▶︎ 山下拓也の個展「マスコットたちとカニエ・ウェストとタコス男、他」が、2021年11月13日~12月12日にToken Art Center(東京)で開催された。山下はこれまで様々なマスコットキャラクターをモチーフとして作品に用いてきたが、本展ではオリンピック・パラリンピック東京大会の「ミライトワ」を取り上げ、サンプリングやループといったヒップホップ的な手法を用いて、そのイメージを加工、変容、増殖させる作品を発表。またラッパーのカニエ・ウェスト(イェ)のリリックを引用した木版画、アーティスト倉知朋之介と共同で制作したプロジェクション彫刻などを展示した。図録のため執筆された成相肇(東京国立近代美術館主任研究員)による本展レビューを、特別に掲載する。【Tokyo Art Beat】
幽霊 亡霊 あるいはゾンビといった 本来の肉体から遊離した存在 ないし非存在 にしばしば美術家や 美術批評家が 関心を持つのは 実体にこだわることなく 形而上的な思考を 推し進めるためなのだと思っていました。でも このごろ思うのは あれは 記号 とか 表象の 無根拠さ 実のところ何も根拠がないということ に対する不安 とか 恐怖に 根差しているんじゃないか。山とか裸婦とかを絵の具に置き換える 怒りとか愛情を形に現す そういうrepresent(レペゼン) を続けるうちに いずれ芸術家は そもそも 山とか裸婦とか 怒りとか愛情とか なんていうものがあるのかどうか 疑念を持つに至るんじゃないかと 思うんです。この輪郭線には なんの根拠もないんだな って。
山とか裸婦とかを 円筒 球 円錐 の形態素に還元する そうして世界の構造を 分析的に記述する という セザンヌの方法は 通俗的な還元論として 了解されやすい。それは誤解です。還元論は あくまで山とか裸婦とか が存在する ということを 疑わないことが前提になる けれども セザンヌの実践は 還元論 ではなく 関係論 でした。あらかじめ山とか裸婦とか が存在して 関係を作り出している ことを端から念頭に置かずに 関係があってはじめて 山とか裸婦とか が生じる のだと。はじめから 物としての対象があると 考えてしまうのは 錯視だと。事物に先立って 関係こそが存在する という理論だった。そうじゃないと その後 抽象芸術(この「抽象」という言葉自体が還元論的な語弊を呼びやすいことがやっかいです)が 現れることが 説明できなくなるでしょう。セザンヌにわずかに遅れて ソシュールが 理論化した言語学も この関係論でした。
言語 ひいては概念によって ぼくらは 勝手に 世界を分節している。世の中に ある とぼくらが思っているものは 実のところ それ自体で 存在 するわけではない。記号体系の規則において たまたま そう名付けられているだけ にすぎない。「(…)いかにも「犬」という言葉が指し示す動物があるように思われる。しかし、はたして「犬」という動物が言葉以前にはっきりと「狸」と区別されて(言葉が指し示す指向対象として)存在するのかどうか(…)日本語では「犬」と「狸」という二つの別の名前があるからこそ、私たちは犬と狸を区別できるんであって、まず先に犬と狸という別の存在があるわけじゃない」(*)。こういう関係の網 言語ゲームから 逃れようとする思考実験 の中で 幽霊や亡霊──批評言語の好みの言い方で シミュラクル といってもいい──が 呼び出される。
何かが何かをレペゼンする 看板とか パッケージとか あるいはcharacter(キャラ) といったものが 言語に輪をかけて 関係の網を 物象化の錯視を 強化し 念押しする。この世はコピーにあふれている とは言うけれど よく考えたら コピーのもとになっている 「本物」 というものが 実は最初からない としたら。まず本物が どこかにあって 偽物があふれている というのは 還元論そのもの であるわけです。その「本物」でさえ 互いに交換される 体系の上での 記号であり コピーでした。幽霊や亡霊というモティーフは この体系の 批判になり得ます。キッチュというのも 一種の亡霊みたいなものです。キッチュ=いかもの まがいもの に 対置される 真正性 には 本当は 根拠がない。
この関係の網と異なる 認識 言語に束縛されない幽霊の認識 を 提示する方法のひとつに 抽象芸術があるとして 一方では このコピーのみの網を お化け屋敷のようなシステムを 加速させて示す という方法もあります。山下拓也さんが やっているように。
