(A)Hello! Super Collection 超コレクション展-99のものがたり(大阪中之島美術館)
(B)はじまりから、いま。1952-2022 アーティゾン美術館の軌跡—古代美術、印象派、そして現代へ(アーティゾン美術館)
(C)扉は開いているか―美術館とコレクション1982-2022(埼玉県立近代美術館)
【コメント】
日本の美術館はイベントとしての企画展は注目されるが、常設展は見落とされる。が、コロナ禍で海外からの貸し出しが滞り、コレクションが見直される機会を得るようになった。今年はタイミングも重なり、そうした展覧会が印象に残る。まずようやくオープンした大阪中之島美術館の(A)は、実業家の山本發次郎らのコレクションがもとになった作品収集の経緯を紹介しつつ、大阪に縁のある作品が多いが、特筆すべきはデザイン分野が充実していること。遠藤克彦が設計した都心の黒いキューブの巨大建築も壮観な吹き抜け、艶かしい空間などが魅力的。(B)はアーティゾン美術館の70周年企画だが、同館は実業家の石橋正二郎が創設しており、彼の渡航歴のほか、土曜講座、美術映画シリーズなどを紹介し、興味深い内容だった。40周年を迎えた埼玉県立近代美術館の(C)は、作品だけでなく初代館長の文章、ポスター、工事写真など関連資料も数多く取り上げ、黒川紀章が設計した建築に介入する取り組みも含まれていた。デザイン分野にいち早く取り組んだ宇都宮美術館の25周年記念展も印象に残り、栃木県立美術館は50周年記念展で建築の特徴も紹介したが、川崎清が設計した同館は移転により存続が危ういらしい。
(A)ぎこちない会話への対応策—第三波フェミニズムの視点で(金沢21世紀美術館)
(B)松澤宥 生誕100年祭(下諏訪町立諏訪湖博物館・赤彦記念館など上諏訪エリア計10施設)
(C)彫刻刀が刻む戦後日本ー2つの民衆版画運動ー(町田市立国際版画美術館)
【コメント】
長島有里枝の著作『「僕ら」の「女の子写真」からわたしたちのガーリーフォトへ』(大福書林、2020)の刊行は、写真史のみならずこの国の芸術にとって大きな事件であった。この著作に端を発して企画された(A)では、“女性による女性のためのフェミニズム展”という枠組みとは別のあり方が試みられた。本展の妙は小林耕平の作品だ。その作品は、一見して女性の権利拡張を主題としているようには思われない。しかしだからこそ、「第三波フェミニズムの視点」から読み解くとき、フェミニズムとは性差別的な文化や制度の変革をこそ目指すものなのだと改めて気付かされた。その変革の担い手は、性別によって区別・疎外されることはない。長野県立美術館で開催された「生誕100年 松澤宥」展とともに下諏訪や松本市など複数箇所で開催された(B)は白眉であった。下諏訪のまちなか会場を巡り歩き、諏訪大社や諏訪湖の歴史の厚みに圧倒されつつ、松澤が生涯のほとんどの時間を過ごした下諏訪の文化的固有性を体験することは、松澤宥という希代のアーティストへの理解を真に深める機会であった。(C)は、既存の日本美術史からこぼれ落ちた論点を俎上に載せた展覧会として、後世に残ることだろう。筆者が注目したのが、美術の権力構造の中枢・東京美術学校からドロップアウトし、版画運動を牽引した二人の版画家、鈴木賢二(1906-1987)と上野誠(1909−1980)の存在だ。多角的な観点から多数の評が書かれたことも、本展の印象深い点だ。とくに文化研究者・アーティストの山本浩貴が「ブラインド・スポットのその先へ──再び「彫刻刀が刻む戦後日本」展をめぐって」において、本展の精髄を「国民国家の枠組みで失われてきた少数民族の芸術」に見いだしたことは重要である。このように、来年もメディアを横断した活発な批評が繰り広げられることを願い、ささやかながら筆者もその一翼を担いたいと思っている。
(A)現代山形考~藻が湖伝説~
(みちのおくの芸術祭 山形ビエンナーレ 2022
の企画・山形郷土館 文翔館)
(B)完璧に抗う方法 - the case against perfection -
佐藤史治と原口寛子/関真奈美「2人だけでも複雑/はじけて飛び散り、必然的にそこにおかれる」(あをば荘)
