アルフレド・ジャー。背景の作品は《われらの狂気を生き延びる道を教えよ》(1995-2023)
広島、長崎への原爆投下から今年で78年。世界からその記憶が風化しゆくいまこそ見るべき展覧会「第11回ヒロシマ賞受賞記念 アルフレド・ジャー展」が、広島市現代美術館でスタートした。会期は7月22日~10月15日。担当学芸員は洲濱元子。
世界最初の被爆地である広島市は、世界の恒久平和と人類の繁栄を願う「ヒロシマの心」を美術を通して世界へ訴えることを目的とし、1989年にヒロシマ賞を創設。三宅一生、ロバート・ラウシェンバーグ、ダニエル・リベスキンド、蔡國強、オノ・ヨーコらに3年に1度授与してきた。本展は、その11回受賞者となったアルフレド・ジャーの受賞記念展となる。
アルフレド・ジャーは1956年チリのサンティアゴ生まれ。建築と映像制作を学んだ後82年に渡米し、以後ニューヨークを拠点に活動。80年代半ばに写真とライトボックスを用いた作品や屋外の広告掲示板を用いた作品を発表し、一躍注目を集めた。世界各地で起きた歴史的な事件や悲劇、社会的な不均衡に対して、綿密な調査に基づくジャーナリスティックな視点を持って作品化。写真、映像、建築的な空間造形を伴った、五感に訴えかけるようなインスタレーションを手がけてきた。会場で自己紹介を行なったジャーは自身を「アートを作る建築家」と表現した。
通常、大規模な個展においてプレス内覧会の作品レクチャーは担当学芸員によって行われることが多いが、今回は作家たっての希望でジャー本人が作品を解説するというサプライズが。個々の作品を熱心に解説する姿からは、人々にその内容と思いを伝えたいという思いが強く感じられた。
本展には9作品が出品されるが、6作品が広島を題材としたもので、そのうち5点は今回新たに制作されたものだ。展覧会はネオンの作品《われらの狂気を生き延びる道を教えよ》(1995-2023)で幕を開ける。
本作のタイトルは、詩人W.H.オーデンの英語の詩句の一節を翻訳した、小説家・大江健三郎による短編集の表題『われらの狂気を生き延びる道を教えよ』(1966)に由来する。ジャーは1995年、広島市現代美術館で行われた被爆50周年記念展「ヒロシマ以後」参加のため広島を知るなかで、大江とその息子の光について知り、著書のタイトルをネオン作品として制作した。なぜこの言葉を選んだかについてジャーは、「大江さんは、自分たちの世代は失敗してしまったが、核の時代を生き延びる道を示すことができるのは息子たち(未来の子供たち)であり、変えていってほしいというメッセージを示しました」として、その言葉に共感し、祈りやパワーを包含するこのタイトルを用いたと語った。強烈な印象を放つ言葉だが、現在の私たちがネオンの明かりに見るのは希望か、諦念か。
本作には「TEACH US TO OUTGROW OUR MADNESS」と書かれた、W.H.オーデンの英語の詩句版もある。どちらのネオン作品も白を基調に赤色がアクセントとして使われているが、これはジャーが敬愛し、大量のポスターもコレクションしているという田中一光のデザインからインスパイアされたものだという。本作を説明する際、ジャーは「作品を作るうえで考えていることは、情報と詩のバランス。情報過多だと退屈。詩が多いとスイートでドラマチックすぎる。このバランスを大事にしています」と自身のポリシーを明かした。
《広島、長崎、福島》(2020)は3つの時計が並ぶ作品。地名と時計の組み合わせでピンとくる方も多いと思うが、左の時計が広島への原爆投下、中央の時計が長崎への原爆投下、右の時計が東日本大震災の発生時刻を示している。長針と短針は停止しているが、糸のように細い秒針は時を刻み続けており、これは「惨状の後も人生は続く」というメッセージであると同時に、世界の脆弱さを示しているのだという。「この地球を滅ぼすには14の核兵器があれば足りると言われていますが、いま世界には1万個以上の核兵器があります。世界はきわめて脆弱な状況にあると言えるでしょう」とジャー。
