カラーフィールド・ペインティングとは、1950年代から60年代にかけアメリカで発展した抽象絵画の動向のこと。9月4日まで千葉のDIC川村記念美術館で開催中の「カラーフィールド 色の海を泳ぐ」展は、世界的に著名なカラーフィールド作品のコレクターであるマーヴィッシュ夫妻のコレクションを管理する「デイヴィッド・マーヴィッシュ・ギャラリー」の協力のもと、9名のアーティストの作品約50点を紹介。カラーフィールド作品が多数集まる国内初の本展を、埼玉大学大学院人文社会科学研究科准教授の加藤有希子がレビューする。【Tokyo Art Beat】
わたくしごとで恐縮だが、私は2004年から2009年までアメリカ東海岸の田舎の大学院に留学した。DIC川村記念美術館の「カラーフィールド 色の海を泳ぐ」展では、そのアメリカの大地が、そして広くは北米文化の最良な点が余すところなく再現された。アメリカではつらい経験も不愉快な経験もあったが、しかし本展で再現されたアメリカは、北米のもっともすばらしい姿、北米の「善意」の表現以外の何ものでもなかった。「色の海」が北米文化の「善意」とどう関わるのか、その関係をこれから述べたい。
この展覧会の作品群で、もっとも感銘を受けたもののひとつが「にじみ」の表現の美しさだ。とくにヘレン・フランケンサーラー、モーリス・ルイス、ジュールズ・オリツキーらの途方もない大画面に展開される、悪意や警戒心のない「にじみ」は、アメリカの善意そのものだ。
アメリカの大地は本当に広い。ニューヨークやワシントンD.C.のような人口と建物が密集している都市では感じることができないが、アメリカのほかの多くの地域は広大で、自然がむき出しになっており、そしてその巨大なガイアに走る血管のように、ハイウェイが永遠に続く。アメリカの大地には境界も輪郭もほとんどない。どれだけスピードを上げても、大地があまりに無限に続くので、走る車はゆったりとして見える。人間はガイアに包まれ、おっとりと子供のようになる。その表れは「にじみ」にほかならず、それは19世紀のアヴァンギャルドをけん引してきた点描表現や分断、スピードとは対極にある。
これらの絵は、アクリル絵具「マグナ」によるステイニング技法で描かれた。「描かれた」というのは表現に語弊があるかもしれない。これは下地の処理をしていない素のキャンバスに、絵具を直接置く、あるいは流す手法で、画家の意図によるコントロールが明確な「描く」という行為ではなく、意図が介入できない偶然性に多くを頼っているのだ。
「にじみ」というのは、言われてみればコントロールできないものだ。これらの絵が描かれた1950年代から80年代は、現代とは違い、アメリカ文化がコントロールできないものに魅了された時代であり、そしてそうしたものの価値を認めてきた豊かな時代だった。ジョン・ケージ、デューイ、禅、気──それが誤ったオリエンタリズムであっても、アメリカ文化はこの時期、ヒッピーからハイカルチャーに至るまで、こうした東洋思想にも通じる偶然的要素をめでてきた。
「にじみ」のカラーフィールドとはアメリカ文化が本来もってきた、こうした子供らしい素直さと好奇心であり、偶然と遊びから生まれる美に魅了される謙虚な姿勢にほかならない。
今回のカラーフィールド展で「にじみ」に加えて興味深いのが、「触覚性」を強調した作品が多数あることだ。ラリー・プーンズの荒々しい凹凸のある大画面、ジュールズ・オリツキーのメタリックな幻惑されるような〈ミット〉絵画、アンソニー・カロの遊具のような色彩彫刻、ジャック・ブッシュやフリーデル・ズーバスの手探りで空間を確かめるような美しいカラーフィールド。これらの作品は、いずれも作家が手や体を全面的に使って、体当たりで制作しなければ、完成できない作品だ。
デイヴィッド・J・リンデンは著書『触れることの科学』(2015)のなかで、五感のうちのどれかひとつ残すというゲームで、自身の友人のうち「誰ひとりとして触覚を挙げなかった」点を指摘している。そして「思うに、ものに触れるという感覚というのは人間の自己感覚と密接に絡み合っていて、そのせいで、触覚を欠いた暮らしというものをはっきりとイメージできなかったのではないか」と分析している。