(C)地球がまわる音を聴く:パンデミック以降のウェルビーイング
(森美術館)
【コメント】
批評家の藤田直哉が2014年に「地域アート」に向けて「いつになったら責任を持って『批評』できるまで作品に接したことになるのか、よくわからないのだ」と論点を示した。長期スケジュールやイベントの多様性による全貌の把握不可能性や、地域交流を主眼としているがゆえの作品自体のフォームの無意味さが、作品批評や最終的な造型性への考察が不要ないし拒否されているとして、自分は批評してよいのかと思案する。この文章から8年が過ぎ、岡山芸術交流での石川康晴(公益財団法人石川文化振興財団理事長)の総合プロデューサー続投問題など、一組織でのハラスメントの対処が国内の美術全般に及ぼす影響を踏まえ、それをわたしはどう受け止めて行くのかと漠然と考えていた。運営体制やその組織の動向について、まったくわたしは「発言」できるまで運営体制、内実は分からないと。
芸人の江頭2:50によるYoutubeチャンネルに「時効だから話せる話」というシリーズがある。江頭は2003年6月2日にパナウェーブ研究所の初代代表である千乃裕子を元気づける踊りを見せに会いに行こうとして、研究所の人々と公安に追いかけられた。江頭はその経験を通してパナウェーブの組織性を「仮面ライダーごっこ」と評するに至る。シリーズでは今後の旧統一教会への江頭らしい潜入も示唆されていた。この一連の動画にわたしはひどく勇気づけられた。
(A)第17回イスタンブール・ビエンナーレ(イスタンブール市内各所)
(B)彫刻刀が刻む戦後日本ー2つの民衆版画運動ー(町田市立国際版画美術館)
(C)1/12 Don't Follow the Wind: 小泉明郎+ノン・ビジターセンター(福島県双葉町)
【コメント】
2年半ぶりに海外の国際芸術展をまわった。そのなかで、世界中から観客を集めるドクメンタ、ヴェネチアではなく、街の人々が多く訪れる(A)が、ローカルであることの意味を考えさせておもしろかった。たとえば、ネパールの画像アーカイヴ、ネパール・ピクチャー・ライブラリが同地のフェミニズムにまつわる資料を展示した《The Public Life of Women: A Feminist Memory Project》(2018~)。ネパールという場所に蓄積された知恵が、イスタンブールという別のローカルに接ぎ木され、次いでわたしたちの思考を歴史における女性の「見える化」という大きな問題へと導いていく。ローカルなものの深掘りは世界へとつながっているのだ。また、今回の会場の一つは2013年の「トルコの春」の舞台となったゲジ公園周辺にあった。わたしが訪れてひと月後、目抜き通りでは爆弾テロ事件が起こった。そんな不安定な情勢の中で、ビエンナーレが粛々と(しかも観覧無料で!)開催され、たくさんの若者が訪れているさまに、希望を感じた。
多くの人が挙げるだろう(B)は今年の大収穫。誰もが学校で親しんだあの木版画は、国際的な社会運動と手を携えて発展し、日本各地に根を下ろした。身近なメディウムを通して世界史が見えてくる、目くるめく経験をした。
「3.11」後の避難指示が解除されない限り見ることのできない展覧会である(C)。今年、小泉明郎の作品のみ観覧が可能になった。会場となったのは、11年が経って住民が戻らず、取り壊された家屋の土台ばかりが残る広大な空き地だった。
他に「Bruce Nauman: Contrapposto Studies」(伊ヴェネチア、プンタ・デラ・ドガーナ)、「ゲルハルト・リヒター展」(東京国立近代美術館、豊田市美術館)、「とうとうたらりたらりたらりあがりららりとう」(新宿歌舞伎町能舞台)も強い印象を残した。
(A)林詩硯「針の落ちる音」(TOTEM POLE PHOTO GALLERY)
(B)ゲルハルト・リヒター展(東京国立近代美術館)
(C)六本木クロッシング2022展:往来オーライ!(森美術館)
【コメント】
