AOMORI GOKAN アートフェス 2024「つらなりのはらっぱ」が開幕した。青森県内にある現代美術を楽しめる5つの美術館・アートセンター(青森県立美術館、青森公立大学 国際芸術センター青森、弘前れんが倉庫美術館、八戸市美術館、十和田市現代美術館)を中心に9月1日まで開催される。
「AOMORI GOKAN アートフェス」の最大の特徴は、ディレクターを置かないこと。5つの美術館・アートセンターで活動するキュレーターたちが、館の特徴を生かしてテーマに沿った展示を企画する。テーマは「つらなりのはらっぱ」。美術館やアートセンターが「はらっぱ」として機能することで、個性的な活動のつらなりから新たな関係性が紡がれていくという願いが込められている。キュレーターたちは「つらなりのはらっぱ」をいかに解釈して、どんな場が立ち上がったのか。青森で見てきた風景をレポートしたい。
「つらなりのはらっぱ」は、青森県立美術館を設計した青木淳の「あらかじめ目的が決まっておらず、使う人によって場が立ち上がっていく」という「原っぱ」論が援用されている。青森県立美術館のメイン企画「かさなりとまじわり」 では、美術館全体を「はらっぱ」にしてエントランス、コミュニティギャラリー、屋外ヤードも展示空間として活用。訪れる人が散策するようにアートに触れられる。目印は、青木淳制作のりんご箱のオブジェ。時には展示室への看板になり、ベンチのように憩う場所にもなるオブジェからはほのかに木の香りが漂ってくる。
「自然は必ずしも人間から切り離された存在ではなく、人間との関係のなかで育まれる自然や、自然との関係の中でどのように人間の生活が影響を受けるのかを考えたい」と語るのは、弘前レンガ倉庫美術館館長の木村絵理子。メイン企画は、花や金魚など、人間の都市生活に近い自然の撮影を続けてきた「蜷川実花展 with EiM: 儚(はかな)くも煌(きら)めく境界」。
心に残ったのは、父である蜷川幸雄が亡くなった日に撮影された写真と言葉の作品群《うつくしい日々》。静かな写真と言葉、「亡くなったという知らせを聞いた時に、何げなく撮影した風景にも死の気配を感じた」というエピソードから、生きること死ぬことも自然の営みの一部であることが伝わってくる。クライマックスは、撮影の旅で出会った弘前の桜。人と共に生きてきた桜の一瞬のなかにある永遠が迫ってくる。
「弘前エクスチェンジ#06『白神覗見考』」は、青森県と秋田県の県境に位置し、古くから人と関わり、30年前に世界自然遺産に制定された「白神山地」がテーマのリサーチ・プロジェクト。永沢碧衣《山塊を満たす》は、白神山地のブナの木を岩木川で弘前まで運んでいた風景、温暖化に伴い北上したニホンジカ、津軽ダム建設のため移転した砂子瀬地域などの風景が重ねて描かれる。
美術館建物前の土淵川吉野町緑地にある狩野哲郎《あいまいな地図、明確なテリトリー》は、りんご畑で伐採された木、りんごの受粉を助ける生きたマメコバチの入った巣、りんご箱などリサーチで出会った素材を組み合わせる。「人は境界線を引くが、動物にとっては境界線は関係ない。でも、縄張りは決まっているかもしれない」という狩野の言葉の通り、カラスに食べられる事件も発生。もう少し暖かくなると、マメコバチは活動しはじめる。まさに「はらっぱ」のように、関係性が生まれていく。
青森公立大学 国際芸術センター青森(ACAC)は、安藤忠雄建築の円形をした、滞在制作できるアートセンター。ACACを「はらっぱ」として考えたときに、「アーティストが滞在制作するACACは様々な流れを受け止める巨大な円形の装置みたいな場所」と語るキュレーターの慶野結香。メイン企画「currents / undercurrents -いま、めくるめく流れは出会って」では、現在という意味を持ちながら、海流、気流、電流などの流れも意味する『currents』と、目に見えない歴史や記憶『undercurrents』に着目し、青森という場所で変化し続ける今を問う。
展示室外の水辺に設置されている光岡幸一《ししおどし⦆の音に驚く。津軽民謡を教わり、独特のこぶしが口の中の空洞で声を回転させることを知った光岡。何分かに一度、水が吸い上げられ、大きな音を立てて水しぶきが舞う。
