約20年にわたり、国内各地のハンセン病療養所を訪ね、約2万5000点に及ぶ写真を残した在日朝鮮人写真家、趙 根在(チョウ・グンジェ)に光を当てた「趙 根在 写真展 地底の闇、地上の光―炭鉱、朝鮮人、ハンセン病―」が原爆の図 丸木美術館(埼玉県東松山市)で開催されている。
趙 根在(日本名・村井金一、1933~1977)は愛知県知多郡大府町(現大府市)出身。癌に倒れた父の代わりに家計を支えるため、中学3年で退学し、亜炭(あたん:石炭の代用となる劣等炭)鉱山で働いた。地底の闇のなか、危険と隣り合わせの仕事に、光ある地上への脱出願望を募らせていたという。1961年、東京で独立映画プロダクションに所属して照明の仕事に就き、初めて国立ハンセン病療養所「多磨全生園」(東京都東村山市)を訪れる。「らい予防法」で療養所に収容されながら、出入国管理令による強制送還の対象とされるという在日朝鮮人の苦境を知り、自らも炭鉱で感じた「出口のない闇」を重ねて、少しでも世に知らせるべく写真を撮ろうと考えた。
しかし当初は、多磨全生園を案内してくれた入所者の金奉玉(金子保志)から「故郷と本名を知られまいとする彼らを撮るのは難しい」と言われる。なぜ故郷と本名を隠さなければならなかったのか、ハンセン病の歴史を振り返っておきたい。
1873年にらい菌を発見したノルウェーの医学者の名から付けられた「ハンセン病」はらい菌による感染症である。日本では長らく不治の伝染病とされ、差別や迫害の対象となってきた。近代化の影で、1907年制定の「癩(らい)予防ニ関スル件」で外国人の目に触れないようにと放浪患者を収容。戦争へ傾斜する時代の影響もあり、1931年制定の「癩予防法」で全国に国立の療養所が建設され、すべての患者の強制隔離が進められる。
さらに問題なのは、日本でも1947年から特効薬プロミンによる治療が始まり、その効果が明らかになってもなお、1953年に成立した「らい予防法」で強制隔離が続いたことだ。また、1915年から療養所内で開始された断種・堕胎手術は、1948年成立の「優生保護法」により、ハンセン病を理由とした優生手術として合法化されていた。故郷と本名を明かせないのは、自身だけでなく、肉親縁者も不当な差別に遭ったからだった。
1960〜80年代、趙は撮影への衝動と重圧のあいだで試行錯誤しながら療養所を訪ねて回り、患者・回復者(ハンセン病が治癒した人。後遺症がある場合もある)と寝食を共にしつつ撮影を進めた。「人間同士として向き合え語り合える写真」を心がけるなかで、「取材する者」と「取材される者」ではなく、「同胞」としての信頼関係が生まれていく。さらに、朝鮮人だけでなく次第に日本人の入所者とも親交を深めていった。差別や偏見を受けた者が「見られる」ことに怯えや抵抗を感じ、相手を見返せなくなることがあるが、趙の被写体となった人々は同じ空間で趙のカメラに「見られる」ことを許し、時には真正面から向き合っている。このように受け入れられたことは、闇のなかを手探りで生きてきた趙自身にも救いとなったのではないだろうか。
1996年に「らい予防法」はようやく廃止されるが、すでに隔離政策によって生活基盤を奪われ、また激しい差別によって社会復帰しようにも来歴を隠すしかなく、後遺症のある者は療養所に残るほかなかった。1998年、回復者やその家族が国に謝罪や補償を求めて起こした裁判で、2001年、国の患者隔離政策を違憲とする判決を勝ち取った。2019年にはハンセン病患者家族への偏見や差別の被害を認める判決も確定した。しかし、国のほうから誤った政策を反省し、賠償や充分な公的支援を行うのが本筋ではないだろうか。歴史のなかで、趙の写真は人々の尊厳を回復するために存在する。
趙が訪ね歩いた療養所は、沖縄と奄美大島を除き、北は青森の松丘保養園から南は鹿児島の星塚敬愛園まで10ヶ所にわたる。展覧会では療養所ごとに趙の写真を展示。診察の様子、簡素な畳部屋、労働風景、芸術活動。各療養所で「反抗的」とされた者や園外で罪を犯したとされる患者が収容された監房跡の写真もある。それまで撮られる機会の少なかった貴重な記録だ。