私にとって今年は図らずも、自身を取り巻く環境の変化から、いままでより一歩引いた位置から美術と関わるような年になった。世間的に、2022年はヴェネチア・ビエンナーレやドクメンタといった国際的な芸術展の開催、さらにはアジア初開催となったアートフェアであるフリーズ・ソウルの盛況など、大きな話題には事欠かなかったように思える。いっぽうで、個人としては前述の理由から、いわゆる「ビギナー」層を含めた多くの人々と美術との関わりについて、広く考え直す期間にもなった。そんな中で、この年特に印象に残った展覧会としては、写真家の林詩硯による(A)をあげたい。本展は「自傷行為」をテーマに、被写体や作家自身の身体に残る痕跡を収めた写真作品が展示されたものだった。小規模かつ、均一に額装された写真が並ぶオーソドックスな形態の写真展ではあったが、被写体へ向けられたどこまでも真摯で、飾らない眼差しが心に残っている。残る二つには自身の興味の向かう先として(B)、そして(C)をあげた。(C)についてはカオス的な側面こそあるものの、扱われているトピックの広範さから、日本の現代美術を俯瞰して知りたい、あるいは(これを言うのもおこがましいが)私をきっかけに現代美術に興味を持ってくれた、というような方には足を運んでみることをおすすめしたい。
(A)1/12 Don't Follow the Wind: 小泉明郎+ノン・ビジターセンター(福島県双葉町)
(B)ニューアートシーン・イン・いわき 竹内公太展 浜の向こう(いわき市立美術館)
(C)みる誕生 鴻池朋子展(静岡県立美術館)
【コメント】
東京電力福島第一原子力発電所付近の帰還困難区域で2015年3月11日から開催中の国際展(A)。避難指示が解除されるまで見ることができないというものだが、今年8月に双葉町の一部地域で避難指示が解除されたことから、10月末から17日間限定で小泉明郎作品のみキュラトリアル・コレクティブによる「ノン・ビジターセンター」のリサーチ映像と併せて公開となり、11月末に足を運んだ。小泉作品では、双葉町に帰ってきたいけれど逡巡する元住人の音声を聞きながら、会場の周辺を歩いた。その後、東日本大震災・原子力災害伝承館に行き、特に未来の最先端産業の展示に疑念を抱えて帰ってきた。
その後日、いわき市に移住して制作活動を続けている竹内公太の(B)に行き、私たちはずっと巨大な劇場にいるのではないかと気づくことができた。人々がその土地から移動を余儀なくさせられるとき、何が起こっているのかという竹内の問いは、筆者がアートを媒介に過疎の集落を見てきたことにもつながりそうだ。
一方で、鴻池朋子のリレー展(C)に出会えたことで、その「劇場」から逃走しようとする姿勢も授けてもらえた気がする。ぽんと背中を叩かれて。
2023年も調べることには心折れずに、枠にハマりそうになったら飛ぶ手段も身につけたい。
(A)スペクタクルの博覧会(第14回恵比寿映像祭内の小原真史企画、東京都写真美術館)
(B)彫刻刀が刻む戦後日本––2つの民衆版画運動(町田市立国際版画美術館)
(C)ウェンデリン・ファン・オルデンボルフ 柔らかな舞台(東京都現代美術館)
【コメント】
(A)は、企画者の小原真史自身が収集した博覧会関連資料と美術館のコレクションを組み合わせた展示であり、美術館が所蔵する写真作品がコロニアルな視線を秘めている可能性を露わにし、東京都写真美術館という場においてオリンピックという巨大スペクタクルの意義を問うている点において、挑戦的な好企画であった。(B)は、長期間に及ぶ綿密なリサーチに基づく、戦後日本美術史における「ブラインド・スポット」に光を当てた素晴らしい展覧会として強く記憶に残っている。(C)は、映像が優れているのみならず、リーディング・スペースも含めた展示空間の構成の巧みさも印象深い。来年2月まで会期が続くので、まさに必見の展示であると強調しておきたい。
さらに2022年のアートシーンで注目に値するのは、環境保護団体「Just Stop Oil」などによる、気候変動への美術館での抗議活動である。美術作品というかたちで政治的意見を表明するのではなく、美術館や美術作品を使用しあえて美術の文脈に乗ることを拒否したやり方で抗議活動を行なっているところに、美術に対する現代の考え方や態度が表れているのではないか。美術館チケット代高騰問題も含めて美術や美術館の存在意義が現在問われていると言えよう。早計に彼(女)らの活動を否定することなく、それについて個人的に考え続けていきたいと思っている。
