トム・ハンクス、スカーレット・ヨハンソン、ジェイソン・シュワルツマンほか豪華スターが大集結する、ウェス・アンダーソン監督最新作『アステロイド・シティ』。人々が豊かな日々を謳歌し、アメリカがもっとも輝いていたと言われる1950年代を舞台にした本作は、モノクロで描かれる同時代のテレビ番組と、カラフルに描かれる番組内の劇《アステロイド・シティ》が交差する、入り組んだ構成を持つ作品だ。劇《アステロイド・シティ》では、人口わずか87人の砂漠の街アステロイド・シティで開かれるジュニア宇宙科学賞の祭典に集まった人々が、群像劇を繰り広げる。
本稿では、舞台、映画、ラジオで上演されるアメリカン・ミュージカルの劇作法について研究する辻󠄀佐保子が、舞台となる1950年代アメリカの状況、とくに演劇界出身者が多く活躍した「テレビ」をめぐるメディア環境や演技の在り方を軸に本作を論じる。【Tokyo Art Beat】
※作品の内容および結末に触れる記述が含まれています。
ウェス・アンダーソン映画はしばしば、枠物語の構造を有している。『ザ・ロイヤル・テネンバウムズ』ではテネンバウムズ家についての書籍が繰られる。『グランド・ブダペスト・ホテル』は、冒頭で少女が読む小説《グランド・ブダペスト・ホテル》の中で作家は若かりし頃を回想し、その思い出の中で作家はホテル・オーナーの語る物語に耳を傾けるというように枠が多重である。
アンダーソンの新作『アステロイド・シティ』でも枠が複数設けられ、とりわけテレビ番組は作品全体を包括する。本作の構造を見ていこう。
まず、モノクロのテレビ番組が始まる。時は1955年。番組冒頭でブライアン・クランストン演じる司会者は、演劇界注目の新作《アステロイド・シティ》の制作過程が放送されることを視聴者(そして映画の観客)に伝える。
前置きの後に、劇《アステロイド・シティ》の内幕がやはりモノクロで展開する。テネシー・ウィリアムズを彷彿とさせる劇作家コンラッド・アープ(エドワード・ノートン)の新作を、エリア・カザンを想起させる演出家シューベルト・グリーン(エイドリアン・ブロディ)が引き受け、リー・ストラスバーグとオーバーラップする演技講師ソルツバーグ・カイテル(ウィレム・デフォー)の下で研鑽を積む気鋭の俳優たちが参加する過程が描かれる。
さらに映画は、戯曲《アステロイド・シティ》に描かれた世界を、こちらはカラフルに描き出す。1955年の砂漠の町アステロイド・シティを舞台に、若き科学者とその家族、軍関係者や修学旅行の一行、旅人、さらには宇宙人が集うことで起こる大騒ぎが、アンダーソンらしいとぼけたユーモアとともに進む。
映画の本編と言えるのは、戯曲《アステロイド・シティ》の世界が繰り広げられるパートであろう。しかし、司会者が次のように述べていることは聞き落とすべきではない。
「《アステロイド・シティ》は存在しません。この番組のために作られた架空のドラマです。登場人物は架空の人物であり、物語はフィクションであり、ここで起こる出来事はつくられたものです。」
つまり映画『アステロイド・シティ』は、架空の劇作品や、それを制作・上演する架空の過程が、テレビ番組という大きな枠の中に納まっているのだ。
なぜテレビなのか。ひとつには、1955年という設定が関わっているだろう。
1955年、なんとも絶妙な時期である。
戦後、アメリカでテレビ放送が本格化する。テレビ受像機購入数は1950年代にかけて右肩あがりで、1955年は約6割の世帯で少なくとも1台はテレビがあった。テレビは演劇や映画、ラジオといった既存の媒体に対して脅威とも刺激ともなった。とくに当時演劇界で席巻していたメソッド演技法(*)は、小さなテレビ受像機と小さなスタジオに相応しいドラマのスタイルの確立に寄与した。
*──アメリカの演出家・演技指導者であるリー・ストラスバーグらによって、1940年代にニューヨークの演劇で確立・体系化された演技法・演劇理論。ロシアの演出家コンスタンチン・スタニスラフスキーによって提唱されたスタニスラフスキー・システムの原則と方式に基づき、役柄の内面に注目し、感情を追体験することなどによって、それ以前の誇張された演技より自然でリアリステックな表現を行うことが目指された。
