遠藤一郎は今回、水戸芸術館にて「愛と平和と未来のために」という企画を「BEUYS IN JAPAN−ボイスがいた8日間」にあわせて行っている。高橋瑞木学芸員による構想である。その理由は、ボイス展をみればわかる。展示会場にカッティングで記されているボイスの言葉「資本とはお金ではなく創造力である」「人はみんな芸術家である」、その言葉は、今まで『全員展』の企画や「未来へ号」に乗って届けて来たメッセージを思い起こせば、遠藤一郎が言っていてもおかしくないものだからである。彼の場合は「みんなやればできる」というシンプルなものに変わるであろうが。
ただその中でも今回のほふく前進は、いろんな反応といろんな空気をなげかける作品である。それはもう、極端すぎて結論が予想出来ないしろものである。彼にとっては、身体的あるいは精神的な疲労や消耗がはげしいプロジェクトであるが、同時に蓄積を感じているという。
案外自分の中に目的が生まれたりもするという。4本足から2足歩行になることで、様々な発見もあるようだが、目線の位置がかわることでみるものがふえたという。すでに、4足歩行で毎日歩いている、そういう生き物が存在する事で、美術館には新たなネットワークが生まれているそうだ。毎日の清掃のおじさんとの会話、毎日差し入れをしてくださる近くのお弁当屋さん、散歩のルートにしている方、通学の帰りに寄る学生、あそびに来た親子連れ、そういった方々と、2足歩行のときにはない、新たな輪がそこには生まれているという。
なぜいま彼は「ほふく前進」という方法を選んだのだろうか?
それには彼の現状認識が重要な役割を果たしている。ものが溢れている今の世の中において、いつのまにかふつうにある感覚、できるはずのことが失われている。例えば、スターバックス等でわたされる熱いカップを手で持つ時使うボール紙でできた保護材。あれがあたりまえのようにわたされているところにも危機感を感じているようだ。熱いカップを持つことなら、蓋や柄の部分をもったり、触れる面積を押さえたり工夫してできてきたはずである。新たに資源をつかって、手にやさしい、便利のためだけのものを作る必要はあるだろうか?
何が資本として、あるいは何が価値として人の中になくてはならないか?
人と人が対話を、あるいは人と土とが感触を通じて、そうしたコミュニケーションを通してつながっていること。そこに絆があること。そのことこそ重要なことではないか。
普段は目に見えづらい絆を、彼は実際に目にみえる形にしているのである。それも、生活の中にふつうに。
彼はそして、「未来へ号」を走らせながら伝えてきたように「GO FOR FUTURE」というあたりまえのメッセージを伝えていく。ほふく前進をしながら彼は、改めて「一歩目ふみださないと二歩目はない。勇気をだして勝負していくべき」そう認識したという。
彼は、宗教間や民族間の争いやずれは、時間がかみあってないからだと考える。時間の流れがここ50、60年特に早すぎると認識している。46日間もほふく前進をしつづけるのは、早すぎた現在からゆっくりの時間に慣れるためだという。
46日間つづけるために、彼は抵抗しない。休んだりしながらも、また進む、少しずつ進む。もちろん経験しない筋肉は痛むであろうし、皮もむけたりするであろうが…そしてどんな反応も受け入れる。
どうして彼はそこまで受け入れられる、許せるのであろうか? 彼は「未来へ号」に乗っている感覚も、「脈の中を流れていく赤血球」と表現する。道の中の流れにのっているのみ。目的は、人に出会いにいったり、用があったり。でも、それらは全部栄養であり、彼は栄養をこそ運んでいると考えている。「ほふく前進」も、その前に行った六本木ヒルズに「いくぞー!」と叫びながら体当たりする活動でも、自分の身体は仮の姿、「化身」であると認識している。自分は一つの赤血球で、一つの駒である。それぞれの資質により役割が違うであろうが、それぞれの役割を精一杯はたせばいい。そう考えているのである。
全員が一つの創造たるものの一役を担っていると、だから言えるのである。そして、そうした動きこそが全部栄養であり、それがないと地球も動かない、進んでいかないと考えるのである。そして、ほふく前進を彼は、地球を担う駒の一つとして淡々と行い、栄養を与えているのだ。
さればこそ、かけがえのない、この行為を私たちは目撃し、感じ考え、伝えていく必要がある。この、彼が興した一種の革命を、ぜひ自分の目で、確認してほしい。
以下、遠藤一郎によるテキスト(館内で配布されているものです)