私たちは既に気付いている
フィンランドの3人の現代芸術家たちは、普段はガラス張りの四方から日差しが降り注ぎ、光があらわになっているギャラリーの空間を、ほの暗く光が漏れ出る空間へと変化させた。
〈私たちは既に気付いている〉という繊細な事象を丁寧に描き出す作品たち。
この展覧会のタイトル『AWAKENING』は目覚めや覚醒という誰もが知覚する物事を指すだけでなく、単に「気付いている」状態をも意味すると展覧会のカタログに記載されている。
ペッカ・ユルハによるクリスタルを用いた3作品は、美しさの中の危うさがある。
彼は言う。「クリスタルは現在を生きる私たちと似ている。ゴージャスな輝きを求める私たちを象徴しているようで、死も包括している」と。透明でいながらもさまざまな色の光を放つクリスタルが、光と双子のように生む影は、漆黒ではない。死そのものではなく、死の儚さを漂わせる黒い光。生の輝き中に死が包括されているならば、そして私たちは既にそれに気付いているならば、死がつくる影の色は光の黒なのかも知れない。
知っていることの価値
サミ・サンパッキラは展覧会空間に大きな星空を出現させた。それは単に黒い石膏ボードに穴を空けただけのものだが、鉄格子が遮る光によって、本物の星空のようにきらめく。遠い昔、エジプトなどの文明を持つ知識人は星の動きを知っていた。自然の摂理を知ること、それによって導き出される物理や数学、時には呪術を知ることは、権力や価値の所有ともつながっていた。ピラミッドやその他の建造物はそうした知識の上に立ち上がり、人々は神を見上げるようにそれらを見上げた。
もちろん彼はエジプトの権力者でも特権階級の知識人でもない。彼は携帯電話から無料の天体アプリを使い、展覧会期のちょうど真ん中の7月25日の夜空をつくった。現在において知ることの価値は、権力とはイコールではないとでも言うように。そして文明がもたらした青山で7月25日に見える本物の夜空に、彼の予言した星座は明るすぎて現れることはない。私たちは何を見上げているのだろうか。
理解できないこと
ライブハウスのモッシュピットにいる、ハードコアパンクの音楽に興じて身体を激しく揺らす若者たちがスローモーションで映し出される。ハンナレーナ・ヘイスカがハードコアを聴くようになったのは、CDのジャケットデザインを依頼されてからとのこと。ライブハウスで身体を激しく揺らすその動作は暴力性を感じるかも知れないが、その様式化された動きからは愛や笑いやユーモアが見て取れると、彼女は言う。
映しだされた映像にのって流れる音楽は、エリック・サティのゆるやかなテンポの連作ピアノ曲『ジムノペディ第一番』のドビュッシーによる管弦楽編曲版に置き換えられている。ジムノペディ第一番の主題は、「ゆっくりと悩める如く」であり、青少年を全裸にして神を称えるために踊らせるジムノペディアに由来していると言われている。モッシュの文化を知らない者は、動きにも「気付いている」が、ハードコアパンクのファッションで装飾された身体のフォルムがもつ言語をまず理解する。しかし、サティの曲で映像化されたモッシュからは、装飾された身体のフォルムが放つ反抗的で攻撃的な言語と、仲間とコミュニケーションを取り合い一体感を得ようとする、モッシュの動きが放つ言語の二重性が浮き出し、「見ていた」が「理解していなかった」側の言語と出会うこととなる。
そして最後に、この展覧会のキュレーター、ラウラ・コーニッカはカタログの中で「太陽も死もじっとみつめることはできない」と17世紀のフランスの文学者フランソワ・ド・ラ・ロシュフコーの言葉を借りている。生の光も死の光も、その光の強さゆえに正視する視力をもつものはいない。つまり正視できない。しかし私たちはその存在に気がついている。目覚めることで、その存在を思うことが可能となる。
今回の展覧会は、用意されたテーマを元に制作されたものではない。しかしどの作品も『AWAKENING』というテーマを元に鑑賞することが可能だ。正視できない気づきとは、何を意味するのか。日本語には「気配」という言葉がある。それは感覚とも違う。ハッキリと意識できないが、無意識ではなく確かに五感で感じているもの。環境を丁寧に読み解かなければ、感じられないもの。薄暗い空間に配置された作品たちは、この気配を感じようと欲する私たちの感性をあぶり出している。
yumisong
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