さらに1955年はテレビ自体が変わりつつある時代だった。東海岸拠点の生放送中心の体制から、西海岸拠点の録画放送中心の体制へ1950年代の間にテレビ業界は変容する。生放送のドラマやバラエティ番組は下火となり、シットコムや連続ドラマが席巻する。
映画『アステロイド・シティ』は、テレビがラジオ・演劇・映画、ライブと録画、東海岸と西海岸が交錯する場であった時代が背景となっている。だが、本作におけるテレビというギミックは、時代設定のみに関わるものなのだろうか。確かに、砂漠の町で繰り広げられる狂騒が描かれる《アステロイド・シティ》では、テレビとの関係がわかりやすく示されているわけではない。それでも、テレビのために作られた架空の演劇作品には、テレビ的なレファレンスやモチーフが散りばめられ、テレビ的な構成で成立している。
まず舞台となる砂漠に、テレビとの間接的なつながりを見出すことができる。
隕石落下の衝撃をいまに伝える巨大なクレーター、風雨にさらされた巨岩や巨石、すっくと立つサボテン、ユニークな歩行を見せるトリ……。作中の砂漠からは、年月のなかで独特の生態系や環境が築かれてきたことが窺える。
しかし、のどかなばかりではない。土地の権利は自動販売機でカジュアルに売買され(アメリカ史に思いを馳せれば、そもそも先住民から土地を剥奪し彼らを虐殺した土地であろうことは推察される)、軍が統括する土地では巨大パラボラアンテナが天空に向かって立つ。詳細不明のカーチェイスが断続的に起こり、核実験の雲が遠くに、だが大きく立ち上る。戦後アメリカを駆動する大地と宇宙双方への開拓・開発ムード、そして未知なるものや異質なるものへのパラノイアが、アステロイド・シティにも浸透していることが窺える(だからこそ、きのこ雲がゾッとするほどあっさり描かれていると言える)。そして経済的・軍事的に吸い尽くされ、砂漠が遠からぬうちに荒廃する可能性もうっすら予感させる。
この荒れ地という近未来像は、テレビの近未来を想起させる。1961年、連邦通信委員会委員長に就任したニュートン・ミノーは、テレビを「広大なる荒れ地」(“Vast Wasteland”) と表現した。視聴率と広告効果を追い求めるあまり、番組内容の質が置き去りとなり、視聴覚への刺激が過多となっている状況への懸念表明が主眼である。テレビ研究ではしばしば、1960年代アメリカのテレビ業界を象徴するフレーズとして「広大なる荒れ地」は用いられるが、スピーチが1961年なことを思えば、ミノーが嘆いたテレビの荒廃的状況は1950年代からすでに始まっていたと推察できる。
テレビという補助線を引いてみると、砂漠の町アステロイド・シティが帯びる不穏さは、アメリカ社会の抱える政治的・経済的・軍事的不穏さだけでなく、テレビの抱える不穏さとも結びついている。
砂漠の町がテレビ的というのは、荒れ地という未来像と結びつくだけではない。砂漠で起こる出来事も、テレビ的に描かれていく。
町では様々な出来事が同時多発的に起こるが、脈絡に欠く場合も少なくなく、大方はさしたる解決も発展もないまま次の場面へ流れる。たとえばジュニア科学者の成果を称える授賞式に、前触れなく宇宙人が到来して隕石を持ち去るのだが、宇宙人の目的は描かれない。宇宙人にとっては理由があるのかもしれないが、地球人にとっては虚をつかれる出来事である。軍指揮下の封鎖がとうとう解除される前夜にも、再び宇宙人が予告なく訪れて隕石を戻し去っていく。隕石には記号が彫られているが解読は困難で、やはり目的や理由は不明である。あわや再び隔離措置かと思われるが、翌日には何事もなかったように町は日常に戻り、授賞式出席者らは帰路についている。
流されるまま運ばれるという構成は、テレビとの近接性を感じさせる。レイモンド・ウィリアムズの言うところの「フロー」を使用することが適切かはさておき、アメリカのテレビ放送では決定的なピリオドが打たれないまま進行していくことは常態である。中途半端でも、脈絡があろうとなかろうと、次のコーナー、次のCM、次の番組へ。いつの間にか終わり、いつの間にか次へ。種々の出来事がなし崩しに進行する《アステロイド・シティ》の世界は、ひとつの大きなテレビである。