山下さんは 反復します。主に版画という反復的な手法 によって 反復的な表象 を ひたすら反復する。コピーを怖がるようにして オブセッシブに 繰り返す。その恐怖のそぶりを コピフォビアと 仮に名付けておきましょう。今回山下さんは カニエ・ウェストの 歌詞の一部を 木版で刷りました。マシンガンをミミックしたリリック Garrrat-got Got-got-got-got の暴力的な 反復の中に I still feel the love という 甘い言葉が 混入していることに 恐怖を抱いたことに 端を発すると聞きました。対立した意味が錯綜して 同居していることへの恐れ というより リズムの繰り返し自体が なんでも飲み込んで 平然としていることへの 感情 コピーそのものへの恐怖 コピフォビア ではないでしょうか。
他方 そのコピーの渦を まさしくミミックすることは 快楽も伴います。コピフォビアは コピー愛好すなわち コピフィリアと ないまぜの感情です。流れるように連なっていくのは 気持ちがいい。キッチュって気持ちがいいでしょう。どんどん流れていくし どんどん埋まっていくし。個展会場には キッチュの権化のような 「タコス男」の映像と音が 露悪的に 流れ続けていました。 キッチュには何も疑問を持たないでいい。最も通俗的に 受け入れられた美的規範をもとにするから 無反省でいられる。だから ヘルマン・ブロッホが指摘した通り ファシズムが典型的な例で アヴァンギャルド芸術に代表されるような個性を抑制して すでに浸透しきった古典的な美 とうてい同時代的と言えない美 要するにキッチュを 礼賛した。政治利用した。
自動的に生み出され 流れ 空間を埋めていく美は 何も考えなくてもよい機械生産システム を 肯定します。痛みを感じさせない麻酔 みたいな 安らぎ 耽溺によって システムに依存して構わない 依存したほうがいい と 誘うのです。コピーは あるいはキッチュは 特権的な唯一性 を退ける という意味において 民主的である 一方で 力の不均衡を是正しません。現状を肯定し 関係を固定する その限りにおいて。怖くて 気持ちいい。コピフォビアとコピフィリアは ちかちか明滅して 現れるわけです。それを作り出す 当の本人においてさえ。山下さんの作品は まさしくお化け屋敷のように 暗闇の中で ブラックライトに照らされて 恐ろしげに 陶酔的に ちかちか明滅して います。
山下さんの 手法自体は ポップアートのそれ と 基本的に変わらないでしょう。コピフォビアとコピフィリアのないまぜを 体現しながら 批判するという 方法において。ただし山下さんが おもしろいのは もはや 表象としての機能を 失った 何もレペゼンしていない マスコットを 使う点です。なんというか ノスタルジックで 寂しい ポップです。消費財 がいつまでも 成仏できずに セカンド・マーケット ないし n次マーケットの中で リサイクル され続けているような。褪せたポップが ポップを 演じさせられて いるような。価値を 掘り起こされ 続ける ヤフオク みたいな メルカリ みたいな。ほとんど語義矛盾の ポップです。
東日本大震災と 原発事故によって 全町避難を強いられた 福島県大熊町の マスコット であれ 満身創痍で からくも 開催された 東京五輪の マスコット であれ 今回の個展で 取り上げられた キャラが 示している政治性は あまりに 生々しく露骨で あるとは 思うのですが シミュラクルの機能と失効が おそるべき速度で 回っていることの 証しと 言えるのかもしれません。マスコットの幽霊って 何でしょうか。大熊町の公式ウェブサイト には 次のような マスコット説明が ある。「仲良しでいつも一緒。町の特産品が大好きで、鮭やフルーツを抱え、震災前はPRに力を入れていました」。では震災後は…?
コピフォビアとコピフィリアの渦 偽物に支えられながらなお 本物と偽物を区別しようとする気運 は ますます熱を帯び 本来区別のない デジタルコピーに NFTという名で 本物を 作り出そうと 世間は 躍起です。それは たぶん 貨幣制度の再発明 です。あらゆる場所が 明るく照らされて 幽霊の居場所は 限られてきているように見える のですが そのあまねく照らす 光が じつは 幽霊そのものだとしたら どうでしょう。
*──丸山圭三郎『文化=記号のブラックホール』大修館書店、1987年、p.106,108