各地の療養所では、予算不足で職員が少なく、入所者が「患者作業」と呼ばれる農耕や土木作業などにも従事した。軽症者が重症者の看護や介護を担当し、煙管の点火を手伝い、お茶を入れる姿もある。亡くなった僚友の火葬までも行わなければならなかった。重症者や故人の姿に将来の自分を重ねることもあっただろう。そのようななかでも音楽を楽しんだり、宴会で弾けたりする風景があり、少し胸を撫で下ろす。
なかでも筆者が惹かれるのは、入所者がふたりで歩く写真だ。杖をつき散歩する姿、夫婦が寄り添い歩く姿。フィンセント・ファン・ゴッホの《糸杉と星の見える道》を思い出す。「生」と「死」を象徴する糸杉、曲がりくねった道には小さな馬車。画面の片隅のふたりに、友を欲するゴッホの心情が見えるような絵。ゴッホがゴーギャンに書いた手紙(1890年6月17日ごろ)には「帰りの遅くなった散歩のふたり」と書かれている。趙の写真にも、少し距離を置いてふたりを見守るまなざしが感じられる。
もうひとつ印象に残るのは「言葉」にまつわる写真だ。指の知覚が麻痺し失明した人が舌や唇で点字を読む「舌読」の被写体となったのは、栗生楽泉園(群馬県草津町)の歌人、金夏日(キム ハイル)。「いく日か共に寝起きして写真撮る若きカメラマンに親しみのわく」「ライ知らぬ後の世の人は舌読のわが写真見ていかに思わん」(『歌集 無窮花ムグンファ』)といった短歌を詠んでいる。
同展の2月5日に行われたトークでは、国立ハンセン病資料館学芸員の吉國元がこうした短歌を紹介し、「金夏日は受動的な被写体に留まらなかった。これは趙が1971年の座談会形式のインタビューで言った『写される人間と写す人間というものが、ひとつの共通するテーマ、同じテーマを発見して、シャッターを押し、見せる』という言葉と呼応するのではないか」と語った。同療養所には、趙が『ライは長い旅だから』という詩写真集を共作した谺(こだま)雄二もいる。またほかの療養所にも、自らの境遇や感情を詩や短歌、小説などで表現した人々や作家が数多くいる。包帯を巻いた手でペンを握り、紙に顔を近づけて書く人、手袋をして校正する人、活字を拾う人々、タイプライターを打つ人。内なる言葉や声を壁の外や後世に向けて送り出す息吹を感じる。
本展を企画した学芸員、岡村幸宣は「趙は、美醜の価値観を変えようとした作家。ハンセン病啓蒙のための資料という役割を超えて、作品として日本の写真史に残したい」と語る。国立ハンセン病資料館でデジタル化したデータをもとに、写真家・小原佐和子の協力で、未公開作を含む209点の写真を黒の効いたインクジェットプリントで展示した。作品群の所蔵元である国立ハンセン病資料館学芸員の西浦直子は「被写体が自ら語れなくなる将来、その写真を見る人が、趙根在の写真に出会い、写された人や写した人への関心を持ち、その声に耳を澄まそうとするだろう、そういう意味ですばらしい写真群だと考えています」と語った。今後、東京都写真美術館など公立美術館に研究・所蔵してほしい作品でもある。
思えば、このコロナ禍でも罹患した人が差別される事象があった。突然職を失い貧困に陥る人、肉親や友人に会えないまま他界した人もいた。真偽不明な言説が飛び交い、人々を分断することもあった。展覧会を見ながら、人間は過去から学ばないと同じ轍を踏んでしまうのだなとつくづく思う。
また、国立ハンセン病資料館(東京都東村山市)で開催中の企画展「ハンセン病文学の新生面 『いのちの芽』の詩人たち」では、1953年、らい予防法闘争のさなか、8ヶ所のハンセン病療養所から73人が参加した合同詩集『いのちの芽』の作品を紹介している。これを編集した詩人・大江満雄もまた入所者たちと膝を付き合わせて語り合った人だ。「作家・北条民雄の時代には、ハンセン病にまつわる不条理を宿命として受け入れざるを得ない面もあったが、この詩集は、外部社会に向けて連帯し希望や再生を謳おうとし、新生面を開いた」と、企画した国立ハンセン病資料館学芸員・木村哲也は語る。併せてぜひ鑑賞してほしい。
個人と世界との関係が断ち切れられたときにも、杖で地面を探りながら、人はアートや文学を生み出すのかもしれない。人間はなぜ人間を支配しようとするのだろう。自らを含めて省みながらも、趙の写真に存在する人々の美しさが次第に心に染みてくる。当時を知る人々が高齢化し、記憶の継承が課題となっている今、こうした写真展を通じて語り合える機会を逃さずにおきたい。