介護者のためコロナ禍で人と会えず、親しい友人の死去を遅れて知ったという中嶋幸治。青森在住、りんご農園で働く中嶋は「りんごの花を見てみたい」という友人との約束を果たすために、追悼の旅へ向かう。花をにぎりしめたこぶしを10分間に一度撮影。
地域で集めた家具や古道具を材料に作品をつくる青野文昭。譲られた長持からミサイルを連想。つねに収奪され支配されてきた東北の歴史、核処理施設や青森三沢基地、歴史と現在の状況や記憶が交差していく。
緊急事態宣言の頃に福島から青森の桜を撮影し、かつて桜の頃に亡くなった妹を思い出したという岩根愛《忘れたことを忘れる》は、満開の桜に妹の写真が投影されている。
AOMORI GOKAN アートフェスメインビジュアルでもある《The Opening》は、岩根が高校時代を過ごしたカリフォルニア北部マトール川が秋に雨が降り出すと決壊し、海と混ざる地点をドローンで撮影。渦を巻き、白波が立つ映像を眺めながら、様々な流れの中でいまこの場に流れ着いていることの不思議さに思いを馳せる。
「人間が自然にしてきたことを根本的に考え直すためには、近代的な主体としての人間のあり方を壊し、新たに作り直す必要がある」と語る、十和田市現代美術館キュレーターの外山有茉。「野良になる」では、排除された存在に目を向け、野生でも飼われるのでもない「野良」として、近代化された人と自然の関係を問い直す。
「文明化された社会は、綺麗で安全な場所に思えるかもしれないけれども、その裏に残酷さや犠牲になったものがある」という丹羽海子。害虫として駆除される存在であり、丹羽の孤独の象徴でもあるコオロギが、ゴミでできた街を行き交う。
䑓原蓉子は、青森や日常生活のなかで感じる自然をテキスタイルで表現。「ウールは呼吸して、気温や湿気で変化する。途中であることが自然でもある」という言葉から、自らも自然の一部として関わるあり方が伺える。
永田康祐によるアニメーション作品《鮭になる》は、養殖場の鮭の視点から見た世界を描いた作品。現代的なシステムの中では、人も飼いならされていることなど「飼い/飼われるもの」という関係性をユーモアと共にずらす。
著者がいちばん感銘を受けたのは、アナイス・カレニン《植物であったことはない》。複雑な世界に生きる植物との関係を問い直し、新しいコミュニケーションを探る。タイトルには、植物は自分自身を植物と思ったことはなく、近代化の中で人が植物を分類したこと。人間自身も近代化の流れの中で自らを植物でも動物でもない「人間」と言ってきたという意味が込められる。中庭には、リサーチで出会った植物が植生され、植物を生活の一部として生きてきたアイヌの呼び名が音に変換されスピーカーから流れる。その音を聞きながら植物たちが育っていく。
八戸市美術館の中心にある大きな吹き抜けの「ジャイアントルーム」。ここでは「アートファーマー」という美術館に関わる市民活動が行われており「出会いと学びのアートファーム」という館のコンセプトを象徴している。そうした活動はまさに「はらっぱ」のようであるとして、メイン企画「エンジョイ!アートファーム!!」を実施。「ジャイアントルーム」を舞台に八戸を拠点に活動する5人のアーティストが期間中「いつ来ても何かが起きている」作品制作を展開する。それぞれの活動は、訪れた人とともにどんどん変化しまざり合いながら、風景が立ち上がっていく。
青森で活動する美術館・アートセンターのキュレーターが展示をつくることで、テーマへの向き合いかたを通してそれぞれの美術館の特徴や大切にしていることが見えてくる。それは、芸術祭を通して、作品だけでなく、美術館に出会いなおすという新しい体験でもあった。メイン展示を見た後に、常設展・コレクション展にも足を運びたい。
また、AOMORI GOKAN アートフェス 2024は、会期中に展示がどんどん変わっていく。八戸市美術館はワークインプログレスで日々変わり、ACACでは、前期と後期で展示内容が変化する。また、6月中旬以降から親子を対象とした鑑賞ツールの配布や、8月後半から共通企画として、栗林隆《元気炉》が開催館を巡回する。おとずれる人と共に、日々変化し、違う顔を見せる「はらっぱ」としての美術館は、これからの美術館の可能性をひらくものでもあると強く感じた。
何度も訪れて、個性豊かな青森の現代美術館・アートセンターの魅力に出会いなおしてほしい。その度に「はらっぱ」の風景は新しく立ち上がっていく。