(A)生誕100年 松澤 宥(長野県立美術館)
(B)ミロ展 ― 日本を夢みて(愛知県美術館ほか)
(C)日本の中のマネ―出会い、120年のイメージ―(練馬区立美術館)
【コメント】
「博物館150年」と謳われた本年は、4月に博物館法の一部を改正する法律が公布、令和5年4月に施行される。また、プラハで8月に開催されたICOM(国際博物館会議)臨時総会では、新たな博物館定義が採択された。前者では、博物館が文化観光など地域に寄与する存在であることが明文化され、後者ではコミュニティ参加が重視されている。こうした動向とその影響を注視しつつ、学芸員の地道で高度な調査研究の成果と、新鮮な鑑賞の悦びと学びを享受できた展覧会を挙げた。(A)は昨年春に開館した長野県立美術館が、松澤宥の膨大な資料と地域に真摯に向き合った重層な企画。(B)は日本の公立美術館の多くが作品を所蔵するミロについて、新たな機軸での研究が深化され、その成果が展覧会の構成に丁寧に生かされていた。(C)も「日本の中の」西洋美術の受容をテーマにし、現代の解釈として福田美蘭の新作までを展観。会期中、福田が出品作を日展に応募し選外となったことも話題になった。3企画ともカタログの充実はもちろんのこと、展覧会から派生した柔軟で訴求力のある場面が見受けられた。このことは、ICOMが提唱する多様性や持続可能性を促進するべく、「博物館の未来」への確かな光明であった。
(A)岡﨑乾二郎 TOPICA PICTUS Revisited: Forty Red, White, And Blue Shoestrings And A Thousand Telephones(Blum & Poe)
(B)石田尚志 庭の外(タカ・イシイギャラリー)
(C)木島櫻谷 ー山水夢中ー(泉屋博古館)
【コメント】
岡﨑の個展(A)は、昨年重い病に倒れたものの、そこから超人的な回復力をみせ、コロナ禍以降展開しているシリーズに、回復後に再び着手した新作展。病気以前よりもさらに絵の具のコントロールの質が増しているのではないかと思わせるほどであり、これほど高い質と内容の作品群を同時代に観ることができることは、僥倖以外の何ものでもない。石田の個展(B)は、ここ数年取り組んできた立体造形を、彼の本道であるストップモーションの動画作品に野心的に組み入れた。さらに作品が展開していくものであると思われるので、今後も注目していきたい。(C)の木島櫻谷(1877~1938)は、ここ10年来、再評価に力を入れている泉屋博古館による、第3弾の回顧展。円山派の伝統や漢籍への知悉という前近代的技巧と教養を持ちつつ、極めて興味深い透視図法の解釈による、近代的な画面の奥行きを作り出すという点で、ユニークな画家であるし、また、作品も実際素晴らしい。近年、「忘れられた画家」が再評価されて「バズる」傾向をしばしば見受けるところだが、この木島の再評価については、着実な研究成果と、それに基づく展覧会という出力のバランスも秀でており、ぜひ、「バズ」って消費されることなきよう、地道に愛好者・理解者が増えることを願うばかりである。
(A)生誕100年 松澤 宥(長野県立美術館)
(B)日本の中のマネ―出会い、120年のイメージ―(練馬区立美術館)
(C)高槻芸術時間「インタールード」の梅田哲也作品《9月0才》(高槻現代劇場 市民会館)
【コメント】
「年末回顧」と聞くと心がざわつく。多分それは、自分が新聞社で毎年暮れに美術分野の1年を振り返る記事を担当していたせいだ。いつもそれが頭の片隅にあって、後悔したくないとあの展覧会この現場と走り回って原稿を書き、年の瀬に納得がいく回顧記事を紙面に出せるとほっとした▼今春フリーになってタスクから解放され、改めて自分にとっての「良い展覧会」を考えてみた。奇妙な譬えだが、目に見えない「大きな七色の飴」のようだと思う。つまり鑑賞後、時々口から取り出して(すみません)、色の変化(世界観の変容や学び)や減り具合(作品・作家への理解が進んだか)を確かめてみる。飴は大きければ大きいほど嬉しい▼上記に挙げた3展は、今年折に触れて取り出した飴玉だ。伝説的美術家の大回顧展の(A)は、未だに消化できず、作家が追及した「見えない世界」を考えている。「近代美術の父」の日本での受容を考察した(B)は、充実した調査研究に福田美蘭ら現代作家の視点が合わさり、複眼を促す鑑賞体験は後を引いた▼何事も始まりがあれば終わりがある。始まりを寿ぐだけでなく、どう終わりを看取るかは、縮小に向かう社会が成熟するため今後重要になるのではないか。その意味で7日間だけ鑑賞できた(C)は、閉館した築58年の市民会館を最小限の介入で作品化し、極めて示唆的だった。