テレビのように事物が流れる世界で、子供たちは科学技術を駆使して状況の打破を試みる。天文学者ヒッケンルーパー(ティルダ・スウィントン)はジュニア科学者たちを鼓舞する。保護者たちも、子供たちの開発したマシンを用いて軍に抵抗を示す。しかし、主体的に行動するキャラクターばかりではない。むしろ、ままならない流れに身を委ねる姿が描かれる者もいる。ジュニア科学者ウッドロウ(ジェイク・ライアン)の保護者、オーギー・スティーンベック(ジェイソン・シュワルツマン)である。
戦場記者オーギーはカメラを手放さず、アステロイド・シティでもシャッターを切る。きのこ雲、女優ミッジ・キャンベル(スカーレット・ヨハンソン)と娘ダイナ(グレイス・エドワーズ)の横顔、そしてポーズをとる宇宙人…。到着時のオーギーを悩ませているのは、3週間前に妻が亡くなったことを、4人の子供たちにいつどのように伝えるかである。オーギーの人物像を整理すると、写真家としても夫としても保護者としても、どのようなタイミングで何を為すべきか統御を試みていると言える。
しかし、オーギーは統御の手綱を徐々に緩める。劇序盤、自動車が大破し、義父スタンリーへ迎えに来るよう電話をかけたオーギーは、子供たちに母親の死を伝えるよう咎められる。オーギーは「ちょうど良いタイミングなんてないですよ」とぼやくが、スタンリー(トム・ハンクス)から「タイミングはいつだって悪い」と反論される。するとオーギーは、電話を切るや否や子供たちに妻の病死を報告する。スタンリーにたしなめられてもなお、オーギーは秘め続けることはできただろう。少なくともジュニア宇宙科学者の式典が終わるまでは、あるいはスタンリーがアステロイド・シティに到着するまでは。しかしオーギーは、子供たちからしてみれば唐突に、3週間前に死去した妻の遺灰をタッパーウェアに入れて持ち歩いていることを告白する。一連のオーギーの行動からは、彼が統御を一瞬保留し、スタンリーに叱咤された勢いに身を委ねているように見える。
ほかにも、隣のコテージに滞在するミッジから、参考に怒りを見せるよう言われたオーギーは、コテージに吊るした暗室用ランプを破壊する。他者からの求めに流されるように統御を一瞬手放し、オーギーは過激な行動へ飛躍してしまう。
こうした飛躍の際たるものは、一度目の宇宙人到来後に負う火傷である。軍の命令で人びとはアステロイド・シティに留め置かれる。オーギーはミッジと交流を深めつつあり、すでに夜をともにしているが、決定的な関係の変化には至っていない。何もかもが宙ぶらりんの状況で、ミッジと窓越しに会話していたオーギーは、左手を調理用ヒーターに当ててしまう。オーギーの行動は、ミッジにとってもオーギーにとっても唐突なものである。
オーギーの突飛な行動は宇宙人到来ほどの騒ぎは招かない。ひとり抱えこんでいた状態から家族やミッジといった他者とのつながりを結び直す契機となっているものの、ドラマティックな和解や決裂は生じない。だからこそテレビ的なのである。流れに身を委ねることで次のフェーズへ運ばれるという機序において、オーギーはテレビに結びついている。
映画『アステロイド・シティ』は、テレビ番組の中でバックステージと劇作品が包摂されている。両者は基本的に切り離されているが、映画が進むにつれてその境界が曖昧になっていく瞬間が断続的に生じる。そのうちのひとつが、オーギー役の俳優ジョーンズ・ホール(ジェイソン・シュワルツマン)が劇中で混乱を吐露する場面である。
ジェームズ・ディーンをはじめ1950年代に頭角を現した俳優たちを投影したと思しきジョーンズは、キャラクターの背景や行動原理を詰める演技スタイルを採用する。そんな彼にしたら、オーギーの行動は役作りのヒントとなり難い。二度目の宇宙人到来の最中、とうとうジョーンズは「なぜ火傷したかわからない」とこぼし、バックステージへ戻り演出家シューベルトに詰め寄ってしまう。ここから、アステロイド・シティ到着時のオーギーのようにジョーンズも統御の手綱をぎゅっと握り、どのようなキャラクターをどのように表現するかコントロールを試みていることがわかる。ここにきてテレビと演劇との亀裂が浮かび上がる。