《生ましめんかな》(2023)は、広島で被爆し、生涯を通じて反核を訴えた詩人の栗原貞子の代表作の題名に由来する。暗闇の中に「生ましめんかな」の文字が浮かび上がって消え、次に「9」から「0」へ数字のカウントダウンが浮かび上がり、最後に「0」が上から下に降り注ぐように点滅する。ジャーは本作について「惨劇のなかでも命は生まれるという栗原さんの詩を読み、惨劇を数学的に表したいと思った。数字のカウントダウンは命が消えていく様子、広島と長崎で亡くなった多くの方々を表しています」と説明。自身も被爆者である栗原が伝え聞いた話をもとに作った詩『生ましめんかな』は検索すればネット上でも読めるため、一読することをおすすめしたい。
暗闇の中でさらに歩みを進めると、横10mのスクリーンの作品《ヒロシマ、ヒロシマ》(2023)が現れる。スクリーンには上空からドローン撮影した現在の広島市内の映像が映し出され、カメラの視点は原爆ドームの真上で停止し、下降していく。筆者は原爆ドームを真上から見たことがなかったため「こんなふうになっているのか」と感慨深く眺めていると突然、スクリーンの幕が引き上げられ、数台の大型サーキュレーターが現れこちらに強風を吹き付けてくるという仕掛けが。
予期せぬ出来事に驚くと同時に、それは直感的に原爆落下時の衝撃波を思い起こさせるものだった。ジャーは「本作は次の核戦争を示唆し、核の実態も表しています。ロシアのウクライナ侵攻に際して“核兵器を使ってもいいのではないか”と言う声もあがっているが、それは罪深く無責任なこと」と語気を強めた。
死の匂いが色濃い作品が続くが次の作品は一転、自然光で満たされた明るい空間で平和的な作品が展示される。《音楽(私の知るすべてを、私は息子が生まれた日に学んだ)》(2013-14/2020-23)は、本展のために特別に木が植栽され、緑色が基調のパビリオンと化した光庭で、特定の時間になると新生児の泣き声が響き渡るというもの。広島市内の病院の協力を得て録音された、出産直後の82名の新生児の産声が使用されている。「命が生まれることに比べるとアーティストができることは力が及ばない。人間が生まれる美しさを何も超えることはできないという告白でもある」とジャー。惨劇は続く。でも、生きることを祝福しようという力強いメッセージが伝わってくる空間になっていた。
展覧会は2部構成のようになっており、ここまでは広島がテーマの作品で、次の3作品はジャーの代表作となる。
《100のグエン》(1994)は、1991年にジャーが香港の難民収容所で出会ったグエン・ティ・トゥイというベトナム人少女をモデルとした作品。「私は香港で1400枚くらいの写真を撮りましたが、大切な写真はこの4枚だけ。少女は最初は微笑んでいるけど頑張って笑おうとして、最後は悲しさも見える。現在地球上に1億人ほどいるとされる難民は増え続けているが、彼らはただの“数”ではなくストーリーのある人間であることを忘れないでほしい」と、本作のコンセプトについてジャーは説明。4枚が1セットとなった少女の写真は様々な順序で展示されている。
なお、本作の真横が前述の《音楽(私の知るすべてを、私は息子が生まれた日に学んだ)》の空間で、ときおり産声も漏れ聞こえてくる。その音を聞きながら展示を見ていると、難民、被災者、戦没者など、一括りにされた人々のそれぞれの生が現前するようで、少女の笑顔と裏腹に胸が詰まる。
《サウンド・オブ・サイレンス》(2006)は、蛍光灯が煌々と周囲を照らすインスタレーション作品だが、その中では、報道写真家ケビン・カーターによるピューリッツァー賞を受賞した有名な写真とそれにまつわるエピソードが紹介される。本展最後の作品《シャドウズ》(2014)も同じく報道写真がもとになっており、オランダの写真家のコーエン・ウェッシングが撮影した、ひとりの農夫の殺害事件後の一連の写真を中心に構成。展示の最後はその死を嘆き悲しむふたりの娘のシルエットが目の眩むような光量によって浮かび上がるインスタレーションになっており、ふたりのシルエットの残像がしばらく目の前に残る。「この少女たちの苦しみ、悲しみをみなさんのお腹の底から感じてほしい」とジャー。
ジャーは自身の作品の成り立ちについて次のように語った。「重要なストラテジーだと思うのは、ひとつのアイデアの力。ひとつのアイデアにフォーカスするのが大事で、それはミニマリストの美学でもあります」。とかく情報過多になりがちな現代においてはそうした手法はメッセージを鮮烈に照射する手段となる。本展から浮かび上がるのは、惨状の背景にある死と生への希望。美術作品は「われらの狂気を生き延びる道」のひとつとなるだろうか?
野路千晶(編集部)
野路千晶(編集部)