(A)李晶玉展(ギャラリーQ)
(B)藤井光・山城知佳子 Tokyo Contemporary Art Award 2020-2022 受賞記念展(東京都現代美術館)
(C)Chim↑Pom展:ハッピースプリング(森美術館)
【コメント】
今年はロシアによるウクライナへの軍事侵攻によって既存の国際秩序が揺るがされ、安全保障環境が変容した、世界史の転換点ともいえる激動の一年であった。いっぽう、日本国内のアートシーンは対岸の火事よろしく、マーケットが独特の盛り上がりを見せていた。危機の時代における狂騒の渦中にあって、アーティストには炭鉱のカナリアとしての役割もまた要請されていたといえよう。核戦争の脅威が高まり、原子力発電所の再稼働が進む現下の社会情勢に対して、同時代的なリアリティと史的なスケールの俯瞰的視座を以って応答し得ていたと思われる3つの展覧会をピックアップした。(A)は令和の視点から描いた戦争の風景、藤井光と山城知佳子による(B)は作戦記録画と沖縄への独自の考察、(C)は核や放射能の脅威と日本の関係性などをモチーフとしてきた活動を振り返る大回顧展であった。
(A)コレクション1 遠い場所 / 近い場所(国立国際美術館)
(B)みる誕生 鴻池朋子展(高松市美術館)
(C)桃源郷通行許可証(埼玉県立近代美術館)
【コメント】
沖縄復帰50年目を迎えた今年、2月のロシアによるウクライナ侵攻により、平和な日常が一瞬にして奪われる現実に世界中の人々が打ちのめされた。(A)は4章から構成され、竹川宣彰《迷信の地球儀》、山城知佳子《オキナワTOURIST – 日本への旅》他を展観する”広い地球の上で”から始まり、東欧・ロシアの出身作家の作品コーナー、石川竜一、ミヤギフトシ、山城らによる新収蔵品を中心に「沖縄のまなざし」という括りで展示した。作品のコンテクストを透写させながら、時代性を織り込んだ秀逸な企画として記憶に残る。
(B)は、「みる」という行為が視覚中心にあると限定しがちな「美術館」という制度にも一石を投じた。自作だけでなく開催館の収蔵品を展示。みる主体にもフォーカスした。(C)の展覧会名は出展された松井智惠の作品名に由来。文谷有佳里と菅木志雄、松井と橋本関雪といった招待作家の作品と収蔵品との意外且つ絶妙な組み合わせに唸らされた。
取り上げた3本はいずれも公立美術館で開催された収蔵品を絡めた展覧会だ。この3年間は、私たちが信じてきたことを多角的に再考する時間でもあった。厳しい状況下で、公立館が各館のミッションを今後どう遂行するかのヒントにもなる企画だと思った。
(A)田部光子展「希望を捨てるわけにはいかない」(福岡市美術館)
(B)生活のデザイン ハンセン病療養所における自助具、義肢、補装具とその使い手たち(国立ハンセン病資料館)
(C)限らない世界/村上三郎(芦屋市立美術博物館)
【コメント】
今年はアートと政治運動や公平さについて考える機会が多くありました。1960年頃からアートのなかでジェンダー不平等に挑んだ田部光子の個展(A)に始まり、TABでの佐々木健×福尾匠の対談、ウクライナ人アーティストの抵抗、MOTアニュアルと工藤春香の展示、荒井裕樹『凜として灯る』(モナリザ・スプレー事件の米津知子の評伝)、環境保護団体の絵画攻撃、アメリカの中絶禁止、飯山由貴《In-Mates》上映見送り、筒 | tsu-tsu《全体の奉仕者》、岡山芸術交流 2022の問題……こうした出来事を、様々な問題が重なり合うつながりのなかでとらえ、繰り返し考えています。