触覚とは言い換えるなら、私たちの日常的な存在の核心にあるものであり、自分の存在を確かめるものであり、愛情を確認し合うグルーミングなどの温かいコミュニケーション、携帯やパソコンのタッチパネルやキーボードやマウス、温度の感覚、環境との接触、セックスの快感などの、自分が中心になった際の感性の中核になるものだ。思えば、触覚には客観性というものは存在せず、つねに主観的なものである。そしてそれは、自分自身の世界の中心性を確かめるものだ。私たちは触れるたびに、自分が世界の中心たりえることを知る。
カラーフィールド展の作品が制作された1950年代から80年代は、アメリカが困難や矛盾を抱えながらも、世界の中心に躍り出た時代にほかならない。「沈黙の春」、ベトナム戦争、人種間の争い、ドラッグの広がり、スタグフレーション、石油危機、新冷戦など様々な危機が迫り、アメリカは70年代には「最悪の時代」とまで言われたが、それでもアポロ11号の月面着陸やレーガノミクスなどにより、世界の中心に躍り出た。
触覚の持つ中心性・主観性と、アメリカの地政学的中心性は、カラーフィールドのなかで共鳴する。それは何か専制政治的な抑圧的なものではなく──実際の政治とはまた別の話だが──子供が世界に触れるような好奇心、自己有用感、無限の可能性に満ちたものなのだ。
ところで私が2000年代初頭にアメリカに留学した当時、もっとも影響を受けたことのひとつに、フェミニズムの隆盛がある。日本でもその頃なかったわけではないが、まだ微々たるものだった女性の権利の主張が、アメリカでは当然のごとく日常的になされていた。そして今回のカラーフィールド展の作品がつくられた1950年代から80年代、モダニズム芸術は依然として男性中心であったが、カラーフィールドとりわけステイニング技法の突破口を開いたのが、女性であるヘレン・フランケンサーラーであることは注目に値する。
フランケンサーラーは1952年に絵具を染み込ませるステイニング技法で《山と海》を描いた。これは彼女がその夏に恋人のクレメント・グリーンバーグとともに訪れた、カナダ東部大西洋岸にあるケープ・ブレトン島の険しい海岸線を抽象的に描いた大型作品である。その後、グリーンバーグがモーリス・ルイスとケネス・ノーランドを彼女のスタジオに連れていき、彼らは「彼女の革新的な技法に興奮を覚える」のだ。さらにフリーデル・ズーバスはフランケンサーラーと同じスタジオを共有していた。
19世紀以来のモダニズムは、「前衛」「孤高」「孤独」「競争」「オリジナリティ」といった言葉で彩られるが、アメリカの20世紀後半のカラーフィールドの作家たちは、ともに描き、ともに学んだ。カロが教えていたベニントン大学では、ズーバスもまた教鞭をとり、オリツキーが絵画にスプレーを用いることを思いついたのも、カロとともに生徒たちの前で会話するなかでのことであったという。19世紀のモダニズムがいわゆる「男性的」な攻撃性を中核に形成されていたとしたら、20世紀後半のカラーフィールドのグループは、「女性的」ともされてきた対話性、多元性のなかで形成されたのだ。
今回、DIC川村記念美術館のカラーフィールド展の図録に寄稿したサラ・スタナーズは、「これらのアーティストは視覚に訴える作品を作りながら、内省を通して、あるいは互いに作品を振り返ることを通して、ともに成長を遂げた。その限りにおいては、カラーフィールドは様式(スタイル)としてではなく、取り組み(プラクティス)として理解するほうが適切かもしれない」(136頁)と述べている。
これは妊娠・出産が身近にあり、化肉することができる女性という性にふさわしい存在のあり方とも言える(実際に妊娠・出産するかは別にして)。アメリカの20世紀文化の狼煙を上げた哲学者のウィリアム・ジェームズは、著書『プラグマティズム』(1907)のなかで、プラグマティズムは形而上学のジレンマを解決する一手段であると主張する。「世界は一であるか多であるか? 宿命的なものであるか自由なものであるか? 物質的か精神的か?」プラグマティズムすなわちプラクシスは、こうした出口のない問いに、その行動で決定打を与える。
カラーフィールドは化肉であり、プラクシスであり、女性原理ともいえる多元性に突き動かされたものだろう。それは第二次世界大戦後のアメリカが、迷いながらも獲得し、そしてその後、21世紀に多くを失うことになる、「善意」の具現化にほかならない。