しかしシューベルトはジョーンズに、そのまま演じればオーギーになると諭す。俳優が理由や背景を全て把握している必要はなく、演技プランを細かく詰める必要もなく、戯曲の流れに身を任せるように、という意味だと解釈できる。シューベルトはカザンを想起させる人物だが、シューベルトの演技論はカザンのそれとは異なるように思われる。むしろ、オーギーがそうであったようにジョーンズにも手放すよう促している。
シューベルトの演技論は、劇《アステロイド・シティ》でも基盤となっている。このことは、俳優と演技講師、演出家、作家がテーマやヴィジョンを討論する終盤の場面で示唆される。討論の中で眠りや目覚めの演技に話が及ぶと、俳優たちは一斉に眠りの演技を披露する。体勢や表情は弛緩しているが、コントロールされた弛緩であることは明らかである(夢遊病の演技をする者もいる)。講師ソルツバーグはシューベルトに、眠る場面を演じた経験があるかを問う。シューベルトは一度本当に眠り、出番の前に目覚めて事なきを得たと語る。すると俳優たちは一斉に演技から戻り「眠らなければ目覚めることもない」(あるいは「目覚めるためには眠らなければならない」)というチャントを叫び続ける。
叫びを文字通りに受け止めると、目覚めの演技のためには実際眠らなければならないという意味となる。「なりきる」ことを追究する(単純化された)メソッド演技の理念表明に聞こえる。他方、目覚めという新たなフェーズへ進むには眠りに身を委ね、主体性や意識を手放さなければならないとも聞こえる。これはシューベルトが伝えた演技論や、オーギーの描かれ方にも通じるものであり、劇作品《アステロイド・シティ》のテレビ的な在り方へとつながる。
「眠らなければ目覚めることもない」というチャントは、いかにもメソッド演技的な題目を唱えているようで、テレビに相応しい演じる身体とは何かを言い当ててもいる。
映画『アステロイド・シティ』は、演劇《アステロイド・シティ》のエピローグで締めくくられる。二度目の宇宙人来訪から一夜が明け、オーギーは目を覚ます。町は閑散とし、他の者たちは去ったことが知らされる。宇宙人が再びやってきたからといって、特に世界は変わり果てていない。しかし息子ウッドロウは奨学金をいつの間にか受けとり、すでに次の研究計画を練っている。ミッジの私書箱のアドレスをオーギーは受け取り、つながりが途切れていないこと、さらなる変化の可能性が残されていることを知る。眠り、目覚め、気づいたら進んでいる。そのことをオーギーたちは静かに受け止め、俳優ジョーンズが顔を覗かせることはもはやない。
オーギーと子供たちはスタンリーの車に乗り、砂漠の町を後にする。たとえこれからままならないことに見舞われようとも、彼らは、オーギーは、流れに身を任せながらどうにか乗り切るだろう。そんな予感に満ちた結末である。
身を委ね、手放し、それにより先へ運ばれていくのを受け入れる。それはテレビという仕掛けが彼らに授けた希望である。
【参考文献】
・レイモンド・ウィリアムズ『テレビジョン テクノロジーと文化の形成』ミネルヴァ書房、2020年。
・小代有希子『テレビジョンの文化史 – 日米は「魔法の箱」にどんな夢を見たのか』明石書店、2022年。
・Boddy, William. Fifties Television: The Industry and Its Critics. University of Illinois Press, 1993.
・Hilmes, Michele, ed. The Television Story Book. BFI Publishers, 2003.
『アステロイド・シティ』
9月1日 TOHOシネマズシャンテ、渋谷ホワイトシネクイント他全国ロードショー
監督&脚本&原案&製作:ウェス・アンダーソン
出演:ジェイソン・シュワルツマン、スカーレット・ヨハンソン、トム・ハンクス、ティルダ・スウィントンほか
原案:ロマン・コッポラ
2023年/アメリカ/カラー・モノクロ/スコープサイズ/英語/104分/字幕翻訳:石田泰子/原題:Asteroid City
https://asteroidcity-movie.com/