それぞれは記事にしてきたので、ここでは3月に最終回を迎えたタイのBLドラマ『NOT ME』の話を。政治的かつ個人的な怒りを抱え、行動しながら、いかに前向きに生きていけるか。私は本作をそんな問いへのひとつの答えとして受け取りました。若者らによる非暴力の反体制デモが活発に行われている現在のタイ社会を反映した本作は、権力に戦いを挑む若者たちが主人公。現実社会でデモ活動する実在の活動家、ラッパー、アーティストらも出演&作品提供を行っており、カルチャーとアクティビズムが交差する時代のドキュメント的側面もあります。監督はトランスジェンダー女性で、クィア・コミュニティへの敬意にあふれたデモのシーンが出色。女性の権利や婚姻の平等を求める声が響き、巨大なレインボーフラッグの下で跳ねる主人公の姿が光る。ほかにも“労働者階級表現主義”のコンセプトで男性ヌードを描く美術専攻の青年(障害を持つ母親と二人暮らし)や、匿名グラフィティライターも登場するなど、アート的に気になる要素も。政治、アート、エンタメ、ロマンス、すべてが必然のもと結びついた傑作です。
(A)ピカソ 青の時代を超えて(ポーラ美術館)
(B)GO FOR KOGEI 2022(富山県高岡市の勝興寺、石川県小松市の那谷寺、石川県小松市の大瀧神社・岡太神社)
(C)FormSWISS(京都dddギャラリー)
【コメント】
ポーラ美術館がここ最近面白い。春までのロニ・ホーン展も圧巻であったし、秋のピカソ展では、青の時代の作品の「下の層」に着目。もう見飽きたかもと感じていた画家に、国際共同研究に基づき新しい光を当てていて、作家や作品の再評価に対する美術館の責任の取り方や、重要作品を収蔵する美術館同士の(ハイレベルな)ネットワークの形成方法について示唆的であった。企画展にあわせてテーマ設定がなされるコレクション展は、意味と物量、双方の意味でバランスがよく、そこに、村上華子のようなとんがった小企画展も実施。優れたコレクションと人材を有する美術館の可能性を見せつけられた。そこに加えて、今年9月には駐車場システムを変更、車のナンバー4桁を入力の上で事前精算すると(カメラにナンバーを認識させることで)ゲートレスで出庫できるようになり、ストレスフリーに。HP上で駐車場の空き台数をリアルタイムに表示しているのも、車での来場者が多い地方の美術館にとって参考になる。北陸の工芸(KOGEI)展(B)は、仕組み/アイデアと広報戦略が、つまり予算の配分方法が秀逸。京都のデザイン展(C)は、床も有効活用。とても見づらかったが、スイス的なグリッドシステムを活用している点では論理整合的な展示デザインで、呻らされた。
(A)鴻池朋子による瀬戸内国際芸術祭への出品作品《リングワンデルング》《逃走階段》(香川県大島)
(B)Tokyo Contemporary Art Award 2020-2022 受賞記念展から藤井光による《日本の戦争画》(東京都現代美術館)
(C)国際芸術祭「あいち2022」(愛知県各所)
【コメント】
第59回ヴェネチア・ビエンナーレやドクメンタ15などの大規模な国際展や、通常時に近い形で国内の芸術祭も開催されたことで、ようやくコロナも次のステージに移ったと感じられた一年だった。
「ライアン・ガンダー われらの時代のサイン」「Chim↑Pom展:ハッピースプリング」「惑星ザムザ」「平子雄一×練馬区立美術館コレクション」、そして筆者が深く関わっていて恐縮だが、レイチェル・ホワイリードによるコミッションワーク「Kunisaki House」など、気になった展覧会や作品はいくつもある。
そのなかでも、筆者にとってとりわけ思い出深い展覧会を3つ挙げる。グローバルとローカルが共存した(C)は、百瀬文、田村友一郎、シアスター・ゲイツ、AKI INOMATAの作品が強く印象に残り、何よりも今回も開催できて本当に良かったと心から祝福したい。
まるでマスクのように全て布やベニヤ板で覆われ、抽象画にも見える153点の<戦争記録画>。(B)の藤井光による《日本の戦争画》は、いつものように素晴らしかった。
(A)には、今年最も感銘を受けた。特に《リングワンデルング》と名付けた散策路から道を逸れ、崖下に向かう《逃走階段》は圧巻。この島の悲しい歴史と現代社会、そしてコロナ禍もあいまり、さまざまな想像を掻き立てられた。