのデータ達。これらは「画像」という言葉がニュアンスとしてとてもしっくりくる感覚が自分の中であります。サムネイル感とでもいいますか。「画」と「像」で分けて考えると「画像」は「映像」に言葉の構造として近いです。どちらも「像」なのですが、両者には静止画と動画というざっくりとした違いがあります。「映しだされる像」である「映像」はフィルムの映写機の感じが言葉に残っています。個人的には、アナログっぽさが言葉に残ってる印象があります。「画」というのも、漢字の意味としては映像のニュアンスも含んでいますが、一番の意味としては絵を描くという意味が含まれています。こちらもアナログなニュアンスですが、実際には「画像」も「映像」も、デジタルとアナログ両方の媒体を示して使われます。「画像」に関して言うならば、デジタル的な画像を意味する場合のほうが圧倒的に多いでしょう。絵筆で書いた絵という意味合いの漢字を含んでいながらも、デジタル的なイメージのあり方に親和性が高いという点で、「画像」はとても重要です。自分の作品の、アナログとデジタルの狭間を探るようなあり方ともリンクしています。

■今後はどのような活動を控えていらっしゃいますか?

「北加賀屋クロッシング2013 MOBILIS IN MOBILI -交錯する現在-」展(於:コーポ北加賀屋、10月4日 ~ 10月25日)(Kansai Art Beat情報ページ
作品を出品しています。

加えて、ゲンロンカフェのゲンロンスクールという枠で10月25日に講義をやらせてもらう予定です。
連続で8月と9月とそれぞれ行っており、三回連続の最後のまとめになる回です。
[ゲンロンスクール]カオス*ラウンジ『情報社会アート論 ――日本の「現代アート」は本当に「残念」なのか?』第3回(全3回) 
http://peatix.com/event/20647

12月1日からカオス*ラウンジの展示がある予定です。作品を出します。

■ありがとうございました。今後のさらなる活躍を楽しみにしています。

Taichi Hanafusa

Taichi Hanafusa

美術批評、キュレーター。1983年岡山県生まれ、慶応義塾大学総合政策学部卒業、東京大学大学院(文化資源学)修了。牛窓・亜細亜藝術交流祭・総合ディレクター、S-HOUSEミュージアム・アートディレクター。その他、108回の連続展示企画「失敗工房」、ネット番組「hanapusaTV」、飯盛希との批評家ユニット「東京不道徳批評」など、従来の美術批評家の枠にとどまらない多様な活動を展開。個人ウェブサイト:<a href="http://hanapusa.com/">hanapusa.com</a>