チャーリー・チャップリンのフィルモグラフィを紐とくと最初にのっている年号が1914年である。代表作のひとつとして有名な『モダン・タイムス』の製作年は1936年。その狭間の1916年~1934年の間、実に18年に及んでチャップリンの秘書を務めた高野虎市(こうの・とらいち)という日本人がいた。
「チャップリンの日本」展では、この高野とチャップリンのスナップ写真や、高野の遺品から見つかったチャップリン使用済みの列車のチケット・手紙などがメインに展示してある。
長期にわたってチャップリンの傍にいた人物なのに、こうした遺品が近年発掘されたばかりだというのは意外な事実に思える。これまで世界のチャップリン研究のなかで、高野の逸話は深く掘り下げられてはこなかったようである。われわれ日本人の間でも、チャップリン秘書・高野の名に馴染みがあっただろうか。
昨年の2006年、京都で、チャップリン家とパリのアソシアシオン・チャップリンの全面協力のもと、チャーリーの実娘・ジョゼフィンを最高顧問に迎えて日本チャップリン協会が発足されている。高野虎市の存在にもスポットが当てられ、これには日本チャップリン協会の会長でもある研究家の大野裕之氏が尽力している。大野氏は高野の故郷・広島を訪ね、その生い立ちや晩年を取材しており、今回の展示品である遺品も、その際に発掘されたものである。
高野とチャップリンはいつどこどのようにして出会い秘書になったのか、高野はどういう人だったのか、なぜ秘書を辞めることになったのか。そうした好奇心に動かされて、わたしは「チャップリンの日本」が開催されている京橋フィルムセンターへと向かった。
明らかとなったのは、高野は若い頃に単身アメリカに渡り仕事を転々としていたある日、偶然チャップリンの運転手として雇われたこと、まもなくチャップリンに才を買われ、秘書を任されることになったこと、撮影所の敷地内に大きな住まいを与えられ、チャップリンの世界旅行にも同行するほどの信頼関係にあったこと、18年後にチャップリンの3番目の妻と折り合いが合わなかったことから秘書を辞任したこと、太平洋戦争がはじまる頃、高野にはFBIのスパイ容疑がかけられたこと、結局、その疑惑が完全に撤回されることのないまま帰国し、故郷の広島で言葉少なに余生を送ったことなどだ。後年、高野にスパイ疑惑がついたことから、チャップリン研究のなかで高野の存在に光が当たりにくくなっていたのでないかと考えられる。
展示室には高野の遺品のほかに、チャップリン映画日本公開時の古いポスターの展示コーナーもあった。そこに書かれた面白い言い回しのキャッチコピーが、当時の時代の雰囲気を今に伝えている。「集めも集めたり脱線喜劇(イロジカルコメデー) 外道も笑えば聖者(セイント)も吹出す 百万弗も投じたるチャリー、チャップリン氏 一代の快作を始め無慮壹万壹千呎公開」「お笑いになる方も當然命懸のお覚悟を要します」。声に出して読んでみたくなるこうしたゆかいなキャッチコピーは、当時チャップリン喜劇を楽しみに映画館に集まってきた観客の姿や、その歓声や笑い声、調子の良い活弁士の声などを連想させる。
1910年代、モノクロでサイレントだったその頃、チャップリンの映画は日本に上陸するや、たちまちそのキャラクターは“変凹(へんぺこ)君”や“アルコール先生”の愛称がつけられて人気者になった。チャップリンのフィルムばかりを集めた「チャップリン大会」や「ニコニコ大会」というタイトルの上映会も大変人気を呼んだそうだ。